第百二十七話 髪は長い友達
「バウマイスター伯爵、『髪神』が貴殿の領地で出現したようですぞ」
「えっ? カミカミですか?」
「そうです。髪神です」
今日は予備校講師の仕事が休みなので、俺はローデリヒからもらった報告書を屋敷で読んでいた。
広大なバウマイスター伯爵領の政務すべてを見れるはずはないが、領主として徐々に全体を把握していかなければならない。
エリーゼ達も産休中なので、こういう仕事を覚えるのにちょうどいいというわけだ。
商社マン時代の経験も、無駄というわけでもなかったらしい。
書類を読むと大凡の把握はできたし、領内の開発は予定よりも順調に進んでいた。
俺がそれを確認したところで、不意の来客が姿を見せる。
その客はエーレンフリート伯爵だと名乗り、それに相応しい服装と立ち振る舞いを見せていた。
年齢は四十前後であろう、法衣貴族にして農務閥の大貴族だそうだ。
俺は相変わらず貴族の名前が覚えられないけど、エリーゼとローデリヒが教えてくれた。
それで何の用事かと思ったら……農務閥だから農業関係しかないと思っていたのだが……急に俺の知らない単語を口にした。
「すいません、俺は若造でいまいちよく知らないのですが、髪神って何ですか?」
「伝説上の生き物と言われておりますからな。バウマイスター伯爵が知らないのも無理はないですか……」
エーレンフリート伯爵の説明によると、髪神とは動物なのか、魔物なのかもわかっていない生き物なのだと言う。
「わからないのですか?」
「とても動きが素早いそうです。目にも留まらぬ速さで動くとか……」
目にも留まらないので正確な姿は誰にもわからず、生息地も目撃例が魔物の領域だったり、普通の森や草原だったりもするそうだ。
「一つ疑問なのですが、正体もわからない生き物が、なぜ目撃されたとわかるのですか?」
「それはですね……」
髪神には、ある大きな特徴があるのだという。
それは、逃げる際に妙な液体をばら撒くのだそうだ。
「液体ですか? それを浴びると体が溶けるとか?」
「いいえ、違います。その液体を浴びると、髪が生えてくるのです」
「髪ですか……」
そういえば、俺の前にいるエーレンフリート伯爵には髪がなかった。
その年齢で毛根が一本もないと、男性としては色々と辛いものがあるのかもしれない。
「つまり、逃げる時に液体をばら撒き、それを浴びた人の髪が復活したと?」
「はい、たまたま髪が薄い冒険者だったそうです。その後は死ぬまで髪がフサフサだったそうですが」
「それは凄い効果ですね……」
前世でも、髪の薄さに悩む人は多かった。
俺も上司のカツラに気がついてしまい、その人と話をする時には目線を髪の生え際に持っていかないように苦労したものだ。
薄毛に効果があると、高い育毛剤に手を出す人も多い。
科学万能な地球でも、これは絶対に効くという毛生え薬は存在しなかった。
少なくとも、俺がこの世界に飛ばされるまではだが。
この世界にも、怪しげな毛生え薬は存在している。
効果があるような、ないような……。
多少怪しい魔法薬でも、お金のある商人や貴族で大金を出して購入する人は多いのだ。
騙されて、また新しい魔法薬に手を出し、また騙される。
そんな人が多い。
何度騙されても、いつか効果のある薬に出会えるかもしれないと希望に縋るわけだ。
世界が変わっても、髪は男性にとって永遠のテーマであった。
「幸いにして、目撃ポイントは魔の森ではありません。そこで、バウマイスター伯爵殿にお願いが」
エーレンフリート伯爵は、書状の束を俺に差し出した。
そこに書かれている内容は、すべて俺への依頼であった。
「まさか、断りはしませんよね?」
これは、俺への圧力であった。
魔法を用いて何とか髪神を捕えるか、逃げる時に出す液体を確保してほしいと。
そして、優先的に自分に売ってほしいとも書かれている。
依頼書の主は、間違いなく全員が髪が薄いのだと思われる。
そしてこの依頼を断ると、俺は髪のない人達から恨まれるという寸法だ。
恐るべきは、髪への執着心というやつである。
「成功するかはわかりませんよ……」
「それはわかっております。ですが、わずかな可能性に縋ってでも、我らは髪を取り戻したいのです!」
エーレンフリート伯爵のあまりの迫力に、俺は断るという選択肢を選べなかった。
「髪神ですか。伝説の生き物ですね。その効果ゆえに、多くの権力者がその体液を求めたそうです」
依頼を受けてしまったのは仕方がないので、先に情報を集めようとエリーゼに髪神について聞いてみた。
すると、さすがはエリーゼ先生、よく知っているようだ。
「髪神の情報は、あまり平民には流すべからずという不文律がありまして……」
下手に平民に知れると、平民も失った髪を取り戻そうとして競争率が上がるかららしい。
失った髪が元に戻る。
夢のような効能が確実にあるとわかれば、それを入手するために競争が激しくなりそうだものな。
成功した商人とか、いくらでも金を出しそうではある。
「髪神を捕えたという記録は存在しません。体液を浴びたり、入手した人のみが、失った髪を取り戻せたそうです」
つまり、量の限られた逃走時に出す体液を入手するのに、苛烈な競争があるというわけだ。
「正体も目視できないほど素早いので、そんなに沢山の量の液体は手に入らないそうです。それも、数百年に一度入手できれば御の字だそうで……」
滅多に手に入らないし、手に入っても量が少ないのでその恩恵を受けられる人は少ないのか。
「ようするに、駄目元?」
「はい、当然大昔の魔法使い達も、髪神の捕縛に挑戦していますが、成功者は一人もいませんので。体液を入手した方は、普通の人よりも多いそうですが……」
つまり、失敗しても怒られないという事だよな?
