ニクトフォビアの悪魔
大学用。
シューベルトの『魔王』を聞いたのは、小学生の頃だったと思う。音楽の時間に聞いたその曲は、音から歌詞から何から何までおどろおどろしいものだった。クラスの同級生は、「マイファーザー、マイファーザー」とよく話のネタにしていたが、当時の俺にとっては冗談にならない歌詞だった。
――お父さん、魔王がいるよ。王冠と衣をつけた魔王がいるよ。
その夜、俺は悪魔を見た。
やけに目が冴えて眠れなかったのを覚えている。というのも、『魔王』を思い出すたびに背筋に寒気が走るのだ。低音と高音が人を追うように連なる音の連続が、心臓の鼓動と共に俺を襲っていた。
今考えてみれば、それは気のせい以外の何ものでもなかった。しかし、豆電球すらも灯っていない部屋で、夜目になればなるほど、周りのものが誰かの顔に見えて仕方が無かったのだ。ただ、その頃はもうそれが目の錯覚だと何となく分かっていたはずなのに、俺はその暗闇の中に悪魔を見てしまった。
暗闇が輪郭を持ち、空間が盛り上がるようにして現れた悪魔は、笑っていた。天井に向かって仰向けに寝ていた俺は、金縛りにあったように動けなくなった。頭はやけに活発になっているのに、呼吸が止まりそうになって苦しかった。声を出そうと思っても出ない。自分の身体が、その何かに乗っ取られてしまったと、俺は本気でそう思った。
――お父さん、悪魔がいるよ。
それは『魔王』と同じ台詞回しで、自分が考えたことながら嫌な予感に襲われた。
じっと目を瞑り、悪魔がいなくなるのをひたすらに待った。その時、羊を数えたのか般若心経を唱えていたのかは定かじゃない。悪魔がいなくなるのであれば、神か仏かはたまたそれ以外の何かか、何でも良かった。隣で寝ている母さんが起きて退治してくれることを期待したりもした。
祈りが届いたのか、悪魔はその後すぐに姿を消した。金縛りから解放された俺は、母さんに泣きついた。初めは心配してくれていたようだった。しかし、「悪魔」だの、そういう言葉を聞いているうちに眠りを妨げたほうに怒りが沸いたのか、テレビの見すぎという適当な相槌にも似た返答に変わっていった。
母さんはダメだと、まだリビングでテレビを見ていた父に泣きついた。すると父は、大きな手で俺の頭を撫でながらこう言った。
――悪魔なんていないんだよ。
父も信じてくれない。確かにいたのに、あの恐ろしい悪魔がいたのに。
周りに味方がいないことを知ったからか、俺は酷く泣き出してしまった。悪魔が、悪魔がと繰り返し言う俺に向かって、父はもう一度それを言葉にした。
――悪魔なんていないんだ。いたとしても、それは、お前が怖いと思うから出てくるものであって、本当はどこにもいはしないんだよ。
違う。いるんだよ、悪魔は確かにいたんだ。
どれだけ騒いでも、誰も信じてはくれなかった。
シューベルトの『魔王』はバッドエンドである。子は病に倒れ、父は嘆き悲しんだのだ。
だが、俺は生きている。風邪を引くことも稀で、元気に今を生きている。
あれは『魔王』なんかじゃなかったからだ。
そう。
何故なら、俺の家にやってきたのは『悪魔』で、連れ去られたのは、父のほうだったのだ。翌日の朝、突然倒れた父は病院に運ばれた。医師の努力もむなしく、父はその日の夜に命を落とした。
母は酷く泣き腫らしていたが、俺が持っていた感情は全く違うものだった。
『悪魔がお父さんを連れて行ってしまった』
父は売れない芸術家だったが、その矜持だけは立派だった。お金がどこから入ってくるのか知らなかった俺は、父の描く絵が自分たちの家計を支えてくれているのだと思っていた。実際は共働きしていた母が稼いでいたのだが、それを知ったのはずっと後だった。
父は、自分の作品を一度も公開しなかった。どこかでたまに販売をしているとは聞いたことがあるが、俺は父の作品を見たことが無い。たまに油絵のキャンバスを抱えてどこかに行ったり、ゴミに使い終わった絵の具の容器があるくらいで、実際に父が活動しているところなんて見たことが無かったのだ。父は「俺の作品はお前に見せるものじゃない」と頑なで、どれだけ頼んでも見せてはくれなかった。それは自分が子どもだからと、そう思っていた。
悪魔は、父の才能を羨んで連れて行ったのだ。それが、俺が幼いなりに出した結論だった。父を尊敬していた俺は、それが憎かった。自分が持っていないものを他人から奪うなどと、芸術家の片隅にも置けない。悪魔は俺が見つけて、退治する。そして、父を取り戻そう、なんて、そんなことを考えていた。
だから、俺は美術大学に進学し、この作品を作ったのだ。
それは俺の復讐であり、恐怖の象徴だった。
【ニクトフォビアの悪魔】
■■■
美大の小さなアトリエで、筆を走らせている女がいた。創作の部屋とは妙に散らかっているものだが、美大のアトリエは毎日清掃員が綺麗に掃除してしまうために、絵の具の斑点模様の一つさえも見当たらない。言わばその空間さえも一つの芸術であり、汚れたままで在ることはよくないらしい。まだ白いキャンバス、作りかけの彫刻、壁に立てかけられた誰かの絵画、そして少女。ここもまた、一つの絵なんだろうと思う。
都内の美大に入学したあと、俺は版画などを主体とする大きめのサークルに入った。別に小さなサークルでもよかったのだが、美大という割にはスポーツ系のサークルも多く、また演劇系が特に多かった。言ってしまえば、絵画系はここしかなかったのだ。幸い、先輩方は良い人が多いし、四つのアトリエを抱えるという巨大サークルなので、自分の居場所には苦労しない。実力も良し悪し半々といった感じで、自分の技術が浮く事も無かった。
だからこそ、彼女はみんなの気を引いたのだ。
天才と、そう呼ばれるべき人間が稀に存在する事を知っている。彼女の描く絵が美しいことは勿論だが、問題は彼女の絵に対する意識にあった。
「私は、想像したもの、目で見たものをそのまま描いているだけなんです」
そう彼女は言う。
彼女が描くのは主に自然の風景画だった。山、川、緑、空、なんでも描く。木漏れ日や、雲の隙間から覗く空、太陽光によって煌く河川で悠々と泳ぐ魚、何より彼女は、明暗の表現に長けていた。ある種誇大的に、だがしかし実にリアルにそれを描く。
想像したものをそのまま描ける力。幻想的でありながら写実的なその力。俺だってそれが出来ないわけではないが、難しいことだ。だから俺は、彼女を素直に尊敬していた。
そのままずっと、彼女の後姿を見ていたかったが、彼女は俺に気づいたらしく、筆を置いてこちらを振り返った。
「お疲れ様です、ヒカル先輩」
「お疲れ。アトリエを一人で使ってるなんて良いご身分だな、まったく」
「あはは、私は別にいいって言ってるんですけどね、一緒でも」
「お前の絵を横に見ながら創作活動できる奴なんていねえよ」
「別にそんな凄いものじゃないと思うんですけどね……」
嫌味でもなんでもなく、彼女、四彩ミドリはそう言うのだ。
「でも、ヒカル先輩はここで活動するんですよね? 私の絵が好きだから」
にひひっ、といやらしい笑みを浮かべてミドリは言った。驕りでもなんでもない、実際に俺が彼女の目の前でそう告げたことがあるのだ。
「否定はしないが、お前がここに縛り付けるんだろうが。先輩の絵がないと、私、力が出ないんですぅ! とか言って、凄い羞恥プレイだったんだぞあれ」
「え~、みんなが先輩の絵を過小評価しすぎなんですよ。私なんか、初めて先輩の作品を見たとき、ピカソの再来かっ! って思いましたもん」
「アホか」
隣にあった小椅子に腰を落とすと、ミドリの小さな顔が視界に入った。普段はロングらしい茶髪の髪の毛は、アトリエにいるときだけは結い上げられている。後輩であり授業も一緒になった事がないミドリの、普段のヘアスタイルを俺はあまり見たことが無い。半年間彼女と学び舎を共にしてはいるが、何故かアトリエ以外で顔を合わせた事は少なかった。使い古された前掛けは様々な色の絵の具でべったりと汚れており、彼女の整った容姿と妙な明暗を作り上げていた。きっとお洒落をする彼女は断然可愛いのだろうが、俺にとってはその前掛けも、筆も、パレットも、キャンバスも全て彼女に必要なパーツに思えた。
「芸術祭に提出する作品だよな、それ」
ミドリからキャンバスに目を移した。まだ未完成であるために形色共々おぼろげであるが、既に何か言い知れぬ感慨を沸きあがらせるものだった。
「そうですよ。今回は『太陽の散歩道』っていう作品です! 草原の真ん中で日向ぼっこするような感じに仕上げる予定です」
「相変わらず好きだな、そういうの」
「大好きですよ。私は別に絵で何かを表現したいわけでもないんです。見た人がなんとなく温かくなったり、なんとなく楽しくなってくれればいいんです。それに、こういう風景を頭の中で思い浮かべていると、自分も楽しくなってきますから」
「だったら、俺の作品はお前とは真逆じゃないのか?」
言って、俺はミドリの隣にある自分の作品を見て、被せられた目の荒い布を取り払った。湿気などを防ぐためのものだ。
俺が美大に進んで、ひたすらに追い求めたのは、「暗闇」だった。キャンバスの上に塗りたくられた圧倒的な物量の黒。心象風景などと言えば聞こえはいいが、最早これは作品ではないと自覚している。それでも一年生の頃よりはまともになった。俺はミドリにあやかって「森」という題材を取ったが、彼女が緑の隙間から指す木漏れ日と、幻想的な風景を描き出しているのに対して、俺の作品は月光さえ差し込まない夜の森。蒸すような湿気と濃い緑の香りがすればまだいい。そこにあるのはある種の死臭に似たものだ。父の死を追って闇を描いているのだ、そうなるのも当たり前と言える。
芸術ではない。最早自分が昂ぶりを覚えるための独りよがりだ。創作家にはありがちなことではあるが、それでも人に見せるものではない。
ただ、彼女が言うのだ。
「でも、私は好きですよ」
パレットを横に置き、ミドリは手ぬぐいで手を拭いた。
