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-水無月-

 長くなってしまいました。あおいと良夫と聡志が出逢ったものに気づいて下さる事を願って…。最後まで読んで頂けたら嬉しいです。

 あおいは生後一か月になった海人を連れて健診に行った。

 海人はミルクをよく飲み、よく眠り、丸々と大きくなっていた。大声で泣いたが、おむつを替えミルクを飲むと大人しく眠ってくれた。

 夜中の授乳は辛かったが、良夫は進んで協力してくれてあおいは母になった喜びを感じながらひと月を過ごしていた。


 順番を待っていると、同室だった加奈子がやって来た。

「お久しぶり。初めての育児は大変でしょう?」

「本当に…。夫も私も海人に振り回されっぱなしです」

 あおいは腕の中の海人と加奈子の赤ちゃんを交互に見て驚いた。 

 加奈子の抱いた赤ちゃんは、同じ一か月の赤ちゃんと思えないほど小さかった。

 あまりミルクを飲んでくれなくて…と笑った加奈子はやつれて見えた。

 あおいの頭にあの日見た離婚届が浮かんだ。


 健診を終えて、加奈子はタクシーの運転手に実家の住所を告げた。上の娘が両親と実家で待っている。

「健診終わったら帰って来いよ」

 夫の言葉を思い出しながら、ふと、家の中はどうなっているだろうと思った。

 あの家に残してきた物は処分してもいい物ばかりだ。

 結婚アルバム、結婚式のDVD、指輪はたんすの引き出しに入れて来た。自分の荷物と娘の物は少しずつ実家に運んでいた。少しづつ少しづつ物がなくなっている事にすら夫は気づいていなかった。

 娘の荷物すらなくなっている事に夫は気づいているだろうか?

 夫はそんな事には気づいていないと思っている自分を知っている。夫の事を考えると諦観の笑みが浮かんでしまう様になったのはいつ頃からだろうか?

 でも、それももうおしまい。一年かけた加奈子の計画は終わろうとしていた。大成功の名を揚げて…。


 郵送した離婚届はもう届いているはずだった。

 夫からは何の連絡もない。

 5年一緒にいて、結局夫は何も変わらなかった。交際していた時感じた不安は現実になっていた。

 素敵な彼になれない、優しい夫にもなれない、頼れる父にもなれない男と何故結婚したのだろう?


 産まれたばかりの妹をあやす上の娘をみていた。

 これからは三人で生きて行こう。二人の娘には寂しい思いをさせるかもしれないが、それでも、三人なら大丈夫。

 そのために二人目を出産するまで、自分勝手な夫に耐えてきたのだから…。あとは離婚の手続きを済ませば穏やかな日々が待っている。自分勝手に振り回される事のない静かな生活。



 一方的に送られてきた離婚届はずっとテーブルの上に置いてある。

 加奈子は何が不満だというのだろう。

 買って来たコンビニの弁当をレンジに入れようとした時、ケータイが鳴った。

「聡志、今、呑々(ドンドン)で飲もうって集まってんだけど、お前来る?」

「あ、行く行く!」

 煩く言う加奈子は居ない。聡志はテーブルの上の封筒をチラッと見るとそのまま玄関に向かった。


 初めての出産の時も三か月ほど帰って来なかった。今度も同じなのだろうと思っていた。

 だが今度は違うと、署名捺印された離婚届が言っていた。届いた離婚届はテーブルに置きっぱなしだ。

 約束した店に歩っているとケータイが鳴った。着信のメロディが加奈子からだと言っている。

「何だよ、あれ‼ふざけてないで、早く帰って来いよ‼」

「届いているのね?書いたら、早く…」

「いい加減にしろよ!何考えてんだよ」

 聡志の大声にすれ違う人が振り返る。

「戻る気はないから、離婚届送ってちょうだい」

 ケータイから聞こえてくる加奈子の声は抑揚がない。

「あなたが出してくれてもいいのよ。提出したら電話ちょうだい」

「何で俺がそんな事しなきゃいけねぇんだよ!めんどくせ~‼」

「それなら送って」

 加奈子の短い言葉に吐き捨てる様に答えた。

「冗談キツイぞ。なんでもいいから早く帰って来いって。コンビニの弁当は飽きたんだよ。洗濯物もたまってるし、掃除だって…」


 加奈子は電話を切った。

 食事の不満。溜まった洗濯物の心配。汚れているなら掃除位自分ですればいいのに…。

 仕事を言い訳に産まれた娘を見に来ようともしない夫。車なら一時間とかからない所に住んでいるというのに…。

 今更ながらに感じる。私の選択は間違っていない。もう戻れない。

 慰謝料も養育費も要らない。

 私のこれからの人生に聡志は、要らない。



 