失った髪を取り戻せるかもしれないと大物貴族様達が騒いでいるけど、入手できる可能性は少ない。
それでも、その可能性に賭けて確率が上がる魔法使いの俺に頼んだというわけか。
「努力はするよ。結果については責任を持てないよなぁ……」
「そうですね、それでいいと思います」
エリーゼ先生がそう言うくらいなのだから、そうなのであろう。
「それで、その髪神とやらはどこで目撃されたの?」
「それがさぁ……」
イーナに髪神の目撃地点について聞かれたが、そこは意外な場所であった。
「そんな生き物が、うちの領地にいるかもしれないのか」
「素早すぎて、目撃は困難らしいですけど……」
髪神が目撃されたとされるポイントは、パウル兄さんの領地と接する森の中であった。
この森はちょうど真ん中に小さな川が流れており、その川がバウマイスター伯爵領との境目となっている。
目撃されたのはバウマイスター伯爵領側の森であったが、もしかするとパウル兄さんの領地側にも出没するかもしれない。
そこで、俺はパウル兄さんに森の中での移動許可をもらいに行ったのだ。
俺とパウル兄さんの関係を考えると別に無許可でも構わないのだが、そこは親しき中にも礼儀ありというわけだ。
「何というか……雲を掴むような話だな……」
「駄目元でも、俺が受けないと圧力が凄くて……」
この国は、偉い王様、王族、貴族が支配している。
国を治める偉い立場にある方は年配の人が多く、そういう人で薄毛、ハゲ……じゃなくて髪が亡くなられて困っている人は多い。
だから俺は、駄目元でも髪神の探索に全力を傾けないといけないのだ。
ここで拒否してしまうと、領地開発で邪魔をしてくるかもしれないからだ。
ローデリヒが笑顔で俺を送り出したので、まあそういう事なのであろう。
「ふと疑問に思ったんだが、なぜ目視できないほど素早い生き物が目撃されたと報告が入るんだ?」
「ええと……風圧とか残像とかですかね?」
その辺の詳しい事情は俺にもわからない。
カマイタチみたいに、素早く動くと物凄い風圧があるのかもしれない。
「パウル兄さん、分け前は必要ですか?」
「うちの領内で獲れたら考えるよ」
例え寄親と寄子の関係でも、その辺はキッチリとしないといけない。
でも、パウル兄さんは髪神の体液が取れる可能性を大分低く見積もっているのであろう。
具体的な条件はあとでと言った。
「お館様、私も捜索に参加したいのですが」
とそこに、元はパウル兄さんの警備隊の同僚で、今は従士長をしているオットマーさんが髪神の探索に参加したいと話しかけてきた。
「オットマーは、今日は休みだから別にいいけど……」
「ありがとうございます、やったーーー! 気合を入れていくぞーーー!」
オットマーさんは、喜び勇んで森へと向かっていく。
「あの……パウル兄さん?」
「オットマーの奴、最近薄毛で悩んでいるんだよ……」
どの時代でも、どの世界でも、髪が薄くなると悩むのはみんな同じようであった。
「つうか、本当にそんな生き物がいるのか?」
俺が集めたメンバーと、パウル兄さんの領地からもオットマーさん以下数名が参加して髪神探しが始まるが、エルは本当にそんな生き物が存在するのかと疑問を投げかけた。
「いても、いなくても、ちゃんと探したという事実が必要だからな」
「つまり、アリバイか?」
「そんな感じだな」
探さないで彼らの怒りを買うと、色々と面倒になってしまう。
だから見つからなくても、俺はベストを尽くす必要があるのだ。
「金かけているよなぁ……」
「それほどでもないさ」
いるのかいないのかもわからない生き物の捜索なので、俺は冒険者予備校の生徒達をアルバイトとして雇っていた。
日当を払い、森に分散して置いて監視をさせているのだ。
「必要経費ってやつですな」
「俺が驚いたのは、なぜアルテリオさんがいるかって事だけど」
今回の探索には、バウマイスター伯爵家御用商人筆頭のアルテリオさんも参加していた。
まさかの大物の登場に、エルは驚いているようだ。
「私も色々と調べたのですが、万が一にも髪神の体液を入手してしまった時の対策ですよ。エルヴィン、貴族や王族が自分が手に入れようと血で血を洗う争いを始めるのだぞ。過去には殺傷沙汰もあったと記録に残っている」
「髪ごときでですか?」
「エルヴィン、それはお前の髪がフサフサだからだ。それがない人からすれば、ライバルを物理的に消去してでも入手したいと思うだろうからな」
そんな話を聞かされると、とんでもない依頼を受けてしまったなと思ってしまう。
こちらに圧力をかけられる人達からの依頼なので、断れなかったのだけど……。
「エルヴィンは、アレを見ても同じ事が言えるか?」
「みんな! 気合を入れて探すんだ!」
「「「「はいっ!」」」」
アルテリオさんが顎で指し示した場所では、鬼気迫る勢いで髪神を探すオットマーさん一行の姿があった。
心なしか、彼の下で捜索に参加している人も髪の量が少ないような……。
自分が体液を確保できれば、最優先で自分の髪を取り戻せると思っているのであろう。
確かに、前に会った時と比べるとオットマーさんの髪は薄くなったような気がしてならない。
それだけ必死なのであろう。
「見ていて怖いですね……」
「男性の髪と、女性の美容関係の魔法薬には色々とな……そんなわけで、俺はここにいるのさ。現物の値段はあってないようなものなので、商人も必要でしょうというわけだ」
大きな金が動く事は間違いないので、それに備えてアルテリオさんはここにいるのであろう。
「アルテリオさんも、髪神の体液がほしいですか?」
「いえ、私はハゲていませんので。生まれた娘にええ格好したいブランタークなら必要かもしれませんね」
確かに、アルテリオさんの髪はフサフサだ。
年齢のせいで多少白髪は混じっているけど、白髪でも最悪髪を染めればいいからな。
「俺も、髪には問題ねえよ」
アルテリオさんと共に、ブランタークさんも今回の探索に参加していた。
その理由は……。
「ブライヒレーダー辺境伯が必要とか?」
「それはないよ、伯爵様。ブライヒレーダー辺境伯家もほとんどハゲがいない家系だから。万が一伯爵様が髪神体液を入手すると問題が起こりそうだから、そのために俺が派遣されたわけ」
髪神体液を手に入れるために、ブライヒレーダー辺境伯家経由で色々と工作される可能性もあり、できれば入手してほしくないのがブライヒレーダー辺境伯の本音だそうだ。
「あくまでも万が一だよ。髪神は数十年に一度目撃例があるが、入手できるのは十回に一度くらい。本当に幻の体液なんだよ。俺も一度だけ探索に参加した事があってな。当時はペーペーの魔法使いだったし、俺はその影すら拝めなかったけど」
