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刀京~ blade city~  作者: 久我太刀
7/11

悪夢

見れば空は青白い。あの電灯ほどではないが、眠気を散らす程度には強い。

事務所に備え付けたソファに倒れ込み、束の間の惰眠を貪った俺は覚醒した。

あれから夜通しで追手を確認しながら逃げ続け、二時間前にようやく帰宅した。

今日一日はいろいろなことがありすぎた。パンクする前に思考をリセットしたかった。

睡眠は中々効果的で、昨晩の男の事を考えられるようになった。

「直刀での居合……体幹を使った抜刀か……」

そう結論付けざるを得ない。いつ抜いたのかもわからぬ抜刀。

抜刀というモーションは鞘を固定し、引き抜くというものが基本だ。

だが、抜刀のタイミングで鞘も又後方にスライドさせたなら、刀身の出現は速くなる。

無論それだけではあの刺突の説明がつかない。引き抜きが、刺突に繋がったのだ。

肩と肘の関節を巧みに使い、手首のスナップで刀の軌道を瞬時に変える。

言葉にするのは簡単で、はたから見れば刀身のない刀を突き出しただけに見えるはずだ。

それ程に早い。速く、ただ疾い。

言うなればあの男の場合、腰に刀がある時点ですでに抜刀しているといってよい。

鞘から抜き去った時、それは既に次の技の入り段階である。

「…なんだそれは」

理論上は可能だが、現実的ではない。

居合の熟練者の抜刀も早いが、それはある程度鞘から刀身を抜いた状態で繰り出す。

完全に収められた状態でそれを再現できる者など、歴史上にはまだいない。

それをなしうる猛者。つくづく、逃げて正解だった。

「そう、俺は、逃げたんだよな」

何故か、逃げた。

閃士郎へのこだわりが、眼前にあの男を見出した。

恐らくはあの男こそ東京で閃士郎紛いの殺しをしている人間だろう。

あの腕ならば、兜割りを一切の乱れなく達することもできるだろう。

そこまで理解していながら、俺は、逃げた。

臆病風に吹かれたからではない。かといって命を投げ出そうとしたわけでもない。

『雲海』を繰り出す直前まで、俺はあの男を殺す気でいた。

だが、なにか、見えざる力というべきものに引っ張られ、俺は撤退を選んでいた。

「自分のことなのに、わからない」

やはりまだ睡眠が足りないのか。

そう結論付け、書類を頭に被せて日光避けとし、再度俺は眠ることにした。


眼前に男が倒れていた。

力なく膝をつき、神に嘆くように上半身を仰け反らせた男。

その体は、悔恨と憐憫と慟哭を示していた。

だが顔は、何を語る訳でもなく虚空だった。

顔は二つに割られていた。ぱっくりと、一切の乱れなく。

首元まで断たれた二つのソレは、肩に垂れさがっていた。

『花が咲いたようだね』

誰かの声。

『咲かせたんだ。君が』

声の在り処を求めて周囲を見渡す。

そして気付いた、ここは地獄だ。

見渡す限り赤黒い大地。暗雲の向こうに太陽は無く、肉と骨が焦げる匂いがする。

ぱちぱちと、焔が音を立てて死骸を呑み込み、骨を割る音がする。

『これを作ったのは君だ』

ああ、そうか。

これは他ならぬ私の所業か。

不思議と疑念は無かった。当然の事だろうと、妙に納得する。

こんなに殺したか。

『これから殺すのさ』

右手の『それ』が脈動する。

呼応するかのように私の右手も脈動し、体は『それ』に支配される。

この感覚は知っている。

『それ』を握り込み、私は歩き出す。

眼前に、死の地平の中に一つ、丘が見える。

その上にはきっと次の人間がいるのだろう。

この男を殺したように、殺さねばならない。

男の死骸を通り過ぎるとき、ふと男と目が逢った。

分断された片側、己の型によりかかりながら、男は私を見た。

『また殺す。君が俺にそうしたようにね』

兄はそう言い、自重に耐えきれず二つの首を揺らしながら地に倒れ伏した。


泥水の様なコーヒーを流し込んでも、血の風景は脳裏に焼き付いたままだ。

だが奇妙なことに、コーヒーは俺の心の平穏を取り戻した。

夢の中。心象風景とも言うべきそれは、濃密な情報量で俺を圧迫した。