「みんなは私が天才だって言いますけど、本当の天才はヒカル先輩ですよ。私には到底こんな作品は描けない。私は目で見たもの、想像した『風景』しか描けませんから」
「それが凄いんだって言ってるんだ。俺のは幼稚園児が書く落書きと変わらないよ。もしくは、自分に酔いすぎた小説家か」
「そうですか? なんていうか、先輩の作品からは、先輩を感じます」
「なんだそれ?」
「私の描く風景っていうのは、私以外の何かであって、私じゃありませんから。表現っていう意味では、私の作品はある意味失格なんですよ。私はそれでも楽しいと思っているから良いんですけどね」
彼女は本当に謙遜をしている。あの作品たちに対して「失格」なんて言葉は俺には到底吐けない言葉だ。
ミドリが初めて俺たちの前に提出した作品は、自分達の作品がお遊びだったんじゃないかと思わされるような、恐ろしささえ感じる作品だった。売り物だったのだ。どこかで飾られていても全く遜色ないような作品。開いた口が塞がらないという体験は、その時が初めてだった。場違いだとも思った。
だから、そんな彼女が俺を天才と呼ぶことに酷く違和感を覚える。
「――『ニクトフォビアの悪魔』」
何かに想いを馳せるように、ミドリはその作品名を呟いた。
「身震いしましたよ、あれを見たときは。あれがなければ私はここにいませんでした」
「お前が過大評価しすぎなんだよ。あれはそういうものじゃない」
「そういうものですよ。思い出すだけでも顔が熱くなります」
「顔が熱くなるって……どういう対象として見てるんだよ」
「発情できますね」
「……」
確かに、熱の篭った目をしていた。
「……そんな距離を置いて見ないでくださいよ。別に変な性癖持ってるわけじゃないですから。それに、先輩だって自分の作品で発情させられるなんて、嬉しくないですか?」
「意味が分からない。お前は一度病院にでも行くべきだ」
「ひどっ!」
ミドリは笑いながらそう言った。
『ニクトフォビアの悪魔』なんて妙に気を利かせた題目をつけたあの絵は、一年の頃に芸術祭に提出したコラージュという技法を使った版画であり、俺の処女作だった。教授もサークル仲間もあまりいい顔をしなかった。しかし、当時高校三年生で芸術祭に来ていたミドリは、俺の作品を見て酷く感動していた。顔も知らない下級生から「すごいすごい」とべた褒めされて嬉しくないはずがないが、あの作品を「凄い」と表現されるのは若干の違和感を覚えずにはいられず、素直に喜べなかった。翌年になって入学してきたミドリは、俺が所属するサークルにすぐにやってきて、俺に似たような作品をやたらと作らせようとした。その時は天狗の鼻だったが、彼女の実力を知ってすぐにへし折られた。
「まあ、それは冗談だとしても、あれを良いなんて言えるお前は変だよ」
「え~、絶対そんなことないのに」
不服そうに頬を膨らませる。彼女が認めてくれることは嬉しいが、それでも誰が何と言おうが、あれは作品ではない。
――お父さん、お父さん、魔王がいるよ。
シューベルトの『魔王』で想像される魔王は、俺の求めた悪魔の姿じゃない。王冠も衣も無い。あるのは暗闇だけだった。襲い掛かる荒波のような闇だった。それを求めて、それを絵にしたくて、俺は『ニクトフォビアの悪魔』を作ったのだ。だから、それは作品とは呼べない。
あれは恐怖の象徴以外の何ものでもないのだ。
「そろそろ帰るよ」
窓の外を見ると、日が落ちかけていた。まだ残暑とは言え、秋も近い。日が落ちるのが段々と早くなっているのが分かる。
「もう帰るんですか? たまにはご飯でも食べて帰りましょうよ」
「分かってて言ってるんだよな?」
責めるような視線を向けると、ミドリはむっとして返した。
「そりゃ、分かってはいますけど、いたって真面目に言ってます」
「ダメだ。俺だって夜遊びの一つや二つくらいしたいけど、無理なもんは無理」
「そこまで言うなら仕方が無いですけど……」
落胆するミドリを横目に、帰りの支度を整える。作りかけの作品に布を被せ、リュックを背負った。
「じゃあ、頑張れよ。楽しみにしてるから」
「はーい、先輩もお疲れ様です」
「ああ、お疲れ」
アトリエを出る。校舎の三階から降りていくと、別のアトリエで活動していたサークルメンバーを見つけた。適当に帰りの挨拶を交わし、ついでに隣で棒立ちしていた警備員のおっさんにも頭を下げておいた。
見上げると、灰色の雲が空に立ち込めていた。肌に粘つくような湿気を感じる。暑くは無いのに、べたべたした汗が額や腕に浮かんだ。一雨来るかもしれない、とミドリに軽いメールだけ送信して、家路を急ぐ。
父が死んで、母と二人暮しになってから、あの家はどこか隙間が多くなったように思う。大学進学に伴って、母は俺の一人暮らしを勧めた。学生寮の家賃も安くはなかったから、俺は父が使っていたアトリエという名の倉庫を大掃除し、そこに住むことにした。多分、母は父と同じ道を歩もうとしている俺を良くは思っていないだろう。今考えれば、ただでさえ稼ぎの無い家だったのに、父は芸術にうつつを抜かしてまともに家事さえ手伝おうとしなかったのだ。やつれていく母を見るのは辛かった。あんな父でも、たった一人の伴侶だったのだ。
アトリエは自宅の敷地内にある。リビングの窓と繋がる庭に、地面から生えてきたようなプレハブ小屋が住居となっている。一人暮らしなんて到底言えない状況だが、今ではもう、母親にただいまを言うことさえ無くなった。現在は夏休みから実家に帰っていて、まだこっちには帰ってきていない。十月の半ばに帰ってくるとは言っていたが、このまま帰ってこないこともあるんじゃないかと思うこともあった。もうあの家に、家主はいないのかもしれない。
徒歩で三十分程度で自宅に着いた。門を通り過ぎると、玄関の横を取ってだだっ広い庭に行く。そこに見えた小さなプレハブ小屋が俺のアトリエ兼寝床となっていた。
部屋に入り、電灯をつけた。散らかりっぱなしの惨状が目に入る。空き缶が寝相悪く転がっている。母親から貰った華やかな花瓶は、仕事を貰えず暇そうにタンスの上で突っ立っていた。
時計を確認する。午後六時半を過ぎたところだ。カーテンを開けて窓の外を見ると、街灯の光りが目にまぶしいくらいには夜が降りてきた。俺は再びカーテンを閉めて、夕飯のためにポットのお湯を沸かし始めた。
部屋の隅にある、巨大なイーゼルが目についた。そして、そこに固定された作品を意識した。一面真っ黒に塗られたそれは、傍目から見れば黒い画板、もしくは何かの下準備を終えた製作過程のものに見えるだろう。だが、あれは既に完成された作品だ。
近づいて、表面を撫でると、指先に多くのひっかかりを感じた。
これは、単にキャンバスを真っ黒に塗った作品ではない。様々な色、様々なものを混ぜ合わせて出来た黒。そして、塗料の下には写真や新聞記事などがところ狭しと貼られているのだ。そのせいで、妙に所々が盛り上がっている。いわゆる、コラージュと呼ばれるものだ。
『ニクトフォビアの悪魔』と書かれたプレートが、イーゼルに下がっている。
「……」
気付くと、大雨が窓を叩いていた。古いプレハブだ、戸締りをきっちりしていないと雨漏りをしてしまう。ゴロゴロ、と雷鳴が轟いていた。思ったよりも酷い天気になったようだ。
雷は苦手だ。今日は早く寝てしまったほうがいいかもしれない。
テレビもゲームも無いこの部屋では、暇を潰す手段は創作活動くらいしかない。むしろ、そうなることが目的でこの小屋を自室にしたわけだが、あいにくと作りかけの作品は大学に置いてある。デッサンの練習でもしようかと思ったが、時折陶器が割れるような音を立てて鳴る雷が、俺の意識を削ぐ。本を読もうにも集中力が続かない。
とりあえず布団に潜り、手持ち無沙汰にケータイ電話をいじることにした。待っていれば、そのうち雷も遠ざかるだろう。
しかし、どれだけ布団の中で丸くなろうとも、雷の音は遠ざかるどころか、次第に近づいているような気さえする。十本の指で突くような豪雨の激しい攻撃が、防音など無いに等しいプレハブ小屋を叩いている。眠ろうにも五月蝿い。どうにかならないものかと、立ち上がった。
「――っ」
ふっ、と電灯が消え、辺りに一瞬にして暗闇が立ち込めた。足裏から突き上げるような寒気がしたかと思えば、今度は肩から腰にかけて痺れが走った。
「らん、ぷ……は?」
蝋燭かランプが近くにあったはずだが、全くの暗闇で何も見えない。手探りで机の上を探すが、筆や紙を弾くだけで、目的のものは見当たらない。
「……」
まずい。
すぅっ、と息を吸うと、電波の悪いラジオのように途切れ途切れになった。目を開けていても瞑っていても、同じ光景が見える。自分の腕付近に、やけに強い存在感があった。右を向くと、そこには『ニクトフォビアの悪魔』がいた。
――お父さん、魔王がいるよ。
そいつに形なんてありはしなかった。覚えている。忘れてしまったなんて、俺の記憶を俺自体が許せない。おぼろげで、暗い空間の中の、更に黒い場所。父を引きずり込んだ悪魔の居城が、そこにあった。
猛烈な浮遊感に襲われ、膝から下が消失した。ベッドの上に転げ落ち、傍にあった布団をもがくように腕の中に収めた。
頭からシーツごと布団を被り、全てのものから背を向けた。
死神の鎌か、悪魔の牙か、魔王の爪か。凍えるほど冷たいのに、笑えるほど意思を持った何かが首筋に突きつけられている。
耳元であの凄まじい低音の連なりが鳴り響く。暗闇の中にいると、嫌でも思い出すあの景色。俺の前に姿を現し、父を奪い去ったあいつの姿が……!
父と子の会話などありはしなかった。子は父のために何かをしたわけでもなく、父は子のために奔走したわけでもない。ただ赤いランプと甲高いサイレンの音だけが父を運んでいき、自分が三度呼吸をしたと意識するまでの間に息を引き取った。静かに、ただ静かに息を引き取っていったんだ。
曲の調子がどんどん転調していく。馬蹄が悪魔の到来を告げる。
本当にそれは、ただの狭霧だったのか?