ブランタークさんも、若い頃に髪神探索に参加した事があるそうだ。
ただし、本当に参加しただけなので、どんな生き物かはわからないと言う。
「過去にも魔法使い大動員で捕まらなかったケースも多いそうだし、ぶっちゃけ運だよなぁ……気張らずにやろうぜ」
ブランタークさんに、やる気は皆無であった。
それよりも、早く家に帰りたいのかもしれない。
「まあ、導師は必要なのかもしれないけど……」
今回の探索には、実は導師も参加していた。
「ブランターク殿、某のこの髪型は毎日剃っているのである。アームストロング家に髪が薄い者は少ないのである」
「それは知っているけどよ。関係のある貴族から頼まれたんじゃねえの?」
「頼まれなかったといえば嘘になるのであるが、確実に入手できる保証もないので、某からは何とも言えないのである」
同じ派閥の軍系貴族で髪が薄い人から頼まれたとか……導師は正確には軍系貴族ではないから、引き受ける義理もないのだけど。
「某が参加しても駄目だった、という風に納得する者もいるのである」
「わざわざすいません」
「構わないのである。男の魅力は髪だけではないのに、いい大人が大騒ぎしてみっともないのである!」
俺もそう思わんでもないけど、それが平気で言えてしまう導師は凄いよな。
これ以上話ばかりしていても無駄なので、俺達も髪神の探索に加わる。
「先生、退屈です」
「それはわかるが、所定の位置から動かないように。日当が出ているんだから、真面目に仕事をしないといい冒険者になれないぞ」
それで、髪神をどうやって探すのかだが、特に効果のある素晴らしい方法が開発されているわけではない。
アルバイトにきた生徒達を髪神が目撃された森の各地に配置し、どこに現れても急ぎ対応可能なようにするだけだ。
と言っても、かれこれ数時間、何も見つからないでみんな飽きていた。
とにかく所定の場所で監視を続けないといけないので、他の狩猟や採集も禁止となっており、正直なところ俺も退屈で仕方がない。
「エル、それっぽい反応はあるか?」
「いいや、髪神とやらの反応がどんなものなのか知らないけど、それっぽい気配とか反応はない」
更に数時間が経過、そろそろ夕暮れなので今日の探索は一旦中止となった。
今回の探索は、それを注視している大物貴族様方の意向を酌んで三日間行われる。
今日はバウルブルクには戻らず、パウル兄さんの領地で全員が宿泊する事となった。
「ヴェル、毎度あり」
「……」
数十名が宿泊し、飲み食いをする。
いまだ開発中のバウマイスター準男爵領からすれば、無視できない儲けであった。
そういえば、過去の地球であったゴールドラッシュの時、一番儲かったのは、彼ら鉱山夫を相手に商売をした人達だとか。
それでも、必要経費だから仕方がない。
「食事と泊まる場所は用意してあるぞ」
俺、エル、ブランタークさん、導師は、パウル兄さんの屋敷に泊まる事になった。
アルテリオさんは、髪神の体液が見つかる可能性が低いと感じたようだ。
部下を残してバウルブルクに戻ってしまった。
仕事が忙しいので、こんな場所で三日間も時間を潰せないのであろう。
バウマイスター準男爵邸は新しく建てられたばかりであり、以前のバウマイスター騎士爵家のものとは大違いだ。
バウマイスター伯爵邸ほどではないが、比較対象がアレなので恐ろしく豪華に感じてしまう。
「こんな豪華な屋敷、大丈夫ですか? パウル兄さん」
「いや……前のうちの実家と比べるなよ……外からの来客もあるし、長年維持する予定だから、ボロかったり狭かったりすると、後で建て直しになってもっと金がかかるから」
屋敷の中に通されると、若いメイド服を着た数名のメイドがテキパキと動いていた。
「パウル兄さん! メイドですね!」
メイドがいるだなんて……。
俺は、驚きを隠せない。
「メイドは領民の中から通いの人を数名雇っているだけだから。メイド服も貸与で使いまわしだよ」
「それにしても凄い!」
「まあ、気持ちはわかるけどな……」
昔の実家では、メイドという名のお迎えが近い冥途さんが働いており、服装も普段着のままだった。
家政婦というか、そこにも至っていないような状況だったのだから大きな進歩とも言える。
「食事にしようか」
そして肝心の食事であるが、かなり豪華なメニューとなっていた。
フルコースでメイドが配膳をしてくれるし、デザートも美味しいケーキがつく。
俺は再び心配になってしまう。
「パウル兄さん、本当に大丈夫でしょうか?」
「ヴェルは寄親だから歓待しなきゃ駄目だし、費用の方も他の連中の宿泊費や食事代をもらっているから大丈夫だよ。それと、あまり心配しない方がいいぞ。親父が落ち込むから」
「えっ?」
俺が父の方を向くと、テーブルの端で父がガックリと項垂れていた。
「ヴェルが心配して当然だよな……子供の頃にはまともな食事を出していなかったし……ヴェルが獲ってきた食材がないとおかずすら付かなかった事もあったし……いいんだ、俺は元駄目領主で……」
「父上! すいません!」
俺は、ガックリと項垂れる父を宥めるのに、かなりの時間を費やしてしまうのであった。
「失った髪を取り戻す秘薬の材料か……大物貴族というのは大変なのだな」
ようやく父の機嫌が直ったので食事を再開しながら、今回の仕事の内容を説明する。
情報の漏えいは、父達も貴族なのでそれは察してくれた。
とはいえ、もう俺が人を使って大々的に捜索しているし、冒険者の線から漏れるのはどうしても防げない。
髪神という生き物がどれほど目撃された地点に居座るかは知らないが、暫くはパウル兄さんの領地で宿を取る冒険者が多いかもしれなかった。
必ず効く毛生え薬ともなれば、大物貴族や大商人ならいくらでも金を出すのだから。
一生遊んで暮らせるお金が手に入るかもしれないとなれば、ゴールドラッシュの如く人が集まってくる可能性があった。
「うちは稼ぐ機会だな」
ただし、探しに来た冒険者達が必ず髪神を見つけられるとは限らない。
だが、彼らを相手にするパウル兄さん達には、地味なゴールドラュシュが発生したのかもしれない。
「大物貴族ともなれば、人前に出る機会も多かろうからな。髪があった方が見栄えがよくていいのかもしれないな」
父はそう言うのだが、実際問題、今まで髪が薄かったのに急にフサフサになったら周りの人はどう思うのであろうか?
前世だと、植毛とカツラを疑われるケースである。
会社の上司とか目上の人だと、いかに上手くスルーするかを問われる案件であろう。
でも自前の髪だから、そんな事は気にする必要はないのか?
