バレンタイン記念SS 一宮信吾は拗らせていた。
「一宮先輩、このところ、どのお店でもバレンタインフェアですね」
「かき入れ時だからな。そうでなくても、二八(二月と八月)は商売がパッとしない月だ。少しでも売り上げをあげようとどこも必死なのさ」
俺の名前は一宮信吾。
どこにでもいる、普通のサラリーマンだ。
主に食品を扱う商社勤めで、世間で商社マンというとエリートなイメージがあるが、俺の勤めている商社は大手じゃないからな。
普通の会社の営業と変わらない。
入社三年目の若手だが、先月から研修が終わった新人をつけられた。
彼を見ていると、入社直後の自分を思い出すな。
今日は予定していたお得意先回りは終わったので、帰社する前にちょっと取引先のデパートに寄っていた。
もうすぐバレンタインなので、特設売り場ではバレンタインフェアが行われている。
多くのお店やメーカーがいつもより高価なチョコを売ろうと、店員さんがチョコの試食を勧めたり、お客さんの呼び込みに大忙しであった。
「一宮先輩は、彼女さんとかからチョコを貰うんですか?」
「四谷お前、俺と知り合ってすぐ彼女の有無を聞いたよな? この二~三週間で俺に彼女ができると思うか?」
俺にそんなプレイボーイスキルなんてないぞ。
「もしかしたらと思いまして。というか一宮先輩、社内の女性社員達と話していたじゃないですか。チョコあげるからって。その中に本命がいたりして」
「ふっ、甘いな。アメリカの歯が溶けそうなほど甘いチョコレートにさらに砂糖を大量に溶かし込んだよりも甘い!」
「それは確かに甘そうですね……」
アメリカって、どうしてあんなにお菓子を甘くするんだろうな?
甘いだけで、色々な種類のお菓子がある意味がないじゃないか。
「お前は入社して初のバレンタインか。いいかよく聞け! 義理チョコは分のいい投資なんだ」
「投資ですか?」
四谷、お前に社会の残酷な現実を教えてやろう。
「お前、義理チョコは貰った事あるよな? 学校とかで」
「ええまあ……」
「ホワイトデーにお返しはしたか?」
「つき合っていた彼女以外はしていないです」
「まあ、学生時代はそんなものだよな」
「返していた奴もいました。自分でお菓子を作ってきた奴もいましたね」
「それは諸刃の剣だな」
男の手作りお菓子なんて、よほどちゃんと作る奴じゃなきゃ罰ゲームみたいなものだ。
あと、既製品でお返しというのも、貰ったチョコを母親に見られ、なぜか母親の方が『うちの子はモテる』と舞い上がり、自分の方が懸命にチョコを選んでいたりとか。
そんな裏事情がある奴もいた。
でも安心してください。
所詮義理チョコなんて、人間関係を潤滑にするためのものにしかすぎません。
あなたの息子さん、思ったほど女性にモテませんから。
「高校の同級生で、そいつパティシエ志望だったんです。今、専門学校出て有名な洋菓子店で働いています」
「それはいいかも」
そういう人の手作りなら、俺もちょっと食ってみたいと思った。
「それで、投資って話ですが……」
「学生の頃は、女子もそこまでお返しを期待しているわけじゃない。義理チョコも大した値段のものじゃなかっただろう?」
「ええ、チロルチョコとか渡す女子がいましたね」
「これが、社会人になるとそういうわけにはいかないのさ。ああいう場所で見繕って、同じ職場にいる男性社員全員に渡したりする」
渡されない人がいると、これはこれでそいつが課内で孤立しているか、嫌われているって証拠になるから、その結果を見ただけで貰った人達も地味に鬱になったりする。
そいつが嫌われている自覚もなく『なぜ俺だけ貰えないんだ?』って言い始めると、途端に周囲の空気が悪くなり、対応するので時間が勿体ないし。
「加藤先輩ですね。他の部の女性社員を妊娠させたのに、中絶させて捨てたから」
「四谷、それは社内で口に出してはいけない」
そんなクズでも、長内専務の甥っ子だからクビにできないからな。
それでも社長の逆鱗に触れたから、長内専務が退任するまで社内で飼い殺し状態なんだ。
彼に関わって、社長から睨まれるのは嫌だろう?
本当、サラリーマンって大変だ。
加藤さんにチョコをあげなくていいのかって?