本当にそれは、枯れ葉のざわめきだったのか?
本当にそれは、朽ちた柳だったのか?
――本当にそれは、ただの暗闇だったのか?
悪魔は、俺を、連れて行くんじゃないのか?
「そんなわけが、あるか……っ」
爪で手の平を思いっきり抉った。意識を夢の中から現実へと引き戻した。
一体いつまで子ども染みた考えをしているのか。中学生の頃は、それは本当に暗闇が怖かった。父が連れて行かれてしまったその空間は、とある拍子に扉を開き、中から恐ろしい魔の手が俺を連れ去るのではないかと本気で考えていた。
でももう大学生で、二十歳にもなった。そんなものがあるわけないと、理性的にも、本能的にも理解している。ただ、それでも、頭に焼きついたあの光景だけはどうしても離れなかった。
落ち着け、落ち着け、と暗示をかけるように言葉を繰り返す。唾を嚥下し、呼吸を整える。数度の深呼吸の後、ようやく落ち着いてきた。夜目も利くようになり、さて、ランプを探そうとしたその時だった。
コンコンッ、と部屋の扉がノックされ、俺は思わず飛び上がってしまった。
「悪魔……!?」
本当に俺を連れて……。
「しっつれいですね! 私です、ミドリです。開けてください!」
聞き覚えのある声が、扉の向こうから返ってきた。しかし何故、という考えが、俺をそこから動かさなかった。
「み、ミドリ……? なんでこんな時間に」
「学校帰りにちょっと寄って行こうかと思ったら大雨に見舞われたんです。とりあえずその話は中でしませんか」
「ちょっと待ってくれ。今行くから……あっと」
立とうとしたが、腰が抜けていて力が入らない。停電なんて一人暮らしをしてから初めてだったからか、妙に怯えてしまったらしい。
「ヒカルせんぱーい? ここ屋根が無いんで濡れるから早くしてください」
「げ、玄関のほうに行っててくれないか。びしょ濡れで入られても困るし、着替え貸すよ」
「え? うーん、良いんですかそれ」
「何がだよ。この雨だ、お前も風邪引いちまうだろうが。バスタオルとかは適当に貸してやるから」
「……女性物の可愛い下着とか持ってます?」
「何言ってやがるお前は……」
「あはは、冗談です。何やってるのか知りませんけど、結構寒いんで早くしてくださいね。さぶさぶっ……」
水を切る足音が遠ざかっていった。
大きなため息が出た。先ほどまであった身体の震えはなくなり、変わりに湯に浸かったような安心感があった。ミドリに救われた。なんとかして早く行ってやらなければ。
ふと横を見ると、『ニクトフォビアの悪魔』は姿を消していた。
家には長居したくなかったので、家で着替えとバスタオルを貸すと、すぐに自室へ移動させた。リビングの窓からすぐの場所にあるが、雨量が雨量なので傘を使った。
ミドリのロングヘアーは普段は見れないが、こうして俺の家にやってくる時だけは首を隠すほどの長さが見られる。ただし、今は雨でしっとりと濡れている。ドライヤーを貸そうにも停電で動かなかった。
「しっかし汚い部屋ですね。同じアトリエなのに、大学のとはどうしてこうも差が出てしまったんでしょう」
部屋に入って開口一番、ミドリはいきなりケチをつけてきた。
「男の部屋は大抵こうなるんだよ」
「偏見じゃないですかそれ?」
「女のお前が言うな」
濡れた服をハンガーにかけ、そこに扇風機を当てる。乾くまでの間、とりあえずミドリには俺が昔使っていた寝巻きを渡した。
カップ麺を食べるつもりで沸かした湯で、コーヒーを淹れる。啜ってみると、安物の舌に残らない薄い味がした。
「電気、付きませんねぇ」
電灯の紐を上下させて、ミドリが言う。ランプを見つけて今ではある程度明るさがあるが、依然として停電したままである。寝ている時さえも電気をつけている俺にとっては、心もとない灯だが、無いよりはましだ。
「私が来なかったらやばかったんじゃないんですか?」
「どうして」
「やっぱり、こういう時って誰かが傍にいるだけで大分違うじゃないですか。怖い夢とか見た時、お母さんの寝室に潜り込んだりしますけど、なんていうか安心感が違いますよね」
「そんなことしてるのかお前……」
「ち、小さな頃の話ですよ」
顔を少し紅潮させて、ミドリも口先でコーヒーを啜った。
暗闇は怖いが、そのことに関して母親に頼ったことはほとんど無い。家族には、ただの一度たりとも自分が暗所恐怖症であることを明かしたことは無いのだ。父が死んた後、『悪魔』のことを話したことはあったが、言うまでもなく冗談に取られた。それが「見えないもの」であるということを知ったのは遅くなかったので、それ以上言わなかったが、何度も話していれば母に頭がおかしくなってしまったと思われても仕方がなかっただろう。
ミドリのほうを見ると、彼女はうっとりとした目で『ニクトフォビアの悪魔』を見ていた。隠しておけば良かったと後悔したが、わざわざそうするのも馬鹿らしいと思った。
「はぁ……」
ミドリはこの作品に妄信的な部分がある。学校帰りに寄ろうと思ったと言っていたが、多分これを見に来たんだろう。創作意欲が沸くだのなんだの理由をつけて、結構な頻度で見に来る。自分の作品をそう言われるのは嬉しいことなのだが、素直に喜べもしない。
「お前、一体これのどこがいいんだよ」
「え? だって綺麗じゃないですか。この黒、一見するとただの黒に見えますけど、多分色々混ぜて作った色ですよね」
「そうだけど……綺麗って、そりゃおかしい」
「おかしくなんかないですよ。先輩は何か、『ニクトフォビアの悪魔』を棘のある薔薇みたいに思ってるようですけど、これは、もっと綺麗なものですよ」
「お前の言うことはやっぱりよく分からん」
綺麗なもののわけがない。むしろ汚らしいと言ってもいいくらいだ。自分の中にある、誰にも伝わるわけのない感覚を抽象的に描いて、ただ自己満足するだけの作品。綺麗なわけがない。
「先輩の暗所恐怖症を表現した作品なんですよね?」
「まあ、そうだな。実際は、昔見た悪魔の姿をどうにかして絵で書きたくて、結果的にそうなったんだけど」
「悪魔、ですか……?」
ミドリが不思議そうな顔でこっちを見てきた。
「話したことなかったっけか?」
「初耳ですね。先輩が暗所恐怖症で、それを表現する媒体として選んだのが悪魔だと思ってました。まあ、悪魔にしてはずいぶんと抽象的だとは思いますが」
「これでも見たまんまなんだけどな。俺の父親が昔、急病で死んだことは知ってるよな?」
「新歓コンパの時に聞きました。凄い妙な雰囲気になったのを覚えてます」
「あんな席でする話じゃなかったって反省はしてるよ……。んで、こいつが父親が死んだ前日の夜に見た、悪魔の姿なんだよ」
「これが……ですか?」
興味深げに、ミドリはキャンバスに顔を近づけた。
『ニクトフォビアの悪魔』は、遠くから見ると微妙に何かの形をしているようには見えるが、近づいて見ても黒い絵の具を透化して浮き上がる新聞記事の小さな文字や、誰だか分からない人の顔が見つかるだけだ。コラージュとはそもそも、何かの『形』を表現するものではない。そこにあるのはある種の混沌性であり、世の中に蔓延る目で見える「完成形」とは程遠いものだ。だからこそ俺は、「形」としてどうしても思い浮かべることが出来なかった悪魔を、コラージュによって作り上げた。
「信じているわけじゃないけど、俺はこいつが父親を連れて行ってしまったと、そう思っている」
「なんかそう言われると怖くなってきますね……でも」
「でも?」
「先輩のお父さんを連れて行ったかと思うと、それは違う気もします」
俺がそうしたように、ミドリもそいつの表面を細い指で撫でた。何を言っているんだ、と反論しようと思った先に、やけに神妙な顔をしたミドリの姿があった。俺と話している時とは違う、キャンバスに向かって筆を走らせているあの時の顔だ。自分の想像に想いを馳せ、それを表現しようとしている顔。
「これは、悪魔なんかじゃないと思います。それに、私には、風景に見える」
「風景ってお前……そりゃあ、お前は風景が好きだからそういう風に見えるんじゃないのか? 作者である俺が言うんだから、そこは否定出来ないだろ」
「先輩、この悪魔は『形』がないものなんですよね?」
「まあ、そうだ。所謂神話とかに登場する、角や牙を生やした悪魔は人の創造物以外にはありえない。俺の見た悪魔には、『形』がないとしか思えなかった」
「風景も同じなんですよ」
「なんだって?」
依然として、ミドリは表情一つ変えず、キャンバスと向き合っている。
「風景にも、形はありません」
「馬鹿言え。あるだろうが、お前が今回描いてる絵にだって、太陽や、草原、それに人がいる。影も形もありまくりだろうが」
「それは太陽や草原、人であって、風景じゃないですよ。風景はそれをひっくるめて風景って言うんです。そこに明確な線引きはあっても、形とは呼べません」
「だからって、これを風景とは呼べないだろ。大体、傍から見りゃこんなもの、ただ黒く塗りつぶした落書きみたいな……」
「風景ですよ、これは」
頑なに自分の意見を曲げないミドリ。
今一度、自分の絵を見る。黒く塗りつぶした落書きなんて自分では言うが、この作品に込めたものは大きい。しかし、風景として描いた覚えなど微塵もないのだ。確かに、悪魔という「固体」を扱った作品にしては、キャンバス全面を使った、所謂「風景」のように見えなくも無い。
ただ、これが「風景」だからなんだという話でもある。
こいつが父を連れて行ったという事実だけは曲げようの無いもので、それが風景であろうが固体であろうが、俺には関係が無いのだ。だから、「父を連れて行ったのはこいつじゃない」と言うミドリに俺は突っかかった。
「……仮にこれが風景だとしても、父親を連れて行ったことには変わりない」
「先輩、風景は生物じゃありません。誰かを連れ去ることなんて出来ませんよ」
「やけに突っかかるな? そりゃ、悪魔が連れて行ったなんていう荒唐無稽な話を真に受けろって方が酷だとは思うけど、お前がそこまで言う理由が分からない」
思わずため息をつく。
「風景は、稀に人をその場所に閉じ込めます」
ミドリは、そう小さく漏らした。
「閉じ込める?」
鸚鵡返しでその意味を訊いた。ミドリはようやく視線をキャンバスから離すと、机の上にあったルーズリーフとペンを取って、何かを書き始めた。
「それは……この家か?」
小さなプレハブ小屋が描かれていた。背景にここと良く似た庭と家宅が描かれている。紙面の上をインクで曇らせることで、雨を表現しているようだ。
「家を描いたわけじゃありませんよ。題をつけるとすれば……そうですね、『とある雨の日』とか、そういう感じにつけてみたりして。で、この絵を見てください」
「ちょうど今、見てるけど」