そんな事を思いながら、ふと父の頭に視線が行ってしまう。
とはいえ、父は別に髪に不自由していない。
少し白髪が増えていたが、それは染めれば済む問題だからな。
「ヴェンデリン、別にその秘薬は提供してくれなくてもいいぞ……」
俺からの視線に気がついたのか。
父は、俺に釘を刺した。
「我がバウマイスター家の家系で髪に困る者は少ない。特に取り得もない一族だが、それだけは自慢できるな」
バウマイスター一族で、髪が薄くなったりハゲる人は少ないようだ。
エーリッヒ兄さんとかも、髪はサラサラだものな。
でも、それはありがたいかもしれない。
この世界の貴族は髪が薄くなったからといって、坊主にして誤魔化すという手段が使えないからだ。
貴族が坊主頭にすると、あきらかに場違いというか似合わないというか常識がないと思われるからだ。
中にはカツラをつけている人がいるのだけど、技術力の問題で誰が見てもカツラだとわかってしまう。
それを表立って口にしてバカにする貴族は少ないけど、その人がいない場所では笑い話にされてしまう事が多い。
悪口をたまたま本人に聞かれてしまい、決闘になってしまった事が昔にはあったそうだ。
そんなわけで、金のある貴族は長い友達である髪を求めて色々と努力するわけだ。
変な薬に引っかかって詐欺に遭う人もいるそうだが。
『背が伸びる薬、痩せる薬、精力剤、胸が大きくなる薬、この辺は疑ってかかった方がいいですね』
エリーゼは、俺にそう教えてくれた。
明らかに胡散臭いのに、夢のような効能を話されると、つい大金を出してしまう人が多いのだそうだ。
「その前に、その髪神というのは本当に捕まるのか?」
「ええと……どうなのでしょうか?」
俺は、父からの質問の返答に窮してしまう。
その後は母も混じって、エリーゼ達の状況などについてなど話をしたので、誰も髪神についての話をしなくなった。
結局人は、実際に見たものしか信用しないのだなと、俺は密かに悟ってしまうのであった。
「先生、見つかりませんね」
「シンディの幸運でも駄目か……」
二日目の捜索も始まるが、髪神とやらは影すら見つけられなかった。
幸運を呼ぶ少女シンディの実力をもってしても、そのヒントすら掴めない。
「伯爵様、見つけられないな」
ブランタークさんもやる気なさげだ。
目撃されてから捜索しても見つける可能性も少ないし、ブランタークさんは早く娘の元に戻りたいと思っているのかもしれない。
「最低でも三日くらいは探さないと、アリバイにならないのですよ」
「無駄な出費……でもないか……貴族社会では……」
俺も大物貴族なので、彼らにそれなりに配慮する必要がある。
例え見つけられなくても、ちゃんと手間暇をかけて探したという誠意が必要だというわけだ。
勿論、俺の不甲斐なさを非難する貴族もゼロではないけど。
「ヴェル、生徒達がダレてきているぞ」
アルバイトに出した予備校の生徒達を統率しているエルが、俺に報告をした。
決められた場所を監視し、他の狩猟採集行為が禁止されているので、集中力が途切れてきているのであろう。
「何とか明日まで保たせてくれ」
「完全な骨折りだな、早く終わらせて……」
エルがそう口にした瞬間、突然風が舞って俺の顔の横を何かが高速ですり抜けたような感覚を覚える。
「伯爵様?」
「ブランタークさんも感じましたか?」
「ああ」
今はまったく風が吹いていない状態だった。
それなのに、局地的に俺達は風と何かの気配を感じた。
つまり……。
「髪神か?」
「そうだろうな」
あくまでも推定でしかないけど。
そしてその髪神らしき気配だが、もう感じない。
高速で俺とブランタークさんの間をすり抜けたようだ。
「伯爵様、『探知』にも引っかからないぞ」
「俺も駄目です」
なぜ魔法使いが髪神の捕獲になかなか成功しないのかを、俺はようやく理解した。
魔法の『探知』に引っかからず、あまりに素早いので魔法の発動前に範囲外に移動してしまうのだ。
「こんなのどうやって捕えるんだ?」
「予想して罠を張るとか?」
「今の時点で、どこにいるのかわからないのにか?」
ブランタークさんから、魔法で罠を張るという策を否定されてしまった。
確かに、仕掛けた場所に必ず髪神が来る可能性もないし、魔法で罠を張ると罠の維持で魔力を使ってしまう。
沢山の場所に仕掛けるにしても、対象が多すぎて物理的に不可能だった。
「第一、どこにいるのかもうわからないじゃないか」
「そうだよな……」
エルの指摘がもっともだと思っていると、森の奥から配置した生徒達の声が聞こえてくる。
どうやら、髪神はそこまで移動したらしい。
「行くぞ!」
「伯爵様、もう行っても遅いんじゃないのか?」
ブランタークさんから指摘されて、俺は気がついた。
確かに、今から生徒達が騒いでいるポイントに向かっても、間違いなく間に合わないはずだと。
「こんなのどうやって捕えればいいんだ?」
まず不可能だなと思っていると、そこに同じく髪神探索に参加している導師が姿を見せた。
「バウマイスター伯爵、たまたまだが髪神らしき気配を感じたのである」
「導師もですか。俺達も気配くらいは……って!」
俺達が導師に視線を向けると、そのあまりに異形ぶりに声が出なくなってしまった。
「勘で拳を入れてみたが当たらず、だが髪神の怒りを買ったようである! ご覧の有様である!」
髪神は、噂の体液攻撃を導師に向けておこなったらしい。
導師は普段剃っている頭全体から無駄にサラサラな髪が腰まで伸び、同時にヒゲにも効果があるようだ。
まるで仙人のように豊かなヒゲを蓄えていた。
「導師、不気味だな……」
「まったく、これが本来髪やヒゲが生えない場所に生えでもしたらとんだ迷惑だったのである!」
髪神の体液を浴びた導師の髪とヒゲは豊かになったが、それは貴重な体液を無駄遣いしてしまう結果となった。
「なるほど……」
「まったく、酷い目に遭ったのである」
二日目の探索を終えて宿に戻ると、俺、エル、ブランタークさんはロンゲ、仙人ヒゲとなってしまった導師を観察しながら、髪神の体液が本当に効くのだという事実を確認する。
「綺麗な髪ですね……」
エルの意見にみんな賛成だけど、導師が女性のように綺麗な金髪を伸ばしていても、ただ不気味である。
事実、この屋敷に戻るまでに、導師を見た子供達が悲鳴と泣き声をあげ、大人達は驚いて家の中に逃げ込み、失神した老人までいた。
俺は、普段の導師の髪型が十分に迫力があると思っていたのだが、実は一番穏便な髪型でもある事に今になって気がついた。
金髪ロンゲの導師、ハッキリ言ってちょっと怖かった。
ヒゲも仙人のように生えていて、そのアンバランスさで余計に怖いのだ。
「導師、髪を切らないのですか?」
「探索を終えるまで待つのである、また体液をかけられる可能性があるのである!」
そんな奇跡のような確率……導師ならあり得そうなので、俺達も無理に髪を切れとは言わなかった。
「少し揃えておきますね」
それでも、パウル兄さんの奥さんがハサミで髪を整えてくれた。
おかげで、少しはマシになったかもしれない。
最初にパウル兄さんの奥さんが導師を見た時、あきらかにビクっと驚いていたから。
ああ、でも見慣れたのかもしれないな。
髪を切ってくれたという事は。
でも、俺の甥達は導師を見て泣いていた。
このままトラウマにならない事を祈るのみだ。
「おれの髪神め! いたいけな子供を泣かせおって!」
導師が一人、髪神に敵意を燃やしているが、何だろう?
