三、母二十五歳、フリージアとサイダー。
何度も踏んだ。何度も蹴った。何度も殴った。気がつけば“次男”は死んでいた。床には気色悪い触手のいっぱい生えたバケモノの死骸と、まだ小さな子供の死体が並んで転がっていた。両方ともあたしが殺したんだけど。
「…知らないって」
殺すつもりなんて微塵も無かった。ただ何かあればすぐ謝ってばかり、そんな誠意の無い態度が気に入らなかっただけ。だからちょっとだけイライラを晴らそうとしただけ。なのに。
「あんなガキ、別に死んだってどうでもいいじゃん」
全然、動かない。死ぬ程苦しそうな顔のまま一ミリも動かない、と言うか実際死んでるわけだけど、何か微妙に幸せそうな顔にも見える。それを見てるとやりきれなくなって、あたしはマンションから飛び出した。
あたしがこの家に来たのは、一年くらい前、酷い雨の日だった。その日、あたしは妊娠をやめた。お腹を満たしていた愛の結晶は流れ堕ちて行った。夏だと言うのに、酷く寒い日だった。
『ねえ』
公園のブランコに座って俯くあたしに声を掛けたのは、何だか気が弱そうで、あと無駄に小さい男子だった。あと何か微妙にあたしの初恋の人に似ていてムカついた。そいつは、あたしの正面に立って気をつけの姿勢になったかと思えば、『ぼくたちのお母さんになって』と叫んだ。意味不明だった。
意味不明だったのに。何故かあたしは気がついたらこの家に来ていたのだ。
あたしいらないじゃん、って思うくらいに(と言うか実際あたし不要だけど)しっかり者の“長女”。どう見てもヤンキーな金髪ピアスの“長男”。あたしをここに連れてきたクソチビの“次男”。何かいっつもビビってて正直ウザい“次女”。部屋の隅でずっと膝抱えて俯いて座っていて、まだ顔すら見たことがない “三女”。そんな子供たちの“母親”になったあたし。それはイビツだけれど、きっと一つの家族の形なのだった。少なくとも子供たちはあたしのことを母として慕ってくれていたし。もうマジイミフ。でもそれはそれなりに幸せなのかも知れなかった。
けれど、この家に来た日から、あたしの世界は一つだけ大きく変わった。あ、嘘、二つ。
一つ目は、売春を始めたこと。生活費を稼がなくちゃならないから。ずっと養ってくれてた彼氏と別れて、彼氏との子供を堕ろして、んでよく分からない家族の母親になったあたしは、身体を見ず知らずの男たちに晒した。別に子供を養うためじゃない。ガキどもの食事とか、全部“長女”が用意してたみたいだし、あたしは完璧にノータッチだった。けど、あたしだって金が無くちゃ生きていけない。全てを晒すのは思ったよりもずっと平気だった。
二つ目は、あたしの世界にバケモノが入り込んできたこと。街中を歩いていたら、今まで見たことも無いバケモノをいろんなところで見るようになった。触手が生えていて、なんかぬめぬめにゅるにゅるしてて。あたしは何となく、そのバケモノを殺すことにした。見つけたら捕まえて家に持って帰って殺す。毎日のように繰り返した。バケモノはいつも猫のような断末魔を上げながら死んでいった。
ああ、猫と言えば、最近黒猫以外の猫を見かけなくなった。これもあたしの世界の変化の一つかも知れない。合計三つ。でも小さな小さなあたしの世界の中では大きな革命。
あー、何か凄いダサい回想に浸ってた、あたしサイテー。もういいや、帰ろう。げっとばっくほーむ。ふぁっきゅー。
いつの間にか割と遠くまで歩いてきていたので走って戻っていたら自分が裸足だったことに気づいて家に着いてドアを開けてワンルームマンションのワンルームに突入すると、“次女”が帰って来ていた。二つの死体を眺めて茫然としてる。あたしはとりあえず無視して、床に寝転がった。今日は疲れた。もう起きてたくない。寝る。すりーぷ。
起きた。いつの間にか“長女”も帰っていた。家族全員集合じゃん、一人死んでるけど。んで、何故か“長女”はキレてた。んで“次女”を死ぬ程殴ってた。おいおい、そんなにやったら死ぬぜ、あたしが言えた義理でもないけど。“次女”は何か変な音を出して苦しんでいる。「うげっ」とか、「おごぇっ」とか、「……」あ、声出さなくなった。
あたしは溜め息をついて起き上がった。理由は分かんないけど、とにかくむしゃくしゃして、イライラして、あたしは“長女”の背中の後ろに立って、で、思いっきりその側頭部を蹴っ飛ばした。“長女”は壁に頭をぶつけて動かなくなった。いろいろとどうでもよくなるのを感じた。“次男”、殺しちゃったし。ずっと気づかないフリしてたけど、あのチビが死んだ途端心が枯れたのにあたしは気づいてたんだ。何だかんだであたしを救ってくれたのはあのチビだったから、心の奥底ではあいつに依存してたんだと思う。でももうどうでもいいよ。あたしは包丁を拾った。バケモノ殺した時に使ってそのまま放置してた奴。んで、まだ息があるっぽい“次女”の首を刺した。深くまで。固くて全然入んなかったけど、ぐりぐり動かしてたらいきなりすぽって入った。
“長女”も刺そうかと思ったけどもうどうでもいいや。“長男”はいつの間にかいなくなってるけどどうでもいいや。どうでもいいや。あ、すっかり存在を忘れてたけど“三女”もどうでもいいや、と思って“三女”の方を見たら、彼女が初めて顔を上げていて割とびっくりした。初めて見るその顔は、年相応に幼かった。けれど、目の下を余りにも濃く染める隈が、“生きてる感じ”を奪っている。死んでるみたい。どんな人生を送ってきたんだろう。なんて、今更だけど。
喉が渇いた。冷蔵庫を開けた。ロープとサイダーと造花のフリージアが入っていた。意味不明だ。ロープとか造花とか冷やして何に使うんだ。でもせっかくなので全部取り出した。あたしも割と意味不明だ。ふへへ。ごきゅごきゅ。サイダー美味しい。この際だ、このサイダー全てぶち撒けよう。ペットボトルを振り回した。部屋の床はサイダーだらけになった。子供たちにも掛かった。ざまぁ見やがれ。
サイダーは全部ぶち撒けたから、今あたしに残っているのは造花のフリージアと、あとはこのロープだけだった。
この、ロープ、だけだった。