「これ、どういう絵だと思いますか?」
ある程度描き終えると、ミドリはこちらを見上げてそう聞いた。
「どういうって……俺の家があって、ちょうど今日みたいに雨が降ってる」
面白い答えも思い浮かばず、見たままを口にした。
「まるで、今日の風景ですよね」
「そうだな」
「じゃあ、この家には私とヒカル先輩がいると思いませんか?」
「え……?」
雨が降りしきり、暗雲が立ち込める空の下。ぽつんと庭先に建つ小屋は、やけに身近に感じる。まるで外に仕掛けられたカメラで、自宅を外から見ているようだった。小屋の入り口には、傘が二本立てられていた。俺たちが家から移動する時に使ったものだ。黒いペンで書かれているのに、二本とも色を持っているように感じた。
小屋の中には俺とミドリがいる。停電した部屋の中で、小さなランプをつけて語り合う二人の姿がある。そう考えることに、何の違和感も沸かなかった。
「多分、数十年後に見ても、同じ感想を抱くと思いますよ」
「これが、風景は人を閉じ込めるってことだって言いたいのか?」
「そうです」
ミドリは絵の小屋に、アンテナのようなものを書き足しながら頷いた。
なるほど、とは思う。確かに、今ミドリが描いた風景の中には、俺とミドリが閉じ込められている。そして、数十年経っても、それは出てこない。写真が時と人を閉じ込めてしまうように、風景画は稀にそこにいる、そこにいた人間を閉じ込めてしまう。
じゃあ、何だ。
「『ニクトフォビアの悪魔』の中に、俺は父親を閉じ込めたって言うのか」
「それは……分かんないです。だって、この風景の中にお父さんを閉じ込めようとする理由が、私には分からないですから」
「俺はもっと分からねえよ。こんな真っ暗な場所に閉じ込めるなんて」
「そうですよねぇ……」
コーヒーを啜りながら、ミドリは体育座りをしてじっとキャンバスを眺めた。
この暗い部屋の中では、恐らく画面はただの真っ暗なものにしか見えないだろう。見ても面白いものなんて何も浮かび上がってこない。馬鹿じゃないのか、と言おうとしたが、俺は黙って、そっとミドリの横に腰を下ろした。
ランプがカップから上がる湯気を白く照らした。俺たちは、まるで山中で遭難した男女のようだった。答えという朝を待つように、飲み物で身体を温めながら二人とも黙っていた。
いつ帰るんだろう、とは思わなかった。相変わらず雨は窓を叩いて五月蝿く鳴っていたし、俺は俺で、ミドリがいるという状況に安心感を得ていた。肩がギリギリ触れない距離に座って、俺も『ニクトフォビアの悪魔』をじっと見つめてみた。不思議と怖さは感じない。ただ、ミドリから聞いた話が頭の中をぐるぐると回っていた。
あの中に、俺は父を閉じ込めたのだろうか。
あの暗がりの中、押しつぶされそうな暗闇の中に父を置き去りにして、一体何を考えたのか、自分でも分からない。俺は父が好きだったし、怨むような理由なんてどこにもない。悪魔と呼んだ絵という腹の中に、父を放り込んだ覚えなんてどこにもないのだ。連れて行ったのは悪魔であって、俺じゃない。そう思っていたのに。
どうしてかその絵が悪魔に見えなくなっていて、黒という頑丈な格子に囲まれた牢獄に変わっていた。同じ風景でも、心の持ちようによって景色が変わるように、『ニクトフォビアの悪魔』は変貌していた。
「先輩、雨、止みませんねぇ……」
「そうだな……まだ時折雷も鳴るしな。停電も直ってないし、困ったもんだ」
「怖くないんですか?」
「……分からん」
「分からないって、なんですかそれ?」
何が面白かったのか、声色を弾ませてミドリが言った。
「怖いことは怖いけど、そこまでじゃない。お前が言うように、人が傍にいるってのは、結構凄いことなのかもしれないな」
「でしょ? 先輩がお願いするなら、今日一日一緒にいてあげてもいいですよ」
言われてみて、それも悪くないかもしれないと思った。
「じゃあ、お願いしようかな」
「え」
すると、ミドリはこちらを信じられないといった驚愕の表情で見て、俺の寝巻きに包んだ身体を少し引いていた。
「何だよ、お前が言ったんじゃねえか」
少し不満そうに言うと、ミドリは視線を外して慌てたように言った。
「ば、ばっかじゃないですか! 冗談に決まってるでしょう! 大体なんですか、今日一日ってどういうことですか? 私がここに泊まるってことですか、冗談じゃありません。こんな汚い部屋に朝までいられるわけないじゃないですか!」
「酷い言いようだなお前」
捲くし立てるように言うミドリが珍しく、つい口元を緩めた。いつも余裕に満ちた彼女ばかり見てきたから、そんな彼女は新鮮に見えた。
結局、そのまま一時間ほどすると雨も止み、未だにわめくミドリを押し返してやった。停電も直り、俺はいつもの通り電灯をつけて、その夜は不自由なく寝ることが出来た。
【ニクトフォビアの悪魔】
■■■
父は、頑なに俺に作品を見せようとしなかった。当時、俺はその理由が子どもだからだと思っていた。未熟な自分に見せていい作品ではないのだと、そう思っていたのだ。母親も父の作品のことを聞くと、「お前が見るものじゃない」と言って、やはり何も聞かせてくれなかった。
父の死後、小屋を自室にする際に、父の作品が出てきた。俺はようやくその時になって、初めて父の作品と出会った。作品数はたった一つ。母親が処分してしまったらしく、残っていたのは処分の際に見当たらなかったものだという。埃を被り、色も劣化してしまっていた。だが、唯一残った父の作品なのだ、俺は宝箱を開けるように、その作品を見た。
それは、『魔王』と呼ばれる作品だった。
黒い外套を着込み、白髪の生えた頭には赤い角が伸びており、やけに白い肌に亀裂を入れるように開かれた口からは、鋭い牙が覗いていた。リアルに描かれた肉体は人肌の色をしておらず、王者の風格を漂わせるような仰々しさに満ちていた。
直感した。そして身震いした。
父にも見えていたのだ。あの悪魔の姿が。
しかし、あまりに写実的な悪魔の姿は、真実を伝えているようには思えなかった。これは売り物であって、自分が見たそのものを書き写そうとしたものではない。父を連れて行ったのはこいつじゃない、俺は知っているんだ、もっと陽炎のように掴めない存在で、表情も見えない暗闇の存在だったと。
今考えてみると、恐らくそこに父はいたのだろうが、俺は否定するしかなかった。暗闇をその当時から怖がっていた俺にとっては、その悪魔はあまりに幻想的で、本当に綺麗な作品だったからだ。
恐怖とは、そんな形をしてはいない。そう憤慨した俺は、直後に感情に身を任せるように、作品を作り上げていた。
芸術祭は、夏休み明けに行われるが、準備自体は夏休み前から始まる。一つの作品を作り上げるのにはかなりの時間がかかるために、各サークルやゼミは、六月の頭辺りから既に構想を練り、六月の終わりには活動を開始している。俺が今回作っている『森』も同じだし、ミドリもその辺りからだろう。夏の間に学校に来ていればとっくに完成している頃だが、ミドリは未だに手間取っていた。
彼女は、天才的な感性と技術は持ち合わせているが、実に遅筆だった。入学してから、作り上げた作品数はまだゼロだ。授業でも大抵、作成途中で終わってしまうらしい。そのマイペースさが、あれだけの作品を作り上げているのだろうが、芸術祭に関しては間に合わなければ誰に見せることもなく終わる。
だからこそ、サークルの連中はミドリを一人にさせ、活動に集中出来るようにと気配りをしていた。彼女の横にいると、つい作品が目に入ってため息が出てしまうというのは嘘ではないが、本当の理由はこちらにある。
しかし。その日、ミドリはとんでもないことを言い出していた。
「ミドリ、それ、本気で言ってるの?」
「本当にごめんねっ! せっかくアトリエ一つ貸してくれたのに、こんなこと言うのも嫌だったんだけど……」
「……まあ、うちは個人製作だからミドリがそう言うんだったら、別にいいんだけど。でも、芸術祭まであと一ヶ月も無いのに。それに作り途中のこれはどうするの?」
「廃棄、かなぁ……もうそういう気分じゃなくなっちゃったし」
「勿体無くない? 後で作り直せばいいじゃない」
「うーん……」
大アトリエのほうで、ミドリが何やらサークルメンバーと話していた。もめている様子は無かったが、あまり良い話でもないらしい。
「どうしたんだ? 何か問題でもあったか」
「あ、ヒカル先輩。ミドリが作ってた作品を廃棄して、新しい作品を作るっていうんですよ」
「はぁ? 何考えてんだお前」
ミドリはバツの悪そうな顔をして苦笑いした。
「や、ほかに作りたい作品が出来まして……」
「出来ましてって……それで今まで作ってたのを廃棄するのか? それにどうするんだよ芸術祭、間に合わなくなるぞ」
「芸術祭に関しては大丈夫だと思いますけどね。多分、遅くても一週間で出来上がると思うんで」
「一週間?」
考えるより先に、無理だと思った。一週間では、どれだけ集中力が続いたとしても下書きが限界だろう。そこまで時間をかけない俺でさえ、一週間では半分仕上がるかどうかだ。元々遅筆なミドリでは、無茶な話だと思った。
「まあ、最後の三日くらいは寝ずにやると思うんで」
「寝ずにって……そこまでするくらいなら、今まで作ってたあの、『太陽の散歩道』だっけ? それを完成させてからでも良いんじゃないか?」
そう聞くと、ミドリは顔を横に振った。
「思い立ったら吉日って言うじゃないですか。私も、意味を持った作品を作ってみたいなぁ、って、先日そう考えまして」
「意味を持った作品ってなんだよ」
「私の作品は、綺麗だとは言われますけど、フィーリングに直接語りかけるような力はありません。だからこそ、私は先輩の『ニクトフォビアの悪魔』に魅せられたわけですが。まあ、そういうわけで、自分の中にある風景をただ書き写すだけじゃなくて、その作品自体に見る人が何かを想うような、そういう作品を作ってみたいんです、私は」
力強く語るミドリには、有無を言わせない迫力があった。少し物思いにふけるように目を伏せてはいるが、そこに迷いの色は感じなかった。既に自分の中では何かが完結しているようだ。
ならば、俺が言うことは何も無い。
「まあ、お前がそう決めたんなら、別に俺は否定しない。でも、寝ずにってのは流石にやりすぎだろ。間に合わなければ、それはそれでいいんだし……」
ミドリはその言葉にも首を振った。
「寝ずにやったほうが、きっと良いものが出来るんですよ」
「なんだそりゃ……」
「先輩」
ミドリが短く、俺の名前を呼んだ。すると、そこにはいつもの飄々としたミドリの表情があった。
「私がニキビだらけになったら先輩のせいなんで、クレアラシルとか買っておいたほうがいいですよ」
