3.この策謀は誰のため?【前編】
事の起こりは今から約二日前、クーリエ=クエル=デルフィンの邸宅からだった。
大陸最大を誇る王国のクィンティア。その中でも最も栄える、王都トールイズにほど近い、カシュヤの森の奥深くに、『暁の御方』と呼称されるクーリエの自宅はある。
俗にクーリエ老と呼ばれるこの館の主は、『老』と呼び倣わされるには違和感のある若々しさと快活さをもつ、20代後半の若者である。外見上は。 先王に仕え、軍をまとめる臣下としては最高位にいた彼は、敬愛する王が身罷ると、事後処理もそこそこにこの森の中へと隠遁した。
「宮廷人というものは、腐敗した肉塊でしかない」
それが彼の常々口癖だが、自分がその中の一員であったことは忘れてしまいたい不快なことであるらしい。権力の中で右往左往していた事は自分の唯一の汚点だ、と本気で信じている。
そんな世捨て人の静かな住処に、多大な騒々しさと春日のような明るさをもった少女リナが飛び込んできて、もう十月がたつ。
最初は環境の激変に戸惑っていた少女も、現在では元気に庭先や周辺の森などを飛び跳ねまわっている。館で働く者達も本来の主そっちのけで、世話をやいている有り様だ。
「最近、私の存在が薄まったように感じるのは気のせいだろうか…」
中庭で少年2人を相手に模擬剣で勝負を挑んでいる、小柄な少女の様子を眺めなから、クーリエは黒耀石にも称えられる瞳を寂しげに曇らせた。口からは長々と溜め息を吐く。その主の側でお茶の用意をしていた女性が無表情で彼をみた。
「リナ様やラエル様、アキ様はとても生活が『規則正しく』しかも『快活』でいらっしゃいます。ですから、皆『お世話のしがいがある』と張り切っております」
「なんだか含みのある口調だなぁ。まあ、私的にも見ていて『目の保養』になるから、いいけどね」
「非常に『変態的』な発言です、主様」
「…‥やっぱり蔑ろにされているんだな、私は」
「気のせいでしょう」
彼女の淡々と告げる言葉に毒気はない。しかし、密かなダメージを受けたクリーエは美しく整った顔をしかめ、彼女に退出するよう、促した。
再び庭先に目を転じると、体中に葉っぱをつけ、それでも果敢にラエルに挑みかかっていくリナの姿が見えた。彼女のそばではアキが盛んに口を出している。
「本当に、仲のいいことだ」
呟いて、用意されたお茶を一口含む。上品な薫りが口の中に広がり、思わず顔が綻んだ。
椅子に腰を落ち着け、先程舞い込んだ手紙を読む。一転した氷のような無表情が、その内容の厳しさを表していた。
一読すると、別の手紙を取り上げ、そちらにも目を通す。自分から遠く離れたはずの世界の醜悪さが、その文面からも読み取れ、彼は軽く目を瞑った。
自らを追い詰め、人を謀り生きていたあの頃の事が、まざまざと思いおこされる。
打ち捨て、けして再び足を踏み入れる気の無かった場所。でも、そんな贅沢は赦されないようだ。
「のんびりと余生を過ごすのはまだ先の事か…‥」
願わくば遠く先の未来でないように、と軽く祈りを捧げると、やって来るはずの客人を迎えるため、書斎を後にした。
「今さっき、書斎の方から凝視してたぜ」
打ち合い終わって、疲れた体を芝生の上に横たわらせていたリナは、ラエルの言葉で上体を起こし、書斎のある方向をみた。しかし、そこには誰の姿もない。
「ラエルの気のせいじゃないの?」
小さく首をかしげて否定するリナをラエルは鼻で笑った。
「ばーか、誰が間違えるかよ。あんな『変質者的』な視線、あの人以外あり得えねぇ」
「だね。なかなかに粘着質な視線だったよ」
横で聞いていたアキも力強く同意する。散々な少年2人の評価にリナの頬がひきつった。