 耳元でケータイが鳴っている。頭がガンガンするのはケータイの音のせいなのか、飲み過ぎたせいなのか…。相手を確認して通話ボタンを押す。

「聡志!チョットあんた‼」

 頭に響くお袋の声。

「聡志‼聞いてるの⁉」

「聞いてるよ。静かに話せよ、頭に響くって…」

「また二日酔いなの⁉ホント、あんたって子は」

「寝てたんだって…。寝起きだよ、寝起き」

「ウソつきなさい‼」

 離婚届を無視された加奈子がお袋に電話を入れた事くらい、二日酔いの頭でも容易に想像出来た。

 まるでこの世の終わりみたいにお袋は騒ぎ立て、閉口した俺は「そのうち行くから…」と黙らせた。


「一体何がどうなってるの⁉」

 車を飛ばして実家に帰るなりお袋が俺を問い詰めた。すぐに帰らなかった事もお袋をイライラさせた原因なのだろう。

「俺だって、わかんねぇよ」

「二人目が産まれた途端、離婚だなんて…」

 お袋が大きなため息をついた。

「昌志はあんなになっちゃうし、やっと結婚したお前は5年もたたないうちに離婚だなんて…」

 トイレに行くフリをしてお袋から離れる。

 昌志の一番の理解者はお袋のはず…。


「ただいま…」

 玄関から小さな声がする。

「あ、昌美、おかえり」

 お袋のスリッパの音が響く。

「兄貴離婚するって、何?驚いちゃったよ、ワタシ」

「それがね~」

 二人の会話が台所から途切れ途切れに聞こえてくる。

 のれんを潜って昌志が居間に入って来た。お袋が連絡したらしい。

 何も遠く離れている昌志まで呼びつけなくたって…。

「おかえり。お前も呼ばれたのか?」

「うん。心配だったんでしょ、お母さん」

 見慣れない弟から目を離す。

 

 弟の性同一障害がわかって、妹になった。

 父はうろたえ、母は泣き崩れて三日間寝室にこもっていたが、出て来てからは以前のお袋に戻っていた。弟の障害を一番に受け入れ、弟が女として生まれ変わる事に力を注いだ。

 弟の病院に付添い、役所に足を運び、ローンが終わったばかりの家を売った。

 納得出来ないでいる親父を説き伏せ、中古住宅を買って引っ越しをした。


「兄貴、離婚するんだって?」

「加奈子が離婚届を送って来て…」

 妹がタバコに火を付けた。フィルターに真っ赤な口紅の色が移って俺は目を逸らした。

 弟が妹になった事をまだ受け入れられない。あの日からもう何年も経っているというのに…。


 ワタシは兄貴の離婚の一因になっていないのだろうか?

 もともとあまりこの家には来なかった義姉。ワタシが昌美になってから会ったのは一度だけ…。

 兄貴と来て顔を見せた位で、すぐ二駅先の自分の実家に帰って行ってしまった。

 あの時ワタシが居たからなのかとずっと気になっている。

 

 

「聡志、夕飯の買物をしたいから乗せてってちょうだい」

 しぶしぶ返事をする。いつもは遠慮がちな昌美も行くようだ。近くにあるいつも行くスーパーではなく、少し先の大型スーパーに向かう。

「あんた達が一緒なら買い置きしたい物があるのよ」

 お袋も娘になった次男に気を使っているのだろうか?

「ワタシね、スーパーに就職したの」

 車の中で昌美が言った。大学を2年で中退してからなかなか定職に就けないで居た事をお袋は気にしていた。

「すごく理解のある社長さんでね、一生懸命働かなくちゃって…思ってる」

 母は‘それなら頑張りなさい’と安心した笑顔を見せた。


 スーパーの駐車場に車を止めた兄貴は降りようとしない。

「兄貴、行かないの?」

「やだよ、俺。スーパーで買物なんて格好悪いだろ」

「聡志、加奈子さんと買物行ってたんでしょ?」

「行かないよ、家の中の事は全部加奈子。せっかくの休み、そんな事で潰したくないよ」

‘夏はゴルフ、冬はボードって決めてんだ。春と秋はツーリングか釣り’ と自慢げに言う兄貴を驚いた顔で母が見つめた。ワタシもそして母も気付いた。

 加奈子さんが離婚したかった理由。



 タバコをふかしながら入り口を見ていた。

 何をそんなに買う物があるというのだろう。イライラと何本目かのタバコを叩き潰した時、二人の姿が見えた。山盛りの荷物をお袋と昌美が車に積み始めた。

「兄貴!座っていないで手伝えよ‼」

 昌美のヤツ、頭に来た時は男の声に戻るんだ。

「兄貴ってうちでもそんななの⁉」

「当たり前だろ!俺は仕事してるんだぞ!」

 呆れた様にお袋が言った。

「加奈子さんだって仕事してるでしょ‼子供だって小さいのに…」

 ったく、お袋まで加奈子の肩を持つ。

「やだ~。ワタシだったら耐えられない。兄貴みたいなオレ様寄生虫夫」


 二人に好き勝手言われてイライラしながら車で出口に向かう。

 休日のスーパー位イライラする所はない。

 子供や年寄りが車の間から平気で飛び出して来るし、山盛りになったカートはノロノロと遅い。

 聡志の車の前を一台のカートが横切った。

 小柄な母親はやんちゃそうな男の子の手をしっかりと握り、山盛りのカートを重そうに身体で押しながら振り向いて後ろの俯いた男に声をかけた。それから、走り出そうとした男の子の手を引っ張り、後ろから歩いて来る男にまた何か言った。

 聡志の後ろの車からクラクションが聞こえた。

 早く進めというのは解るが、目の前のカートがノロノロなのだ。

「バカやろう‼ケータイいじってないで、カート押してやれよ‼」

 イラッと口にした言葉に‘今日は買い物に付き合って’と言った加奈子の顔と‘オレ様寄生虫夫’と言った昌美の声が重なった。

 後ろからまたクラクションが聞こえた。ハッとした聡志の目の前をニヤニヤしながらケータイを見る男がのんびりと歩いて行く。

 聡志は力一杯クラクションを鳴らしていた。

 


 

 7月の主人公は「昌美」です。

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