「なんで俺のせいなんだよ。俺は夜更かしはやめたほうがいいって、むしろ止めたっていうのに」
「まあ良いじゃないですか。先輩だって、私の顔がぶっつぶつになったら嫌でしょう? あ、自分で想像して鳥肌立ってきた……」
「じゃあ止めておけよ……」
「ま、やりますけどね。必ず仕上がりますから」
自信満々にそう言った。ワケが分からない奴だ。
「そういえば、今日、先輩の家行ってもいいですか?」
「なんでまた。また創作意欲が足りなくなったのか?」
「いえ、今日はちょっとした取材っていうか、資料集めに……」
「何をする気だよお前」
別に、と放り投げるような調子でミドリは悪戯に笑った。
実際、ミドリは俺の家に来てから「別に何もしなかった」。
あの雨の日と同じように、じっと座って、安物のコーヒーを啜っているだけ。たまに話しかけられて答えはするが、俺から話しかけるのは何故だか気が引けた。そうした空間を壊してはいけない気がしたからだ。二人分の呼吸の音と、たまに風が吹いたように喋りかけてくるミドリ。俺がその風景を壊してはならない。だから、俺もずっと布団の上で考え事をしていた。
『ニクトフォビアの悪魔』の中に父を閉じ込めてしまっている。そうミドリに言われたことに対して、違和感はほとんど覚えなかった。実感はなかったが、どうしてか「ああ、きっとそうなんだろうな」という気がしたのだ。
これは、風景。
それはきっと、俺があの日見た暗闇が、そのまま描かれた風景。そこに父を閉じ込めて、俺は一体何をしようというんだろうか。
「なぁ……」
静寂に、風を送り込んだ。すると、ミドリはゆっくりとこちらを向いた。
「どうしたんですか? そんな難しい顔をして」
「前に、『ニクトフォビアの悪魔』の中に、父親を閉じ込めたがどうのこうのって話をしたのは覚えてるか?」
「覚えてますよ。私が、あれは風景だって言った時ですよね」
昔のことでもない。当たり前のようにミドリは言った。
「そう。それでさ、ずっと考えてたんだけど、俺はどうして父親をこの絵の中に閉じ込めたんだろうって。俺は父に対して恨みを持っているわけでもないし、死んでしまったことに凄く悲しんだわけでもない。理由が全然分からないんだ」
「考えた結果、何か見えてきましたか?」
「いや、全く。それで聞きたいんだけど、お前はどう思う?」
「どう思うって、なかなか無茶振りしますね。私はヒカル先輩のお父さんのことは、先輩の口から凄い画家だったってことを聞いたくらいで、それ以外には全くと言っていいほど知りませんよ」
「まあ、そうだよなぁ……」
そこでふと考えて、俺はある事実に行き当たった。
「……そういえば、俺もあんまり父親のこと知らねえな」
「どういうことですかそれ? って、小さい頃にお亡くなりになられたんでしたっけ?」
「俺が小学生の頃にな。なんの病気か忘れたけど、急死だったよ」
朝起きて、ご飯を食べる前に救急車のサイレンの音を聞き、そこから一眠りするまでの間で父は死んだ。それほど突然だった。
思えば、家では父はアトリエに篭りきりだった上、食事の時くらいにしか話す機会がなかった。加えて父は俺に作品を決して見せようとしなかったせいか、俺の中での父の像はとても朧だった。笑っている姿も怒っている姿も思い出すことが出来るが、じゃあ父はどういう人物だったのかと聞かれると、答えに窮する。
強いて言うのなら、大学に入学する直前に見た、あの『魔王』の絵によって、俺の中での「父は画家である」という像が確定したくらいであって、それまで「父が画家である」ということに確証さえ持てなかったのだ。
「でも、お父さんは画家だったんでしょう?」
「そうだ」
「お父さんの描いた絵とかは無いんですか?」
「一つだけ残ってる。見るか?」
「いいんですか?」
「別に減るもんじゃないし、絵ってのは人に見てもらわないと意味が無い」
確か、最初に見つけた場所に戻したはずだった。積み上げられた荷物を掻き分けて、父の使っていた古いタンスを引っ張り出す。四方を針金で留められていた。母がそうしたのだ。当時から暗所恐怖症だった俺がやけに興奮してそれを見つめているのに気付き、母は封印するようにして作品を縛り上げた。怖かったわけじゃない、その時に気付いた事に、俺は興奮していたのだ。
針金を外して、引き出しを開ける。作品を拘束から解放する。久々に見る、父の作品だった。
「凄い……」
それは、知らないうちにミドリの口から漏れた言葉だったろうか。熱を持ち、感情が潤沢して漏れた感慨の一言。俺が、初めてこの作品を見たときに漏らした言葉と、まったく同じものだった。
「『魔王』。それがこの絵のタイトルだった」
「魔王……」
「狭霧でもない、枯れ葉でもない、朽ちた柳でもない、正真正銘の、魔王の姿だよ」
「ゲーテの詩ですか。でも、それにしてはやけに伝承チックな外見をしてます」
ミドリの言うとおり、魔王の姿は中世に描かれるドラキュラのような容貌をしている。美しい、確かに目を見張るほどの美しさはあるが、これが『魔王』かと聞かれると、首を傾げざるをえないのも事実だった。
「俺は、父親も悪魔の姿を見たんじゃないかって、そう思ってる」
「……これがその、お父さんが見た悪魔の姿だと?」
「……そうだ」
見つけた当初は力強く言うことが出来た言葉も、今こうして見るとその信憑性はどこにもない。父は何を考えてこの作品を描いたのか、それは察することは出来ても、実際のところは父自身にしか分からない。
「先輩は、これが怖い絵だと思いますか?」
「怖くは、ないかな。身近に存在感をひしひしと感じるくらいに威圧感はあるけど、それは恐怖をもたらすものじゃない」
「私もそう思います。これは、なんていうか自信に溢れた作品だと、私は感じました」
「自信?」
「魔王の口元が、若干吊り上ってますよね。笑ってるんですよ、この絵」
「本当だ、気付かなかった……」
どれだけ耄碌すれば、表情が笑っていることを見逃すのだろう。確かに、魔王は笑っていた。しかしそれは笑顔というわけではなく、不適な笑み、何かを見下して嘲るような微笑だ。
「ほんっとうに何も見えてないんですね先輩……」
「わ、悪い……」
ミドリの冷たい視線が突き刺さった。
「まあ、私の感性なんで、確かなことなんて何一つないんですけれどね」
「でも、それじゃあ俺の父親は悪魔の姿を見て、恐怖じゃなくて、自信を感じたってことなのか? 意味が分からなくないかそれは」
「どうなんでしょうかね。私にもよくわかりません。分かるのは、この絵が凄いってことだけですね」
そう言って、ミドリは再び見惚れたように『魔王』を眺めた。
この絵は、確かに凄い。俺たちでは到底たどり着けないような場所にある作品だ。俺たちは絵の前で萎縮せざるをえない。王の席に座るものに傅くように、膝をつかねばならない。
怖くは無い。怖いという感情は、自分と相手の相互関係に位置するものだ。相手が自分を見ていなければ、無関心。対岸の火事を見るように、隣の国の王が圧制を取るのを眺めるように、俺たちは威圧感こそ感じても、恐怖は感じない。
だからこそ、凄いと、そう言うしかない。
「何を考えて、これを描いたんだろうな……」
「分かりません。誰か、当時のご友人とかで知り合いはいないんですか?」
「いや、そういう友達がいたって聞いたことはないけど……あっ」
そうだ。一人だけいる。昔の父を知る人物が。
「母さんなら、知ってるかもしれない」
「なるほどっ。でも、先輩のお母さんは今帰省中じゃありませんでしたっけ?」
「そろそろ帰ってくるよ。芸術祭の前には恐らく」
「じゃあ、なんとかなりますね」
母は基本的に俺に関わってくることはなくなったが、芸術祭にだけは良く来る。帰省の期間もそれに合わせているのだろう。毎年作品をちらちらと見て帰っていくが、母も芸術家の妻だった人間だ、それなりに興味はあるのだろう。
ただ、問題が一つある。
俺が暗所恐怖症になりだした頃辺りからだろうか。母は露骨に父の話題を避けるようになった。最期の作品が発見された時も、母は焼却しようとしたのだ。結果的には俺がそれを必死になって止めることで、針金でぐるぐる巻きにされる程度で済んだ。母は父の思い出を忘却しようとしているようにも見える。
そんな中で、果たしてこの話題に取り合ってくれるだろうか。
いや、不安をぐちぐちと言っていても仕方が無いのだ。とにかく話してみなければ何も始まらない。
「先輩先輩、電気消してもいいですか?」
ミドリが突然、そんなことを言い出した。手は既に電灯の紐にかかっている。
「な、なに言ってんだお前っ」
「ランプはつけるんで大丈夫ですよ。ていうか、もうそんなに怖くないでしょう先輩。あ、『魔王』はそのまま置いておいてください」
「そりゃあ、変なこと聞かされてから前よりはましになったけど……」
「えぇ! そうなんですか?」
言ったミドリが何故か驚いていた。
「どうしてお前が驚いてんだよ。大体、お前が『ニクトフォビアの悪魔』は風景だとかどうのこうの言い始めたのが発端だろうが」
「そ、それは栄誉なことで……」
「なんで他人事なんだよ……」
相変わらずわけのわからない奴だった。
ミドリは床に座って、二つの絵を眺め始めた。一つは置きっぱなしにした『魔王』、そして『ニクトフォビアの悪魔』だ。何が面白いのか、学者が興味深くものを観察するように、ミドリはじっと絵を眺めた。いつものように、絵から何かを受け取る様子ではない。逆に、何かを探しているように見つめている。
芸術祭の作品を急遽作り直すと言ったり、一体こいつは何を考えているのか。想像するだけ無駄なように思えたため、俺はため息とともにコーヒーを啜った。
そうして再び暇になった俺は、ミドリの横に腰を降ろすのだった。
【ニクトフォビアの悪魔】
■■■
父が死んでから数ヵ月後、俺はずっと胸のうちに秘めていた「悪魔」という言葉を、母に告げてみた。どうせ、あの夜のように馬鹿にされるに決まっていると、そう思っていた。そんなものいるわけがないじゃない、下らないことを言ってないで、早く寝なさい。そう言われることが当然だと思って、俺は話をした。
しかし、母はそんな俺を邪険に扱わなかった。ただ、哀しそうな目をして、俺の頭を撫でてくれた。あまりに予想外だったので、俺は黙って享受した。
そうして、母は笑って言った。
「お父さんはね、悪魔を倒したのよ」
母は俺を抱きしめて、さらに強く頭を撫でた。
俺はそれに、嘘だ、と返したんだったと思う。だって、悪魔を倒したのならばあの日現れたものはなんだったのか。父は悪魔を倒せていなかった。悪魔に負けたのだ。母は嘘をついている。母に嘘をつかせているのは誰だ、あの悪魔だ!