『こんな安物のチョコ、長内専務の甥っ子の君はいらないよね?』って、課長がわざわざ彼のご機嫌取りをしているから。
加藤さんはもう社内では死んだみたいな扱いだけど、社長は長内専務の実力は評価しているから、暫くは辞めさせないはず。
俺達は無視しているけど、課長までそれに加わると長内専務からねぇ……。
課長、あと五年くらいの辛抱ですよ。
倉内部長からのお話ですと、多分そのくらいだと思います。
「話を戻すが、こういうデパートの特設コーナーでは、有名なお店やメーカーが商品を販売していて、お値段も結構する」
「そうですね。五百円以下ってのは、なかなかないですね」
ここぞとばかりに、高級チョコメーカーや洋菓子店がバレンタイン用にチョコを販売するからな。
「一番安い五百円くらいのチョコでも、十人に渡せば五千円。少し頑張って千円くらいのチョコを十人に渡せば一万円。数名で分担するにしても、その金があれば結構いい飯が食えるからな」
「そう考えると、女性社員も大変ですね」
「大変なんだが、我々も大変だぞ。ホワイトデーのお返しで」
ホワイトデーのお返しは、最低でもチョコ代の三倍。
下手をすれば五倍。
お金では返ってこないが、品物ではチョコ代以上に戻ってくる。
そう考えると、まったく無駄な出費というわけではない。
リターンは必ずあるのだから。
確かに女性はチョコ代で大変だが、随分と高いチョコ代になってしまった男性の方もこれまた大変だ。
「内山さんは奥さんから『ホワイトデーの費用もバカにならないわね。三月はその分お小遣いを減らします』と言われて、この前凄く凹んでいた」
既婚者が本命チョコを奥さん以外から貰ったら大変だと思うが、義理でもお返しで家計を圧迫してしまう。
内山さんはもう少しで子供も生まれるし、子供のために節約しておきたいところだからな。
「結婚するって大変なんですね……」
「俺も独身だから実感はないが、大変そうな気はするな」
「でも、そこまでやってもバレンタインは売り上げが落ちていると言っていましたね」
先ほど、知己であるデパートの店長と話をしていたのだが、バレンタインの売り上げは少しずつ下がっているそうだ。
「景気が悪いからな」
「それで、『友チョコ』とか、『ファミチョコ』とか、『世話チョコ』とか『俺チョコ』ですか……」
『友チョコ』は、ようするに友達に渡すチョコの事だ。
男性同士、女子同士だと誤解を招く可能性があるけど、『ホモチョコ』と『レズチョコ』ってのもあるらしい。
商売のためとはいえ、製菓業界は明日を生きているな。
『ファミチョコ』って、母親や姉妹からチョコを貰うイメージと重なるな。
俺には弟しかいないので、実家に住んでいた頃は母親からのみチョコは貰っていたけど。
『たまには、彼女から本命チョコでも貰ってきなさいよ』と言われながら……今思い出したら、地味に腹が立ってきたな。
『世話チョコ』は、職場で配られる義理チョコと重なるな。
「『俺チョコ』って、別にバレンタインじゃなくてもいいですよね?」
「そうだな」
ただ、甘い物が好きな奴が店で自分用に買うのと同じだからな。
自分用のご褒美なら、いつ買ってもいいような気が……。
「だからですかね? たまに男性のお客さんが見えますよ。俺も帰りに自分用のチョコでも買って帰ろうかな?」
「それはよした方がいいぞ」
「どうしてですか? 一宮先輩」
「あのな、四谷。確かに俺達はチョコが沢山売れれば、その原材料や、外国産の高級チョコの輸入で売り上げは得られる。だが、あの売り場を見てみろ」
確かに男性客も二~三名はいたが、特設売り場はほぼ女性しかいなかった。
「『俺チョコ』なんてマスコミのステマをまともに信じてあそこに飛び込むなんて、そんな恥ずかしい事、少なくとも俺はできないぞ」
「そう言われるとそうですね……」
本来、バレンタインは女性だけのものだと俺は思う。
俺もたまに高級チョコを買って贅沢気分に浸るけど、一月の末からバレンタインが終わるまではチョコを売っている場所には近づかない。
なぜなら、男が一人そんな場所にいたら『あの人、誰からもチョコが貰えないから自分で買うのよ』とか言われかねないからだ。
下手にバレンタイン用に包装したチョコとか買ってみろ。
というか、その時期には包装されたチョコしかないお店も平気で存在する。
『ぷっ、誰からも貰えないから、女性から貰ったように装うのよ。あの人』とか、多くの女性客から裏でコソコソ言われてしまうんだぞ。
ああいうお店は、ほとんど若い女性が店員だ。
一見いつもどおり『ありがとうございました』と清算した商品を渡してくれるけど、内心ではきっと、この時期にわざわざチョコを買った男性を笑っているはずだ。
「注意した方がいい」
「あの……一宮先輩、俺達は特設売り場の傍にいますけど」
「それはいいんだ」
「どうしてですか?」
「スーツ姿で、さっきこのデパートの担当者と売り上げについてとか話していただろう? だからお客さん達は、俺と四谷をチョコメーカーの人だと思っている。チョコを買いに来たんじゃなく、仕事で売り上げの様子を見に来たんだなと」
「では、あの人は? わずかですが、男性のお客さんもいますよ」
四谷は、数名いる男性客について聞いてきた。
この時期に、えらく度胸のある人だな。
「それは簡単だ。今の世は男女平等だからな」
きっと、奥さんがとても仕事ができる人なんだ。
でも忙しいから、奥さんは義理チョコを買っている暇がない。
そこで、時間に余裕がある旦那さんが代わりに義理チョコを買いに来た。
「昔ではあり得なかった光景だな。とにかくだ、もう少しの辛抱だ」
「はあ……」
バレンタインが終われば、今度は一か月後のホワイトデーまで、ちょっとくらい普段は食べられない高級チョコを大人買いしても、『あの人、バレンタインのお返しなのね』と思われ、不審がられない。
「さり気なく領収書を頼むのもいい。余計に義理チョコのお返し感が出ていいぞ」
「ためになりました」
今日はとてもいい事を後輩に教えたな。
きっとご利益があるはずだ。
「そうですね。この時期に男が一人でチョコを買うのは、確かに女性からの目が……彼女から貰うチョコに期待しますよ」
「えっ? 四谷、彼女いたのか?」
「ええ。先週、大学の後輩から告白されまして。初めてのバレンタイン、楽しみですね」
「よかったな……」
「はい!」
おおっ! 神よ!
俺は真面目に働いているじゃないですか。
それなのに、後輩には彼女ができて、俺には彼女ができない。
こんな不公平があっていいのでしょうか?
こんなに辛いのなら、俺をバレンタインのない世界に連れていってください。