「今日のお目覚めは、けっこう早かったみたいだな。まだ昼食の時刻になってないぜ」
水差しの水をコップに注いでリナに渡しながら、笑いを含んだ声でラエルが言うと、彼女は渋々と頷いた。
「お客様が来られるそうよ。ティナが、朝言ってたわ」
「客ねぇ、この時期に?」
「興味深いけど、下手に関わろうとしたら、また面倒ごとを押し付けられるよ、ラエル。探るなら、慎重に」
「わかってらい」
リナはときたま、この2人の会話についていけなくる。主にクーリエ絡みがそれで、どうやらリナを関わらせるつもりは全くないらしい。小さな疎外感、ここ数ヶ月、あまり感じることのなかった寂しさが、心の中で大きくなる。
思わず俯いて、何かを堪えるように下唇を少し咬む。彼女の昔からの癖だ。咬みすぎて、血を出したこともある。この癖がでたのは久し振りだな、とリナは自嘲した。
「こら、そんなにコップを握りしめたら、割れるだろうが」
軽く頭を叩かれ、顔を上げると、呆れたようなラエルの顔が真正面にあった。
「はい、それはこっちにね」
と、声がして視線を横に移すと、アキがにこりと笑って彼女の手からコップを取り上げた。
2人の息のあった連携プレイに、リナの表情が柔らかくなった。
多少、意思疎通ができなくても、この少年達は自分を大事にしてくれる大切な親友だ。2人の考えが読めるまでに、自分が成長すればいい。
「ありがとう」
そう言って、2人に微笑みかけると、再び側に置いてあった模擬剣をとる。
「今度はアキが相手になってよね。いつも口先で逃げようとするんだから」
勢いよく立ち上がって、剣先をビシッとアキに向ける。諦めたような微笑みを浮かべて頷く彼に満面の笑みを見せて、休憩していた木立の中から飛び出していく。
結いきれない茶褐色の髪がゆらりと揺れ、日の光に照らされたそれが、まるで光の帯のように輝いてみえた。
「…‥ああして見てると、可愛いんだけどな」
「惚れた?」
「いや、無理」
ラエルの真顔での即答に、アキはくすりと笑った。
「そうだね。そういう対象にする子じゃない」
2人の少年は無意識に自身の腰に履かれた剣の柄を握った。見事な彫刻が施されたその中心には、よく磨かれた石がはめ込まれている。
ラエルには濃い青、アキには新緑の色。まるでどちらもの瞳の色を映したかのような輝きが、そこにはあった。
互いの行動が期せずして同じものであったことに、2人は苦笑した。
さっきのリナへの態度も示し合わせてやったことではない。ただ、この幾月かの間に2人のとる立場や位置というものがはっきりしてきた結果でもあった。
自分達が守ると決めたことと、護るべき者はただひとつーー。
「当座は、陰謀大好き変態若作り爺のはかりごとから遠ざけるのが先決だな」
「一つもはずれてはいないけど、長いよ。せめて変態爺程度にしよう」
「あの人の名前を呼ぶたびに、それを心の中で呟いてるぜ、俺は。いつか口に出しちまいそうだ」
アキは同意とばかりに頷くと、陽向で素振りをしているリナに目を移した。
「それも重要だけど、まずは、うちのお姫様の欲求を満たさないとね。今にも怒鳴りだしそうだ」
「呼ばれてるのは、お前だ。俺は昼寝でもしてる」
「まだ日は昇りきっていない。昼寝にはまだ早いよ、ラエル」
「じゃあ、朝寝だ。とにかく俺は寝る」
「早朝の散歩は、朝寝坊な君には厳しかったかな?」
ごろりと芝生に横になるラエルに、アキは微笑みながら聞いた。
「やっぱりイヤミな野郎だな、お前は。ああ、そのとおりだとも。だから寝させろ」
しかめつらで言い返すと、目を瞑り、横を向く。会話終了の合図に、アキはますます笑みを深めると、しびれをきらしかけている少女の元に、早足で向かっていった。