父を殺し、母を変えた。初めは息巻いていた俺も、次第に悪魔という存在が恐ろしくなった。またあの暗闇から姿を現し、そうして今度は……とそう考えるだけで寒気がした。
ああ、いるのだ、悪魔は暗闇の中に潜んでいるのだ。
夜になると、電気を付けずには眠れなくなった。煌々と灯る電灯の下でも、窓の外から覗いているんじゃないかと恐ろしくなった。
たまに、あまりに怖くなって母に泣きつく時があった。しかし、母はそんな俺を優しく抱きしめては「そう、それは怖かったわね」と、子どもながら嘘だと分かることばかり言って、まったく取り合ってくれなくなった。
ああ、母までもが、あの悪魔にやられてしまう。
最早気丈だった心は消え去り、俺は暗闇を酷く恐れるようになっていった。
母の実家は鹿児島の更に南に位置する島にある。二ヶ月以上の帰省を終えた母は、腕も頬も真っ黒になって帰ってきた。毎年、その日は必ず自宅にいるようにしている。理由は無いが、そうしなければいけないような気がしていた。
しかし、今年はれっきとした理由があった。母に『魔王』のこと、父のことを聞かなければならない。キャリーバッグから衣類などを取り出して、まとめて洗濯機の中に放り込む。戻ると、母はリビングで麦茶を飲んでいた。
「どう? 芸術祭の作品は。順調に進んでる?」
「一応仕上がってるよ。夏休み前からやってたから」
「そう。今年も母さん見に行くから、よろしくね」
「分かってるよ」
適当な会話を繰り広げる。
さて、時間を開けたらタイミングを逃してしまう。既に『魔王』は小屋からこちらに持ってきている。切り出すタイミングも計らずに、俺はそれをリビングのテーブルの上に置いた。
「母さん、聞きたいことがあるんだけど」
「何よ……って、それ……」
母さんは『魔王』を見た途端、露骨に嫌そうな顔をした。そこまで、そこまでこれを嫌うのか。その反応を見て、俺は少し悲しくなった。
「母さんね、あんたの悪魔だの魔王だの、そういう話はもう聞き飽きたの。また今度にしてちょうだい」
今度なんてないくせに、と反論したくなるのを抑えて、俺は言った。
「違うんだ。これを描いた当時の父さんが知りたいんだよ」
「お父さん……? なんでまた急にそんなこと」
「なんでって、その……俺はこの作品が父さんの見た『悪魔』だと思ってたんだけど、なんか違うみたいで……じゃなくて、えっと……」
言葉が上手くまとまらない。どうして俺は『魔王』の動機なんかを気にし始めたんだっけ。父を閉じ込めた『ニクトフォビアの悪魔』があって、それが実は悪魔じゃなくて、作品を書く動機になった『魔王』が実は魔王じゃなくて……。
だから、つまりは。
「――悪魔は、実はいないんじゃないかって、考えるようになったんだ。だから、この作品がどういう意味で作られたのか、それを知りたくなった」
「……そう」
俺が思っていた悪魔は、全部悪魔じゃなかったのかもしれないと、そう思うことがある。『ニクトフォビアの悪魔』は風景であり、『魔王』は王者だった。暗闇の中に潜んでいたあいつが何だったのかは引っかかるが、俺が見えたものは、今全てが違うものへと変貌しようとしている。
母はコップを置くと、俺の正面にどかっと腰を下ろした。
「『魔王』は、正真正銘お父さんの最期の作品よ」
「それはどういう……」
「お父さんの作品で残ってるのもそれが最後だし、お父さんが描いたのもそれが最後だったってことよ」
これが、最期の作品? つまり、これ以降に作品は作っていないということ。
「そして、それはお父さんが大学生の時に描いた作品なのよ」
「えっ……それじゃあ、俺が生まれてからは……」
「まったく描けてないわ。活動はしていたけれど、たったの一作品さえも作れないまま、お父さんは死んじゃったのよ」
頭を鈍器で殴られたようだった。じゃあなんだ、俺が見ていた父の姿は全て拳が空を切るような人物で、思っていた「画家」という父親像ではなかったということか。アトリエに引きこもって、たまに出てきて、芸術家だからそんなのも仕方が無いと思っていたのに、父はたったの一作品さえも完成させていなかった。
父の像が、突然ぼやけて見えた。
「ヒカル、この絵を見てどう思った?」
母が真剣な目でそう聞いてきた。
「どうって、凄いなって思ったよ。細部までよく描かれてるし、『魔王』っていうタイトルが良く現れてる。なんとも言えない威圧感を感じた」
「そうね。この作品は私が見てきたお父さんの作品の中でも、抜群に上手い作品だったわ。お父さんはその頃、妙にナルシストな節があってね、この『魔王』っていう作品はそんな自分を描いた、言わば自画像みたいな作品だったのよ」
「自分を、描いた? これが?」
「笑っちゃうでしょ。自分が一番凄いんだって、毎日言ってたもの。賞も貰ったことないくせに、自信だけは有り余るほどあってね。私もこの『魔王』に関しては、何か賞でももらえるんじゃないかって、一緒に喜んでたわ」
思い出に耽るように、母は小さく笑った。きっと、当時を思い出したんだろう。好きな人が立派なものを作り上げて、一緒に喜んだこと。それは、想像するだけでも素敵なことだと思えた。
「でも……お父さんはそれを書き上げた途端、スランプに陥ったのよ」
しかし、その表情に影が落ちる。
「スランプ……? だから描けなくなった?」
「私には良く分からなかったけど、凄くイライラしててね。最初のうちはそれでも良かったんだけど、途中から変なことを言い出すようになったのよ」
「変なことって……」
「――『魔王』が、自分の才能を奪っていたんだ、って」
ぞくっとした。
悪魔は、父の才能を羨んで連れて行ってしまったと、子どもの頃に思っていた。それと似たようなことを、父も考えていたのだ。魔王を描いてから、父の筆は作品を生み出すことが出来なくなった。とすれば、その原因は『魔王』にこそある。奪ったのだ、父の才能を魔王が奪っていったのだ。それが、父自身を描いていたということさえも忘れて、父はそう考えてしまった。
妖精王が子どもを連れ去るというのは伝承としてある話だが、こと魔王に関しては子どもを連れ去る理由などない。ゲーテの詩の中で、何故魔王は子どもを連れ去ったのか。幾度の誘惑をして、長い年月をかけて、何故その子を狙ったのか。
才だ。才以外にありえない。能力であれ容姿であれ、何かしら魔王のお眼鏡に適う理由があったからだ。そうであるならば、それが子どもである必要も無い。
だから父は死んだ。馬を走らせようとも、魔王に魅入られてしまったのならば逃げ出すことが出来るわけも無い。そう、俺は考えていた。
「お父さんはその日から、自分の作品を怖がるようになったわ。特に『魔王』は、自分の視界に入らないところに仕舞って、それ以来一度も出さなかった。今度は何を持っていくつもりだ、筆を握る利き手か、色を見る目か、構成を考える頭か、って、見えないものに酷く怯えてた」
それはまるで、暗闇を怖がる俺のようだった。
「でも、父さんがそんなことを言ってるの、俺は見たこと無いけど……」
疑問はそこだった。物心ついた頃から、父は画家をしていた。魔王だの悪魔だの、そういう台詞はだたの一度たりとも聞いた覚えは無い。
「あなたが……そうね、幼稚園に行く頃にはもう、治ってたから。生まれた時はまだ病気だったかしらね。私が子育てしてる最中も、ぎゃーぎゃーわめいてたもの。それで何度喧嘩したか覚えて無いわ」
母はそんな父を「病気」と言った。まるで自分のことを言われているようで、胸が苦しくなった。
「父さんは、どうやってその病気を治したの?」
だから、あえて俺はそうやって聞いた。
「殴ったのよ、グーで」
「ぐ、グーで?」
「テレビの立て付けが悪い時とかによくやるでしょう? あんな感じで」
「それだけで治ったの……?」
「まさか」
母は子どもっぽく笑った。
「今、あんたがこうしているみたいに、私は『魔王』を引っ張り出してきたのよ。それで、わんわん泣きながら言ったわ」
母は、その言葉を思い出しながら、ゆっくりと語るように言った。
「――これは、もっと綺麗なものだった。怖がるような作品じゃない。あなたが怖いと思うからそうなってしまっただけで、本当の魔王なんているわけがない」
母にとって、『魔王』は父だった。
自分が愛した人間の、一番立派な自画像だった。それを、描いた当の本人が、描かれた当の本人が恐れてしまった。だから母は怒ったのだろう。母にとって「怖い」というその言葉は、自分の夫を貶める言葉にほかならないのだから。
いない。才能を奪う魔王なんて、いはしない。
「私が泣いたのが意外だったんでしょうね、お父さんは謝って、それから魔王のことはまったく言わなくなったわ。相変わらず画家は続けていたけど、もう怖いとか、そういうことは口にしないようになったわ」
「じゃあ、どうして父さんは俺に作品を見せなかったの? 魔王に関することが解決したなら、もう作品に対して変な恐怖感は抱いてなかったんじゃ……」
「言ったでしょ。あれが最期の作品だって。お父さんの中から魔王はいなくなっても、スランプは治らなかった。スランプっていうよりは、多分『魔王』にかけたものが大きかったんでしょうね。色々失くしちゃったみたいだった。あなたには見せなかったんじゃなくて、見せるものがなかったのよ。過去の作品は幾らかあったけれど、お父さんにとっての傑作はこれ一つだったし」