間違ってはいないと思うのだが、どこか言いがかりなような気もしてしまう俺がいた。
「それでも、少しだけ体液を集めたのである!」
「凄いですね」
ロンゲ、仙人ヒゲの導師は、自分の身に降りかかった髪神の体液を集めていた。
導師の髪とヒゲを伸ばすのに使われてしまい回収できた量は少ないが、とんでもない貴重品である。
一人分の髪を回復できる量はあるので、あとで厳しい獲得競争がおこなわれるであろう。
「効果てきめんだものなぁ……」
エルは、ロンゲ、仙人ヒゲの導師を見て、髪神の体液の効果が本物である事を知った。
俺も最初は眉唾ものだと思っていたけど。
「明日以降も、導師が活躍すれば髪神の体液が手に入るわけだ」
「いや、某が髪神の体液を手に入れたのは、本当に偶然である」
導師はエルに、明日も同じように髪神の体液を手に入れてくださいと言われても困ると答えた。
「魔法で捕縛しようにも、そう思った時にはいないのである」
そう、いくら魔法の準備をしても、唱える前に範囲外に逃げているから性質が悪い。
明日も、捜索はしたというアリバイだけ稼いで終わりだ。
「バウマイスター伯爵、陛下がこの薬を欲っしなくて助かったのである」
「それは、俺も考えましたけどね……」
その日は明日に備えて早めに寝てしまったが、翌朝、再びロンゲ、仙人ヒゲの導師を見て朝から心臓に悪かった。
睡眠でつい導師の髪とヒゲの事を忘れてしまっていたのだ。
俺の甥達など、再び導師を見て泣いてしまう有様だ。
「しかも、一晩でかなり伸びている……」
髪もヒゲも、昨晩より十センチ以上は伸びているはずだ。
「恐るべき効能ですね……」
「某には元々髪があるので、うっとうしいだけである!」
朝食後、導師はパウル兄さんの奥さんにまた髪を切ってもらっていた。
しかし、このままで導師は大丈夫なのだろうか?
髪やヒゲはタンパク質だと聞いた事がある。
つまり、導師の髪とヒゲの伸びが驚異的に早い分、自慢の筋肉が減って最終的にはガリガリになるとか?
もしくは、薬の効能が切れると髪の伸びに限界がきてハゲになる?
その可能性を考えると、俺が髪神の体液を浴びなくてよかったと思う。
「(でも、導師の筋肉が痩せ衰えたようには見えないか……)」
その髪はどこから来たのかと思ったが、ある種の魔法薬だから物理法則を無視するのかもしれないな。
導師は肉を沢山食べるから、そこからきているのかもしれないけど。
「今日で終わらせようと思ったんだけどなぁ……」
なまじ、導師が偶然でも髪神の体液を手に入れてしまったのがよくなかった。
パウル兄さんの領地で宿を求める冒険者の数が徐々に増えていき……。
「(お館様、もう何日かは捜索をされた方がよろしいかと……)」
ローデリヒから、魔導携帯通信機で連絡がきた。
大物貴族から『もっと探してほしい』という圧力がきたらしい。
しかし、こんな事でバウマイスター伯爵家が今までにないレベルの圧力を受けるとは……。
髪とは本当に恐ろしいものだ。
「俺は、髪が薄くなったら頭を剃ろうかな?」
「それは駄目なんじゃないのか? バウマイスター伯爵的に言うと」
そう言われると、坊主頭の貴族っていないよなぁ……。
でも、常に帽子を被ったり、誰にでもわかるカツラをつけるのもどうかと思うし……。
貴族達もそう思うから、俺への圧力が凄いんだろうけど……。
「それで、どうするんだ?」
「根気よく見張る!」
「しかないよなぁ……」
パウル兄さんの領地側の森では、最近髪が厳しいオットマーさんが領民を動員して森中に網や罠を仕掛けていた。
そもそも、髪神はそんなに罠に引っかからないからこそなかなか捕まらないんだけど……。
「もっと網と罠を増やすんだ! 見張りも厳重に、どんな些細な変化も見逃すな!」
パウル兄さんの従士長であるオットマーさんは、その経験と地位を生かして必死に髪神を捕えようとしていた。
「あの……パウル兄さん?」
俺は、オットマーさんを見ながら溜息をついているパウル兄さんに声をかける。
「あいつ、本当に必死なんだよ。領民達に髪神の体液が手に入れば巨万の富を得られると煽ってさ。俺にも、開発資金が手に入りますって……」
表向きにはもっともな理由であったが、実は自分の薄くなりつつある髪を取り戻すためなのは誰にでもわかった。
わかっているけど、可哀想だから誰もその事実を指摘しないというわけなのであろう。
「俺も、この件だけはオットマーに何も言えないよ。何か怖そうだし……」
パウル兄さんは、髪神祭りが終わるまでは仕方がないと諦め顔だ。
「たかが、毛生え薬のような気がしないでもないけど……」
エルはそう言うが、それは俺達は髪の量に困っていないからであって、ない人からすれば切実な問題なのだから。
それと、エルは発言に気をつけた方がいいと思う。
「エルヴィン! たかが毛生え薬ではないのだ! 必ず髪を取り戻す奇跡の魔法薬、これが手に入れば、バウマイスター準男爵領は必ずや大きく発展する! 高値で売れるからな、まあ……念のためにちょっとは使ってみるつもりだけど……実際に効果を試さないと売れないからな……とにかくだ! 将来はバウマイスター伯爵家の重臣になるであろうエルヴィンが、そんな考えなのはよくないぞ!」
エルはオットマーさんに捕まってしまい、長々と説教を受けてしまうのであった。
「それで、もう一週間だけど……」
どうやら、導師は本当に運がよかったらしい。
あれから髪神の目撃報告すらなく、みんなやる気をなくしていた。
それはそうだ。
みんなで、ただ担当しているポイントを見張っているだけなのだから。
冒険者の中には既に見切りをつけた者も多く、次第に髪神探索に参加する人数は減っていった。
「先生、見つかりませんね」
「退屈です」
「見張る以外に何もできないので辛いです」
アグネス、シンディ、ベッティ他、アルバイトで探索に参加している生徒達も退屈そうだ。
若いのによく我慢したとも言えるが、さすがにもう限界であろう。
「新しい目撃報告もない。今日で一旦終わりにしよう」
「賛成!」
俺が髪神探索打ち切りを宣言すると、真っ先にブランタークさんが賛成した。