昼食を終えたラエルは、来客と懇談中のクーリエを探して、館の中をさ迷い歩いていた。
それというのも、いつも使われている応接間にはひとっこひとりいなかったからだ。
(私室のスペースで会ってたら、盗み聴きは無理だな)
クーリエの私室がある一角には、どうやら特殊な『結界』が張り巡らせてあるようなのだ。
しかも、見事なトラップ仕掛けである。
(こないだは、いつの間にか中庭にある池にはまり込んだし)
慎重に邸内を探りながら、目的の姿を見つけ出そうと躍起になっていると、不意に背後で人の立つ気配がした。
「注意力が散漫になっているよ、ラエル。一方向に気を取られすぎだ」
探していた目的の人物が、静かな笑みをたたえて、彼を見ている。
「相変わらず化け物並みですね、あんたは。普通剣を持った人間の背後には立たない。それこそ斬られたって文句は言えない」
「君が私を斬ることはない」
断定的な口調に、ラエルは舌打ちした。思わず悔しさがにじみ出た結果だ。
「私を探していたんだろう。だから、こうしてここに来た」
ラエルは諦めたように溜め息をついた。
「良からぬ算段があるなら、早めに教えておいてくれませんかね。じゃないと、うちのじゃじゃ馬が暴れ出すのを防ぐのが難しくなってくる」
ラエルの明らかな挑発にも、相手のにこやかな笑みは絶えない。
「私は君の直接的な物言いが好きだよ。なかなかできることじゃない」
「うわ、すっげえ馬鹿にされてる」
屈辱だ、と呻いてクーリエから視線を逸らし、頭を抱え込んだ。その行動に彼の笑みはますます深くなってゆく。
「アキと共に書斎へ来なさい。頼みたい事がある」
穏やかに告げる相手の真意を探り出すようにその顔を見るが、優しい微笑みをたたえた美貌があるばかりだった。
「それが、俺の質問への答え、ですか」
確認のために問い質すと、微かに頷いている。
ここにはいない相方を探してくると告げる前に、クーリエはついとラエルから視線をそらせて、少年の背後にそれを定めた。
「それとね、素直じゃなくても一生懸命な子も好きだよ。とても、かわいいと思う」
そう言って、ぽかんと口を開けているラエルにもう一度微笑み、その場を立ち去ってゆく。
「どうしよう。思わず鳥肌がたったぞ、アキ」
ぞわりと粟立った腕を抱え、ぶるりと身震いする。それぐらいの恐怖であったらしい。
「僕もだよ、ラエル。なんだか、絶対零度の地に置かれたような寒気がした」
ラエルの背後からゆっくりと姿を表した黒髪の少年は、いつも顔に浮かんでいる余裕のある笑みを消し、少し青ざめてすらいる。
「いつでも丸呑みしてやるぞという脅しなのか……」
「いっそ、そうであってほしい。あの発言が本心からだったら、この場所からすぐに消えたいぐらいだ」
あの変態が…、と呟きつつ舌打ちするアキに、いつもの柔和な少年の面影はない。ラエルは激昂している友人を横目で見て、顔をひきつらせた。
(すっげえ怒ってるよ。隠れてたのが見つかった事も影響してるな、こりゃ)
どうやらアキは、自分を囮にして探り出そうとしていたらしい。その行動に文句をつけたいラエルだったが、罰も受けたようなので、これ以上さわるのは止めておくことにした。
「で、聞こえてたんだろ。行くのか、書斎」
ラエルの気の抜けた声で発された質問に、アキは急に我に返ったようで、普段の表情を取り戻し、にっこりと笑った。
「勿論だよ。いつまでも変態ジジイにやられっぱなしじゃ、この先あの子を守っていくことも出来なくなる」
そういって、ラエルを残し、書斎へと早足で消えてゆく。その背中を見ながら、一番の負けず嫌いはアイツだなと、心の中で思い、彼もその後を追ったのだった。