「なら、これを見せてくれたって良かったじゃんか。俺にとっては、父さんを知ることが出来るものが、たったの一つもなかったんだ。これが、出てきたとき、俺は……」
俺は、父も悪魔を見たのだと、そう思った。
もしかしたら、そんな誤解をしなくても済んだかもしれない。
そうすれば、『ニクトフォビアの悪魔』も生まれなかったかもしれない。
言い出したら切りがないことを考えた。
少しだけ、羨ましいと思った。父は、俺と同じく何か見えないものに怯えていた。俺が自ら生み出した『ニクトフォビアの悪魔』に怯えたように、父もまた、『魔王』に怯えていた。ただし、それは母によって救われたのだ。『魔王』が、自分たちの思い出の品なのだと、そう認識しなおすことで、父は魔王の魔の手から逃れることが出来た。
俺はどうなのだろうか。あの作品を、きちんとした目で見ることが出来るだろうか。
「お父さんが死んだ後、あんたが「悪魔が連れ去ったんだ」って言った時は、正直参ってたわ。本当に悪魔はいるんじゃないかって、私でさえそう思った」
「……母さんは信じてくれないけど、俺は本当に見たんだ。父さんが死んだあの日の前の夜に、悪魔を見た……気がしたんだ」
「まだ、そういうことを言うの?」
「分からない……もしかしたら悪魔はいないんだって、俺はそう思うことが出来るかもしれない。でも、それでも暗闇の中にいたら、自然と考えちゃうんだ。あの日の悪魔が、俺を連れ去っていくんじゃないかって」
分かっている。それが他人から見ればあまりに大袈裟で、根拠の無い鼻で笑えそうな話だということくらいは。しかし、思い出すだけでも寒気がする暗がりの中に浮かんだ悪魔の姿は、記憶に強く焼きついていて離れない。どれだけ記憶を上塗りしても、水を弾く油のように、再び浮き上がってくるのだ。
だから、母が突然口にした言葉を、俺は擦り付けられるような思いで聞いた。
「お父さんはね、魔王なのよ」
「えっと、母さん?」
何の冗談かと思って表情を伺えば、母は至極真面目な顔をしていた。けれども、一生懸命言葉を選ぶように、ゆっくりと、ゆっくりと喋る。
「魔王は、悪魔を統べる王様でしょう? 魔王が悪魔に負けることなんて、あるわけがないじゃない」
言って、『魔王』を見つめた。歳も考えずに、恋焦がれた少女のような目をしていた。しかし、そこに少し影を落とすと、一つため息をついた。
「私はね、あんたがお父さんのことで悩んで、おかしくなるくらいだったら、お父さんの遺物も全部捨てようと思ったのよ。これを見つけた時は驚いたわ。倉庫にあったものも捨てたはずなのに、そうした私を笑うように出てきたんだもの。それで、結局あんたはまた、悪魔だとかなんだとか言って……」
母は、俺が暗所恐怖症になった時、病院に連れていこうとはしなかったし、暗がりを怖がった俺を守ってくれていたわけでもなかった。ただ、何かに諦観したように哀れみの目で見るだけだった。
「でも、そうよね。あんたにとってはお父さんは画家以外の何ものでもなかったわけだし、そう考えると私たちが間違ってたのかもしれないわね。お父さんの作品を幾つか見せてあげられたら、また変わってたかもしれない」
母は後悔を抱えて、そう言った。
そんなわけがない。当たり前だろう、父が『魔王』を恐れ、怯えていたのを母はずっと見ていた。自分が惚れこんだ絵を怖いと告げる父をずっと見てきたのだ。母は最終的には父を救った。きっと、父が変わったことは母にとって何より嬉しいことだっただろう。画家をやめずに相変わらず迷惑はかけていたようだが、それでも母にとっては家族の形となれたのだ。
なのに、今度は息子である俺が「悪魔」を口にした。
それは、どれだけ辛いことだっただろう。もう、誰かを心配する力も残っていなかったのかもしれない。一人暮らしを勧められた時、その頃には半ば冷え切っていたと言ってもいいほどに家族の会話は無くなっていた。俺の暗所恐怖症と「悪魔」がそうしたのだ。
母のせいなんかじゃない。
じゃあ父のせいか、きっとそれも違う。
その時、霧の中で迷っていた思考が急激に晴れた。
――ああ、分かった気がする。
『魔王』は、あまりに気高く、そして豪快だった。自分が思っていた画家の父は天才で、誰にも負けない才能を持っていて、だから悪魔に連れ去られたんだと思っていた。
『魔王』を見た時、俺は凄いと思った。これが父なのだと、才能のある父が描いた絵は、このレベルにいるのだと。俺は理解していなくとも、その魔王が父だと少なからず感じていたのかもしれない。
ミドリは言った。『ニクトフォビアの悪魔』の中に、俺は父を閉じ込めていると。悪魔だと思っていた俺の絵は、実は暗い牢獄だった。一体何故そうなってしまったのだろうかと考えた。
この世界に、俺と父を繋ぐものは、三つしかない。
一つは、記憶。父が自分にしてくれたことなんてたかが知れているが、それでも数少ない父の記憶が、繋ぎとめてくれるものの一つだ。
一つは、『魔王』。画家としての父を繋ぎとめたのは、この絵だった。ほかのすべてのものは母に処分されてしまったために、本当に唯一のものだった。
最後の一つは、「暗闇」だった。あの日見た暗闇が、父を奪い去ったと思い続けていたあの暗闇こそが、俺と父を繋ぎとめる最後のピース。そして、暗闇を克明に描き出した『ニクトフォビアの悪魔』は、そのまま代用ピースとなる。
『ニクトフォビアの悪魔』は、多分、俺にとっての父との思い出。
そしてそれを恐れ、でも捨てることは出来なくて、部屋の中に飾って、自己満足だと言い聞かせて、父を見ていた。
「俺は父さんを全然知らないんだ。でも、ずっと父さんは凄い画家なんだって思ってて、この『魔王』はその証明だった。でもやっぱり、それだけじゃ足りないんだ。俺の知っている父さんは、ここにはいないんだ」
「ごめんね。私がもっとお父さんのことを話してあげていれば……」
「違うっ!」
俺は思わず怒鳴っていた。
確かに、過去の父はこの絵にしか存在しない。父と母が隠したせいで、俺は画家である父を知らずに生きていた。それは、少なくとも俺に影響を及ぼした。
でもそういうことじゃない。
「俺が想っている父さんは画家でも、俺が知っている父さんは画家じゃない」
「ヒカル……」
「だから、母さんは悪くない。結局、必要だったのはそういうものじゃないんだよ、きっとさ」
写真はある。近くの公園で取った家族写真はある。でもそれは俺が知る風景じゃなくて。あまりにも曖昧な父の象は、画家なんて高尚なものでは決してなくて。尊敬はしていても、それは決して尊大な姿ではなくて。
あの風景こそが、やはり俺にとっての父さんのすべてだった。
――悪魔なんていないよ。
その言葉が。父が優しげに、諭すように言ったその言葉がすべてだった。
閉じ込めた。暗闇を怖がり、悪魔がいると騒ぎ出した俺の頭を撫でて、悪魔の存在を否定した父の姿を。
母は小さな頃、こう言った。
――お父さんは、魔王を倒したのよ、と。
父のもっとも凛々しい姿は、画家である父の姿ではない。あの日、あの夜、「悪魔がいるよ」とそう言った俺に対して、どんなことを思っただろう。過去の自分に姿を重ねたのだろうか。きっと、そういうこともしていただろう。でも、その上で言うのだ。一度倒した悪魔をもう一度征伐するのだ。
『ニクトフォビアの悪魔』の中で、それは永遠に行われる。
いない、ああ、確かに悪魔なんていなかった。
いたのは、笑えることにナルシストな魔王だったのだ。
「この絵さ、父さんの自画像みたいなものだって言ったけど、似てるの?」
自分を全く疑っていないような、自信に満ちた顔の魔王を指して聞く。
「気持ち悪いくらい似てるわね」
「そう……なんだ」
きっとそれは、嘘じゃないんだろう。
頭が冴えてくる。霧が晴れたように、思考がクリアになる。
「母さんは、別に間違ってなんかいないよ」
「そう? でも、ほかの作品が残っていれば……」
「逆だよ」
「逆って何よ」
「ほかの作品が残ってたら、多分この結論には辿りつけなかっただろうから」
頬が緩んだ。なんだか、久々に笑えた気がした。
「母さんはさ、俺の絵を見てどう思った?」
「何よ突然。絵って、大学に入学した時に作ったやつ?」
「多分それだと思う。真っ暗な絵だよ」
母は『ニクトフォビアの悪魔』が何故作られたのかを知らないどころか、多分タイトルさえも知らない。ただ単純に、俺が大学で初めて作った作品だと、そう知るだけだ。
だから、きっとそう言うと思った。
「結構綺麗な絵だと思ったわよ」
「……そうか、ありがとう」
結構なんて言葉を使うところ、母の一番はこいつで間違いないようだ。
【ニクトフォビアの悪魔】
■■■
芸術祭当日、大アトリエに集まったサークルメンバーの中にミドリの姿がなかった。朝九時までに集合ということだったが、一般参加者が来る十時半間際になっても、ミドリは現れなかった。メンバーは各々作品をアトリエの中に展示し始めている。絵画を作ってたメンバーは廊下に飾ることになっている。俺も既に展示を終え、あとは時間制の受付の仕事をこなすだけだ。
携帯で連絡を取ってみたが、電源が切れているのか通じる気配が無い。
俺は近くにいたメンバーに声をかけて、ミドリを知らないか聞くことにした。
「四彩さん……? うーん、知らないなぁ。ていうか、ヒカルが知らなかったら誰も知らないんじゃないの」