起きてすぐはその波にのまれて取り乱したものの、今は幾分落ち着いている。

夢は、それがどんな内容であれ、目覚めれば泡沫となり思いを馳せることすらできる。

俺は夢の中で、『それ』を、つまりは『これ』を握っていた。

『それ』、即ち夢幻は何も語らず、俺の右手にあった。

こんなものを握っていたがために、あんな夢を見たのだろうか。

それとも、昨日、殺人現場を見たからであろうか。

将又、あの男にあってしまったからだろうか。

「全部かな」

コーヒーを飲み乾し、流しに放り、眠気を払うように伸びをした。

背骨のあたりがぐりり、と音を立て定められた場所に収まった感触を得る。

さて、これから俺は何をするべきか。

一先ずは昨日行くことが叶わなかった東警の署に行くべきだろう。

百鬼の言う通り、この事件に東警が一枚かんでないとも言えない。

昨日の殺人もとっくにファイリングしているだろうし、高山から受け取ればいい。

そうと決まれば、まずは身形を整えるべくシャワー室に向かった。

ズボンとシャツを脱ぎ棄て、水道管がむき出しになったシャワーのバブルを空ける。

ごぼり。

鈍い音を立て、一瞬のタイムラグの後に放水が身を濡らした。

水量は一定ではないし、水しか出ないというのが難点だが、文句はいえまい。

バスタブは嘗てあったのだろうが取り外され、その分広い浴室となっている。

元は舶千会の営業所の一つだったらしい。若い衆は風呂につかる習慣が無かったのか。

石鹸を泡立て、まず頭を洗う。

ルカは嘗てこれを見て卒倒していた。女がただの石鹸で頭を洗うのはあり得ないらしい。

石鹸以外を使ったことのない俺からしてみれば、じゃあどうすればいいんだと思うが。

毛先を擦り合わせて埃と汚れを排出すると、泡とともに排水溝に吸い込まれていった。

そろそろ髪を切ろうか。気付けば背中を過ぎ、腰に達しようかというほどに伸びていた。

普段は結わえて後ろに下げていたから気に留めなかったが、長すぎると洗うのが手間だ。

何より、これからこの事件に首を突っ込んでいくというのに挑発は危険というのもある。

視界に髪が僅かでもかかれば、その間隙を突かれないとも限らない。

身体全体のバランスを損なわない程度に、せめて背中のあたりくらいまでは切っておこう。

頭を一通り流し終え、手拭いに石鹸を擦りつけ、今度は身体を洗う。

足の裏から膝、膝裏から腰元まで丹念に洗う。汚れを逃さず、角質ごと剥ぎ取っていく。

下半身を洗い上げ、上半身に差し掛かる。機械的に、習慣的に一部分ずつ磨いていく。

自分で言うのもなんだが、これは入浴というよりもメンテナンスに近い。

スナイパーがライフルの清掃と整備を行うのと同じだ。

道具の不備が命取りになる。それはそういった稼業を営む者なら当然の思考である。

俺がこの洗い方になったのは、師匠の教えであるが、刀にするように洗えと言われたものだ。

ルカよりも一回り小さい乳房を下から撫で上げるように拭い、首筋を通り過ぎる。

肩甲骨のあたりまで手拭いを持っていき持ち替えて背中を撫で下ろす。

この工程を数度繰り返し、洗い残しがないことを確認したうえで泡を水で流した。

髪を伝い、肌を呑み込んでいた石鹸の泡を洗い流す。

白く塗られたそこから肌色が露わになり、やがてそれは広がっていく。

許容量を超え、溢れながらも必死に水を飲む排水溝は苦しそうに音を立てている。

ごぽり、ごぽり。

まるで血の泡を吐いているような音だ。

頭を垂れ、流れ出る水に洗い流しを全て任せて俺はその様をただ見下ろしていた。


風呂から上がると同時に俺はソファに投げ捨てられた二本の刀に手をやった。

人こそ切っていないものの、街灯を切り捨てたのだから刃に負担が生じているだろう。

二刀を小脇に抱え、戸棚から大きな風呂敷包みを取り出した。

風呂敷というには厚手のそれを床に敷き、風呂敷の中身を並べ、その中心に座りこむ。

まず取り出したのは春海。一番使い込んでいる刀だ。不調は一番分かるだろう。

鞘から引き抜き、刀身を見上げる。

丸鍛えの極み、ここに在りと言わんばかりの名刀だ。

刃紋は無いが反りと切っ先の鋭さは虎の爪を連想させる。