「ブライヒレーダー辺境伯は何も言わないのですか?」
「言うわけがない。目撃されても、十回に一回くらいしか体液が手に入らないんだぜ。うちのシビアなお館様がそんな夢は見ていないよ。俺の派遣はアリバイ作り。本当、王都のハゲどもも諦めればいいのに」
随分と酷い言いようだが、こちらも多額の資金を投入しているからな。
そういつまでも続けるわけにもいかない。
アグネス達のアルバイト代に、宿泊費など。
宿泊費はパウル兄さんが少し勉強してくれたけど、今までの経費を計算すると小身の貴族だと頭を抱えるだろう金額にはなっていた。
「第一、魔法で捕まえられないからな」
ブランタークさんですら、導師もそうだけど、髪神を魔法で捕えられないのが大きい。
髪神の存在を認識した瞬間には大分距離は離れてしまっている。
魔法を発動させる暇もないというわけだ。
「一応、こんな魔法も作ってみたんですけどね」
俺は、ブランタークさんに網の目が細かい魔法ネットを見せた。
「なかなかに緻密な出来だが、この手を考えない魔法使いはいないさ」
「ですよね」
髪神を魔法のネットで捕える。
とても陳腐な手段だと言えよう。
「その網を展開する前に、逃げられてしまうからな」
「となると、網を仕掛けるしかないのか……と言っても、そこに髪神がくる確率は低いですよね」
その前に、そんなあちこちに魔法のネットを仕掛けて維持していたらいくら魔力があっても足りない。
利点としては、普通のネットに比べると網の目を細かくでき、俺の場合は色を極力透明にして見えにくくもしている点であろうか。
「もっと網の目を細かくします」
「ここまで細かいと、さすがの髪神も抜けられないか?」
「えっ? そこで疑問形ですか?」
「髪神の正体なんて誰も見た事がないからな。噂ではどんな形にもなれて、網の目をすり抜けるとか? あくまでも噂、伝承の域だけどな」
形を自在に変えて、網の目を潜り抜ける?
もしそれが本当ならば、魔法の出る幕すらないと俺は思ってしまう。
「この網もボツですかね? こうやって頭上に仕掛け、髪神が捕まって体液を出した時に備えて、下で壺を持って待ち構えるのです」
俺は、魔法の袋から取り出した大きめの壺を両手で持ちながらブランタークさんに見せた。
「随分と大きな壺だな。今までも、一回に採れた体液なんて十人分がいいところだぜ」
導師が運よく回収できたのが二十ccくらいで、これが一人前くらいだそうだ。
俺が持っている壺が昔に塩を入れていた物で、満タンにすれば二十リットルくらいは入りそうであった。
「欲をかきすぎだぜ、伯爵様」
「このくらい壺が大きければ、体液を拾うのも楽かなと……」
「髪神が出たぞ!」
そんな話をしていたら、少し離れた場所から髪神が出現したと報告が入った。
慌てて対応しようとした俺の頭上を一陣の風が舞う。
「また間に合わなかったか!」
また逃げられてしまったかと頭上を見上げると、何と上から大量の液体が降ってきた。
「伯爵様!」
俺は慌てて対応しようとするも、その液体はすべて抱えていたツボの中に入ってしまった。
急にズッシリと重みがくるが、俺は慌てて魔法で体を強化し、壺を地面に落としてしまうのを防ぐ。
「急に雨ですか?」
「違うよ、それが髪神の体液なんだろう。この辺に雨なんて降っていないから」
俺は、思わぬ幸運によって大量の髪神の体液を入手してしまうのであった。
「しかし、なぜこんなに?」
「偶然としか言いようがないな」
目的の物が大量に手に入ったので、これで探索は終了となった。
一旦パウル兄さんの屋敷に戻り、そこで壺に入った液体の確認をおこなう。
「壺に入った時に、重たくて溢すかと思いました」
「ほぼ満タンだからな」
多分、髪神の体液は二十リットル近くあるはずだ。
二十リットルは二万ccなので、一人前が二十ccだとすると千人分という計算になる。
「とんでもない量であるな!」
導師も、壺になみなみと入っている髪神の体液に驚くばかりだ。
「しかし、なぜこんなに入手できたのであるか?」
「偶然だな。間違いなく」
ブランタークさんの推測によると、俺がたまたま頭上に魔法のネットを掲げていた所を髪神が通り抜けた。
髪神は形を自在に変えるが、俺が試作した網の目が細かすぎて体の水分……つまり体液だけど……を捨てないと通り抜けられなかったから、大量に捨てたのではないかというわけだ。
「なるほど。それで、本物なのであるか?」
「本物ですね……」
「やっほぉーーー!」
俺達の傍で、オットマーさんが人目も気にせずに大喜びしていた。
実験……じゃなくて試しにオットマーさんの頭に体液を塗ってみたところ、髪が全体的に太くなり、頭頂部の髪が薄い部分も完全に回復している。
毛根が死滅した部分にも髪が生えるので、髪神の体液の効果は本物のようだ。
導師の場合、髪や髭の成長促進しか確認できなかったので、その点だけが心配だったのだ。
「となると、惜しかったな。うちは」
俺が髪神の体液を採取した場所は、パウル兄さんの領地側ではなかった。
もしそうなら三割くらいは権利があったのだから、確かに惜しいかもしれない。
「まあいいか。うちも儲かったし」
ゴールドラッシュではなく、髪神ラッシュにより、集まった冒険者達の宿泊先や食事の手配などで、パウル兄さんもかなり儲けていたからだ。
「それに、そんなものをうちのような零細貴族が持っていると面倒そうだし」
こうして一週間の探索を終え、俺達は無事にバウルブルクへと戻ってきた。
「あなた、お帰りなさいませ」
エリーゼ達が出迎えてくれて、ようやく屋敷に戻ってきた事を実感する。
みんなの顔を見ようとリビングに移動すると、イーナ達は何やら相談しているようであった。
「イーナ、何かあったのか?」
「そんな大した事じゃないけど、髪を切ろうかなという相談していたの」
「えっ? 何で?」
「知らないの? 妊娠すると、栄養が赤ちゃんに持っていかれて髪が駄目になるのよ。赤ちゃんが生まれてから、また伸ばそうかなって話になってね」
「そうなのか」
正直、初耳だ。
