一、長男十六歳、フリージアとピアス。
冷夏だった去年の分を取り戻すかのように異常な暑さの所為で、繋いだ手はすぐに汗でびしょ濡れになってしまった。ぬるぬるとした不快感から逃れるために手を離そうとする。けれど絡みついたアキの指は外れそうに無い。無理矢理解けばきっと怒るに違いないし。俺は深く溜め息をついて諦めた。
「何よ、溜め息ばっか吐いて。感じ悪い。」
アキが俺の顔を覗き込んで不満そうに言う。唇を尖らせて、眉間に皺を寄せて。近づいたその頭部を覆う髪の毛からは、仄かなフリージアの香りが漂っていた。さっきホテルでシャワーを浴びたばかりだから、きっとシャンプーかトリートメントの匂いだ。
「良い匂い。」
俺はそう言って彼女の頭を胸元に抱き寄せた。いきなり抱きしめられたアキは何やら暴れながら文句を言っているようだけれど、顔面が胸に押しつけられている所為で言語になっていないから、無視して息を思い切り吸い込む。この匂い、好きだ。いつまでもこうしていたい。
けれどそんな幸福の時間は、たったの二十秒程で終わってしまった。アキが腕の間からするりと抜け出してしまったのだ。乱れた髪の毛を直すこともせずに浅い息を繰り返しているアキの頬や耳は、羞恥の色に染まっていた。
「いきなり何してんのバカ!」
「良い匂いだったから」
「それはさっきもう聞いたから!」
まだ「何してんの」と言う問いには答えていないんだけど。まあ良いか。
気がつけば道行く人の冷たい視線が、急に抱き合ったり叫んだりと不審な行為を連発している俺たちへと向けられている。その視線から逃げるように、と言うか逃げるためにアキの手を握って歩き出した。
踏みしめるセンター街の石畳には吸いかけの煙草がいくつも散乱している。その中に一つ、火の消えていない煙草を見つけた。俺は腰を屈めて、まだ煙を燻らせているそれを拾った。
「何拾ってんの?」
「煙草」
「それは分かってるって。」
分かってるなら何で聞くんだろう。不思議に思いながら、煙草を口元へ持っていく。途端にアキの顔色が変わった。目とか口とか、凄い開いてる。そして思い切り手首を掴まれた。可愛らしくデコレーションされた爪が手首の肌に食い込むのを感じた。いや、感じたとか余裕かましてるけど実際結構痛くて泣きそうだったり。
「何で落ちてた吸殻、吸おうとしてるの!?」
「冗談だって。」
俺は笑って、それから見せつけるようにその煙草を地面へと捨てた。
「ただの冗談だって。」
もう一度、言い聞かせるように繰り返しながら猛反省する。思わず手が伸びてしまった。あまりアキの前では変なところ見せたくないんだけど。俺は自分への罰として、俺の顔中を埋め尽くすピアスを、一つだけ取ることにした。
どれがいいだろう。唇とか舌とか、あんまり取りたくない。痛いし。鼻も嫌だなぁ。やっぱり耳か。うん耳にしよう。そう決めて、耳たぶにつり下がっているリング型のピアスに指を掛けた。アキが怪訝そうな表情で、
「何して――」
その問いを遮るように、ピアスを思い切り引いた。耳たぶが千切れる感触、痛いとも熱いとも言えるその感覚に顔をしかめた。
「何してるの!」
さっき言い損ねた台詞を、さっきの数倍の勢いで叫ぶアキ。大体七倍くらい? それにしてもアキは質問ばっかりだな。と言うか、ミスった。落ちてる煙草拾うより変なことしちまった。
「…ごめん、つい。」
上手い誤魔化し方も思いつかずに、とりあえず心にも無い謝罪を口にする。いや、心にも無いってことは無いかな。実際俺の汚い部分を見せて悪いと思ってるし。
けれど、その謝罪を聞いたアキはさっきまでの驚愕の表情を、酷く傷ついた顔に変えて、「もう電話とかしてこないで」と言って走り去ってしまった。
うん、なんか、出来の悪いドラマか漫画みたいだ。ちょっと笑える。だって今時「もう電話とかしてこないで」って。笑うしかねえ。
いつまでも一人でこんなセンター街をうろついていても仕方ないので、俺は家に帰ることにした。さっき投げ捨てた煙草をもう一度拾って足を動かす。煙草の火が消えかけていたので息を優しく吹きかける、するとすぐに赤みが増して煙が出始めた。咥えて、肺に煙を吸い込む。
我が家は、センター街から少し歩いたところにあるワンルームマンションだ。そこに、母と姉と弟と二人の妹、加えて俺の六人で暮らしている。少し狭いような気がするけれども、別に構わない。家族、みんな仲良しだし。ちょっと母さんが暴力的だけど。みんな、仲良し。と言うか、この煙草、不味い。
「なんだよこれ…。」
煙草とか、買ったこと無いから全然銘柄なんて分かんないけど、これ不味い。何かバニラと餃子を混ぜたみたいな味するし。けどもったいないから全部吸わなきゃ。
そうやって不味い煙を吸い続けて、いよいよ火がフィルターまであと一センチ程になる頃、俺は自宅へと到達した。鍵は、多分開いてる。ドアノブを回すと予想通り何の突っかかりもなく、ドアが開いて、玄関で立っていた姉ちゃんは「あつっ」と叫んで、俺は「うわっ」と声を上げた。ちょうど靴を履いていた姉ちゃんの腕に、持っていた煙草が当たってしまったらしい。
俺はごめんと謝って、左手の甲に煙草の火を押し当てた。肉の焦げる匂い。
「もう、そう言うのやめなさいって言ってるでしょ。」
姉ちゃんが呆れたように言った。
「だからこう言うのやめれないって言ってるじゃん。」
俺も真似して呆れたように言ってみた。殴られた。普通に根性焼きより痛い。それを口に出したら「あんたの感覚が麻痺ってるだけでしょ」と言われた。確かにその通りかも知れないけどさ、もうちょっとオブラートに包んで言ってくれたっていいだろうに。
「ところでさ。」
溜め息を深く吐いて、さっきから気になっていたことをそろそろ尋ねることにした。
「さっきから猫の喚き声が聞こえるんだけど何が起こってんの?」
大体答えは分かってるけどさ。だっていつものことだし。
多分ここ一年、毎日欠かさず起こってる。って言うか一日何回も起こってる。あまりにも日常のこと過ぎて、別に何の感慨も湧かない。
姉ちゃんがにっこり笑って、答えた。
「お母さんが、猫、殺してる。」
ほら、やっぱりね。