刃の丁度中心を見やると街灯に使われていた金属の粉がこびり付いていた。

先ずは麻布で表面の汚れをふき取る。金属粉もここで大まかに落としておく。

次に椿油を染みこませた布巾を峰の所で折り込み、切っ先まで掬うように拭いていく。

刃先に手をやらぬように細心の注意を払いつつ反りの部分には手首の角度で対応する。

後は油が刃に馴染むまで寝かせておく。俺にできる事はこれぐらいだ。

春海を横目に、俺は夢幻に手をやった。鞘袋を取り、漆黒の鞘をゆっくり抜き取る。

春海を鋭利な獣の爪と称するなら、夢幻は剣呑な鬼の牙と称すべきか。

鍔から切っ先にかけて少しずつ先細りしているその様は、正しく牙だ。

伝え聞いた話では春海同様の痩せ細った刀身であるべき殺人鬼の有した刀。

だがこれは使い込みの果ての、鎬を削った研ぎ澄みとは違うように思える。

春海も紛れもなく秘中の秘を以てして丹精込め鍛造された一品だろう。

だが、夢幻は感嘆を越え、息を呑む。技巧の果てというよりは自然物のそれに近い。

大自然が幾億年かけて作り出した芸術品の様に感じられるのだ。

だがその実この刀は徹底した理論により構築されている。

素振りとは違う、実際に使用して初めて分かった。

『雲海』を繰り出す際、俺は夢幻を左の逆手で構えた。

柄の中腹より少し下を握り込んだが、重さを感じさせないその刀身に驚愕した。

夢幻は完全なバランスを構成している。正しく握れば重みは皆無に等しい。

両手で握り込んだ時とは全く違うその感覚に、あの時の俺は若干戸惑った。

その名の通り、幻覚の只中に放り込まれたかのような、そんな感覚に襲われた。

ゆめまぼろしの如く、一瞬消失を感じる程の重み。こんなことがあり得るだろうか。

春海同様に金属粉を拭いながら、俺は夢幻の存在に圧倒されていった。

理に叶った造りにも拘らず、人が携わったと思えないほどに完成された姿。

「本当に、人間が作ったものなのか」

恐れ多く、畏怖すら抱く。

「見た目上の問題は無いが、念のために百鬼に渡しておくか」


着替えをすませ、まず向かったのは昨日の現場だ。

東警への通り道である路地裏入り口。予想通りそこにはテープが掛けられていた。

そこから現場を覗くと勿論死体は回収されて残っておらず、赤黒い土が残るのみだった。

ふと入り口の横手を見てみると基礎部分から抜き取られた街灯の根元があった。

引っこ抜いた後また新しく挿すような簡単なつくりではないらしい。

「少し申し訳ないことしたな」

名も知らぬ誰かがこの街灯の世話をすることになる事を考えると、申し訳なくなる。

「まぁ、いいか。ひょっとしたら誰もやらないかもしれないし」

こんな街灯を新しく建替えるとして、誰が金を払うのか。

払われない限りやる者などいはしない。街灯が一本消えた。それだけで終わるだろう。

復興に躍起になっていたあの輝かしき時代はとうに失われた。

街灯をせっせと拵えるようなもの月は恐らくこの東京にはもういないだろう。

「この街はゆっくりと死んでいる」

細胞が新たな細胞を作らぬ限り、宿主は腐り落ちて死んでいく。これは世の摂理だ。

今、東京は生きているのか、死んでいるのか。

唯一つ言える事は、緩やかに過ぎゆく時間の中で、この街は確実に崩壊している。

最近、形ばかりの政府が構造改革をする動きがあるらしいが、無駄に終わるだろう。

敗戦40年の節目とすべく、今こそ戦後復興の熱を取り戻そうというものだ。

瓦礫を掻き分け生き抜く植物が如く力強いスローガンではある。

だが、それだけの事をなしうるほどの力は、もうこの街には無い。

「っと、忘れるところだった」

地下鉄坑内への入り口を探し、そこに向かった。

春海を携え、しかし夢幻は右手に持って。

「まさか一日で戻す羽目になるとは」

まあしかし、これを持って東警に行くのも気が引ける。

高山が目ざとく夢幻を見つけるとどう騒ぎ立てるかわからない。

手入れと調整、何より拗れる事を避けるため、俺は百鬼に夢幻を預けに行った。


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