母親になるというのはなかなかに大変なんだな。
でも、せっかく伸ばしているのに髪を切るのは勿体ないような……。
「ボクは元々短いから切らないけど、他のみんなはしょうがないよ」
髪が短いルイーゼを除き、みんな髪を短くする相談をしているようだ。
「最近では、私の髪型も勢いをなくし、色艶も悪くなってきたので仕方がありません」
貴族として髪型には拘るカタリーナですら、段々と状態が悪くなってくる自分の髪には困っているようであった。
切るのも止む無しという考えに至っている。
確かに、少し髪の色艶が悪いような……、クルクルロールの勢いもない。
女性は妊娠すると色々と大変なんだな。
子供を産んだ事がない俺にはわからない苦労だ。
「ヴェンデリン、髪は出産後にまた伸ばせばいいのだから気にするな」
「そうなんだけど……」
テレーゼも、髪を短くする事を決めたようだ。
俺は長い髪型も短い髪型も似合えば好きだけど、みんな一斉に短くしてしまうと寂しいような気がする。
「長い付き合いの髪型ですけど、こればかりは仕方がありません」
ようやく母親になれるリサからすれば、髪型に拘っている場合ではないというわけだ。
「でもなぁ……」
俺は、今までの髪型がいいんだけどな。
でも、荒れた髪のケアが必要になるか。
ちょっといいシャンプーやヘアケア製品で保つのは難しいか……いや、待てよ。
いいものがあるじゃないか。
「じゃじゃーーーん! 今回の成果、髪神の体液ぃーーー!」
俺は壺の中から少量の髪神の体液を手に付けると、それをエリーゼの髪に薄く塗った。
すると、目に見えて髪の質がよくなっていく。
妊娠前の美しいエリーゼの金髪が復活した。
「おおっ! いけるじゃないか! じゃあ、次はと……」
「「待てい!」」
続けてイーナの髪に髪神の体液を塗ろうとすると、エルとブランタークさんが止めに入る。
「えっ? どうかしましたか?」
「いや、伯爵様。そんな無駄使いは駄目だろう」
「無駄じゃないですよ。エリーゼの髪がこんなに綺麗になったじゃないですか」
夫としては、妻は綺麗な方がいいからな。
それに、髪神の体液は俺が採取したものだ。
どう使おうと俺の勝手であった。
「エリーゼの嬢ちゃん達の髪は、出産後に復活するじゃないか。その魔法薬は、王国中の髪がもう二度と戻って来ない連中の希望だから、無駄遣いは止めた方がいいって!」
「無駄じゃないですよ、エリーゼ達の髪が綺麗になります」
「だぁーーー!」
どうにも、俺とブランタークさんの意見がかみ合わないようだ。
「だって、偶然とはいえ俺が採取したものですよ。少しくらいいいじゃないですか」
「伯爵様が、髪神の体液をそんな事に使ったなんて知られたら大変だぞ」
「大丈夫ですよ。使ったなんて言わないですから」
俺が髪神の体液を採取した事実は外部に知られてしまったが、どのくらい採ったかなんて知られていないのだから。
「第一、顔も知らない人のハゲが治るよりも、エリーゼ達が綺麗な方が俺は嬉しいですし」
「ヴェル、お前は何気に酷い事を言うな……」
エルが、なぜか俺に呆れている。
でも、おっさんや爺さんに褒められるよりも、毎日顔を合わせるエリーゼ達が綺麗な方が精神衛生上よろしいのは事実だ。
「俺もそう思うけど、そういう行動は髪がないやんごとなき方々を敵に回すから!」
もしエリーゼ達の髪につけた分の髪神の体液が減った事実を知られてしまったら?
そのせいで割を食った貴族に恨まれると、ブランタークさんは説明する。
「ブランタークさん」
「何だ?」
「内緒でお願いします」
「ちくしょう、碌でもない秘密を抱えてしまった」
俺は中断していた作業を再開する。
イーナに髪神の体液を塗ると赤い燃えるような髪が復活し、ルイーゼ、ヴィルマ、カタリーナ、テレーゼ、カチヤ、リサと次々と綺麗な髪が復活していく。
さすがは伝説の魔法薬である。
というか、もしこれを地球に持って行ったら金持ちがいくらでも出しそうだな。
「アマーリエ義姉さんもつけますか?」
「私は妊娠していないから大丈夫よ」
「必要になったら言ってくださいね」
「嬉しいけど、ブランタークさんの顔が真っ青よ」
「ちょっとくらいいいと思うんだけどなぁ……」
エリーゼ達の髪を元に戻した俺は、そっと髪神の体液が入った壺を魔法の袋に戻すのであった。
「旦那、正面門の方が眩しいな」
「カチヤも、大概口が悪いな」
「女冒険者なんてこんなものだぜ。姉御だって、前は凄かったじゃん」
「否定できませんね……カチヤも少しずつ直しなさい」
「姉御、それは難しい話だなぁ」
数日後、バウマイスター伯爵邸の前に多くの眩しい方々が集まった。
その眩しさに目も眩むばかり……俺もカチヤの事は言えないか。
リサはあのメイクと衣装にならないと喋り方は普通なので、カチヤに普段の喋り方を直すようにと忠告した。
本人には妙な拘りがあるようで、やんわりと断られてしまっていたが。
「この数日でよく集まったなぁ……」
「髪神の体液は安いものではありません。購入できるのは財力に自信がある者ばかり、自然と大物貴族と大商人に限定されますので、その情報収集能力を侮ってはいけません」
「必ず効く魔法薬を入手し損なわないようにか」
「はい」
髪神の体液だから正確には魔法薬じゃないけど、効果は絶大なので魔法薬扱いであった。
本当の魔法薬は、専門家が調合している。
知識があれば魔法使いじゃなくても調合可能だけど、最後に魔力を篭める種類の薬もあるので、やはり魔法使いの方が有利だ。
こうやって、魔道具、魔法薬と魔法使いのリソースが割かれるから、余計に魔法使いが不足するんだよな。
もっとも、個人で魔法薬の調合師をしている人は少なく、大半は知識のある魔法使いじゃない調合師を雇って調合工房を開いているけど。
勿論、調合師のギルドも存在する。
ただ、魔法薬の類は門外不出のレシピなどもあって完全に秘密主義である。
魔道具工房よりも目立たなかった。
ついでに言うと、金になるから毛生え薬はかなりの種類発売されている。
値段は魔法薬なのでかなりお高いが、効果の方はあるような、ないような?
毛根が残っていると効く薬もあるので全部がインチキじゃないけど、髪に悩む人々は、色々と購入しては駄目だったという日々の繰り返しらしい。
「私もあとで資料を調べましたが、前に髪神の体液が入手されたのが、三百二十四年前に二十四名分のみです」
リサは、地味に過去の古文書の解読なども得意であった。
昔も同じ言語なんだけど、あまりに古い書籍や資料だと字が達筆すぎたり、崩しすぎたりで、俺たち一般人には読めないケースが多いのだ。
おかげで、師匠が残した文献の解析は他の仕事が忙しいので後回しにしていたのだけど、妊娠中で動けないリサが解読、翻訳してくれるのでありがたかった。
「停戦よりも百年以上も前なのか!」
それは、必死になって集まるはずである。
俺が髪神の体液を入手したので、それを欲する人々が集まったというわけだ。
そんな彼らの頭が、日の光でキラキラと輝いているわけだね。
「だから、そんな貴重な薬を嫁さんの髪に使うなっての!」
「このくらいの我儘は許してくださいよ。もしかして、ブライヒレーダー辺境伯も密かに髪の悩みが……」
「それはねえよ。伯爵様の不正流用が知られると、うちのお館様も怒られるからだよ」
「不正流用って……俺が採取したものなのに……」
それにだ、みんな髪の傷みが回復して妊娠中でも綺麗な髪型を維持していられるようになったんだ。
これは素晴らしい事だと俺は思うけどね。
「確かに、髪神の体液の権利は伯爵様にあるけど、あの外の連中の血走った目を見ろよ。下手をすると紛争だからな」
失った長い友を取り戻す。
そのために、他のライバルを蹴散らすのも躊躇わないというわけか。
「それを聞くと恐ろしいような……」
「古代より、金、権力、女、髪で人々は血で血を洗う戦いを続けてきたのである!」
「導師、最後の一つおかしくないですか? あと、髪型は直さないんですね……」
今日は導師も来ていたが、彼は肩まで伸ばしたキンパツロンゲと、仙人のような髭をそのままにしていた。
いつものパイナップルカットとカイゼル髭ではないので、エリーゼですら最初は絶句したほどだ。
というか、俺もブランタークさんもまだ慣れていない。
朝に挨拶とかされると、思わずぎょっとしてしまうのだ。
「もう一日二日、髪神の体液の効果が薄れるまでは面倒なのでこのままである。これでも、朝に大分切り落としているのである」
髪神の体液をつけると、一週間から十日ほどは髪が過剰に伸びてしまう。
その期間が終わると状況は落ち着くので、導師はそれまではいつもの髪型は止めていた。
剃らないと駄目なので、今は面倒だと思っているのであろう。
「質問!」
「はい、エル君どうぞ」
「髪神の体液って、相場はいくらくらいなんだ?」
「「「「「……」」」」」
エルのもっともな質問に、全員が黙り込んでしまった。
絶対に効果がある毛生え薬、一体いくらなのか見当もつかなかったからだ。
「ええと……古い資料には載っていないのかな? リサ」
「約一千万セントと書かれていました」
「高っ!」
塗れば、必ず髪が蘇える。
凄い薬だとは思うが、所詮は毛生え薬でしかない。
それに日本円で約十億円とは、俺には狂気の沙汰としか思えなかった。
購入したのは、間違いなく大物貴族であろう。
その金を領地の産業振興とかに……でも領主はその領地の顔だものな。
できればフサフサの方がいいと思ったのか?
「もし俺なら、その金額を払うだろうか?」
こればっかりは、自分の髪が薄くなってみないとわからないよなぁ……。
今の俺の『髪くらいで……』なんて心情は、持つ者の傲慢さからきているのかもしれないし。
「ヴェル、外の眩しい人達はどうするんだ?」
かなりの大物貴族達もアポなしで集まっているので、屋敷の前のメインストリートが渋滞しているからなぁ……。
建設工事の邪魔になってしまうか……。
「今回は一杯獲れたから、一人前百万セントで売ればいいか」
それにしても、日本円で一億円だ。
普通の人にはまず出せない金額だよな。
「諦めて帰る人もいるだろう」
この人達の陳情を全部聞いていたらいくら時間があっても足りないので、俺達は髪神の体液を一人前ずつに分けて販売を開始した。
依頼書を寄越した貴族が最優先だけど、依頼書には値段が書いていなかったからな。
まあ、同じ金額でいいだろう。
何かもう、価格交渉をするのも面倒くさい。
あと眩しい。
「バウマイスター伯爵、よくぞやってくれた!」
「百万セントだと! 安い!」
「俺は髪を取り戻すのだ!」
恐ろしい事に、屋敷の前に集まっていた人達で髪神の体液を高いという人は一人もいなかった。
みんな即金で支払って、すぐに頭に髪神の体液を塗る。
すると、どんなツルッパゲでもすぐに髪が復活した。
何度見ても、恐ろしい効力である。
「よかった! 死ぬ前に髪が戻って本当によかった!」
八十を越えているようにしか見えない老人までいたが、明日死ぬにしても髪があった方がいいものらしい。
白髪ながらも見事な髪が復活し、年甲斐もなく喜んでいる。
「ヴェル様、眩しくなくなった」
「ヴィルマ、しぃーーー」
「しぃーーーする」
集まっていた人達全員に髪神の体液を売ると、これで在庫はすべてなくなった。
偶然で手に入ったものだが、エリーゼ達の髪は綺麗になったし、世の中の髪で悩む人々がかなり救えたのでよかった。
善行を積んだ気分だな。
俺も儲かったし。
「ところで導師は、髪神の体液はどうするのですか?」
「我が家の伝統から考えて、いつもの髪型ができなくなるのは困るのである! よって、万が一に備えてとっておくのである」
導師本人は、アームストロング家の伝統に従ってパイナップルカットを維持している。
髪が薄くなってその髪型ができなくなった時のために、髪神の体液はとっておくつもりのようだ。
「バウマイスター伯爵は、少しくらいはとっておかないのであるか?」
「髪が薄くなったら、その時はその時ですよ」
などと導師には言ったが、実は髪神の体液を少しとっておいてあるのは秘密である。
それにしても、たかが髪、されど髪と思わせてくれる事件であった。