メンバーはにやにやと笑って、茶化すように言った。ミドリのことを話そうとすると、よくこうしてからかわれる。あいつが入学してからサークルの中ではしょっちゅう一緒にいるのでそう思われても仕方が無いと思うが、よくも飽きずにいられるものだ。俺が面倒くさそうに背を向けると、「悪い悪い」と肩を組んでくる。何が楽しいのやら。
「真面目な話、今日はまだ見てないよ。携帯に連絡してみたのか?」
「したよ。電源切れれて出なかった」
「じゃあ何だろ。……そういえば、最近小アトリエのほうに泊まりっきりとか聞いたけど、そっちのほうにいるんじゃないのか?」
「小アトリエ? あそこはほかのサークルが借りるって話で、三日前くらいからサークル関係者以外立ち入り禁止じゃなかったっけ?」
サークルから報告があったために、俺は一週間前から作品を大アトリエのほうに移している。その際に、ミドリも移動させていたような気がするが。
「夜中だけ借りてるんじゃないの?」
「また何で小アトリエに……大アトリエのほうでやればいいじゃねえか」
「誰にも見せたくないらしいぜ」
「意味が分からん……」
自由奔放というか、非常識というか、そんな彼女に頭が痛くなった。
「とりあえず行ってみるよ。ほかの奴に迷惑かけてなきゃいいけど……」
「四彩さんは水彩画だっけ。もし仕上がってるようなら、早めに飾るように言っておいてくれ。一応まだ間に合うからさ」
「分かった、いたら伝えておくよ。ミドリを見つけたら連絡してくれ」
「了解」
大アトリエを出て、様々な作品が展示されている廊下を走った。腕時計を見ると、十時半をゆうに過ぎている。クラブ棟の四階に大アトリエはあるため、一般参加者が来るのはもう少し後だろうが、そろそろ展示を終えないといけない。
小アトリエ、ミドリが普段使っていたアトリエはそもそもクラブ棟にはない。校舎の、授業で使う美術の準備室だった場所にある。美大だからといって、文系サークルに人が多く入ってくるわけではない。実際、ニ三年前まではそうだった。しかし、うちの美大から有名芸術家が輩出されると一転、普段のニ三倍の生徒がサークルに加入したらしい。そのせいで、あまり使っていなかった準備室はサークルのアトリエに改装されたのだ。
校舎の前では、スポーツ系サークルが屋台を開いていた。既に幾らか客が入っているらしく、裏庭ではたこ焼きを頬張る学生の姿が多く見受けられた。
ロビーではサークルの彫像組みの作品が展示されていた。見慣れたキャラクターから、一体何を狙って作られたのか分からないものまで、多種多様な芸術作品が並んでいた。
小アトリエにつくと、入り口に「立ち入り禁止」と書かれた札が立てられていた。校舎の三階に位置するが、サークル棟と違って客がちらほらと見られる。まだ準備中、ということはないと思いたいが……。
「ああ、ヒカル君、ちょうど君を探しに行こうと思ってたんだよ」
入ろうとすると、入り口でばったりサークル長に出くわした。眼鏡を光らせた姿は、サークルメンバーから妙な人徳を得ている。厳格な人だが、融通が利かない人ではない。あまり喋ったことはないが、得た印象はいいほうだ。
「俺を探してって、やっぱりミドリですか?」
「あれ、誰かに聞いたのか? お前には黙ってろってミドリに言われてたんだが」
「なんでまた……」
「察してやれよ」
ぽん、と肩に手を置かれた。彼は彼で、よく分からない人だ。
「四彩さん、中にいるから連れて帰ってくれ」
「出て行こうとしないんですか? 何やってるんだかあいつは……」
「いや、そういうわけじゃあないんだが、なんていうか……寝てるんだよ」
「はぁ?」
聞き間違いかと思った。しかし、サークル長はいたって真面目に、そして真剣な眼差しで俺を見た。それだけでなんとなく察する。本当に寝ているのだと。
サークル長は大きなため息とともに、困ったような顔をして言った。
「流石に担いでいけないからな。起きるまで色々揺らしたりしてたんだが、結局な。だからお前を呼ぼうと思った」
「何で俺なんですか」
「わざと言ってるんだろう、それ? じゃあ頼んだから」
もう一度肩を叩くと、サークル長はほかの奴がそうするように、顔をにやけさせながら階段の下に消えていった。
さて、恐らくは泊りがけで徹夜でもしたのだろう。ミドリを迎えにいかなくては。
アトリエに入ると、中では文芸サークルが準備を終えて待機していた。奥の長椅子の上で一人の少女が寝息を立てているのを、迷惑そうに見ている。その正面には布で隠されたイーゼルが置いてあった。完成はしたのだろうか。
とにかく、俺はミドリを起こすために、サークルの面々に頭を下げながら彼女に近づいた。徹夜することを最初から見越してか、髪の毛やらなんやら、妙にセットされている。が、口元から垂れた涎が頬を濡らし、台無しだった。
「おい、ミドリ。起きろ」
「……」
返事は無い。熟睡しているようだ。ミドリの寝顔を見るのはこれが初めてではないが、相変わらず間抜けである。
「連れて帰ります。起きないみたいなんで」
「そうしてくれると助かります……」
「すみませんがイーゼルは置いておいてください。彼女が起きたら取りに来るので」
「えっ、展示しなくていいんですか?」
「勝手にするわけにもいかないんで。なんだか見せたくないらしいですし」
ミドリを担ぐと、人を背負っているとは思えない重さが、背中に圧し掛かる。ミドリは女子の中でも痩せているほうだなとは思っていたが、初めて女子を背負った俺は、その軽さに驚いた。
ミドリを医務室まで連れて行き、ベッドに寝かせる。本来なら無理矢理にでも起こして芸術祭の手伝いをさせるところだが、ミドリの目の下にあるクマを見て、俺はその考えを取り払った。
寝ずに、というのは流石に大袈裟だとは思うが、徹夜を何度か繰り返している。一体何を描いたのか知らないが、俺はそうしてまた一つ頭の痛みを覚えた。
夕日が落ちた。オレンジのシーツを敷いたような空が、次第に水に浸かるように暗闇へと飲み込まれていく。午後五時半。空は、今日の閉幕を告げた。
帰らなきゃならない。街が琥珀色の街灯に照らされ、人々が人工的な光に集う蟲のように活動的になるその時間。俺は、その暗闇を避けるようにして午後六時までには帰宅するようにしている。秋も深まってくれば、日も落ちるのが早い。医務室から見る外の風景は、俺の動悸を早めるには十分だった。
「おい、帰るぞミドリ。今日は芸術祭のせいで一般生徒は夕方には帰宅するように言われてんだぞ」
「……」
「起きてんのは分かってるんだよ。身包み剥いででも連れてくぞお前」
「……よく気付きましたね」
医務室のベッドで寝息を立てていたと思ったら、それが実に嘘くさいことに気付いたのはついさっきだ。わざとらしい寝言が聞こえた辺りから疑ってみたら、下手糞な歯軋りで確信に至った。そも、徹夜したからといって朝の十時前から寝てるのだ。いくら疲れていても目が覚めてしまう。
「大体、手伝いもしねえで寝てたんだから、これ以上人に迷惑かけるなよ」
「や、予想以上にぐっすりモードでしたので、ほんと」
「なんでもいいからベッドから出ろ」
ミドリの手を掴んでベッドから引きずり出す。
「わ、分かりました分かりました。今起きますからっ」
半身がベッドから出て転げ落ちそうになったところで、観念したミドリはそう言った。寝癖で跳ねた頭を適当に梳きながら、ミドリはようやく立ち上がった。
「いま、何時ですか?」
「六時前。八時間以上寝てたことになるな」
「えっと、こんなこと言うのもなんなんですけど、帰らなくて大丈夫ですか?」
「そう思うならさっさと支度してくれ」
「待っててくれたんですか、私のために!」
「んなわけないだろ。片づけが終わった後に様子を見に来ただけだよ」
素っ気無く言うと、ミドリが肩を落とした。
そこで、俺はミドリの手荷物はどこかと考えをめぐらせた。彼女を運ぶ際に、そのようなものを持ってきた覚えは無い。ぶつぶつと何かを呟いているミドリに向かって「荷物はどこか」と聞くと、数秒停止した後、思い出したように手を叩いた。
「アトリエに置きっぱなし……だと思います。文芸部の人が撤去してなければ。まあ、でっかいトランクにお泊りセット入れて持ってきたんで、多分大丈夫だとは思いますけど」
「取ってこい」
どんっ、と背中を押した。
「えっ! 冷たくないですか? 先輩も一緒に行きましょうよ」
慌ててミドリが腕に縋り付いて来るのを、適当に払う。
「面倒くさい。それに、絵も回収しなきゃいけないだろお前。明日は展示場所が記念館のほうになるから、今日中にそっちに移動させなきゃならないぞ」
「あー、あれですか……」
ミドリは頭上を見て、苦笑いした。
「何だか俺に見せないように根回ししてたみたいだし、早く行ってこいよ」
「あれ、知ってるんですか? もしかして……見ました?」
「見てねえよ。見せないようにしてるものをわざわざ見るかっての。つかトランクか……運ぶのだけは手伝ってやるか、仕方ないから」
わざとらしく言ってみたが、ミドリは俯いて黙ったまま、何か考えに耽っているようだった。しばらく待ってみると、遠慮するように小さくこちらを見上げた。稀に小動物のような可愛らしい仕草をするが、今回は憂いの色が瞳に浮かんでいた。弱々しいその態度に、少しだけどきりとした。
「お願いが、あります。展示する前に一度、ヒカル先輩に絵を見て欲しいんです。いえ、先輩に見ていただいたら、別に展示しなくてもいいんです。だから、私が全力をかけて描いたあの作品を見て欲しいんです」
「何だよ急にしおらしくなって。それじゃあまるで……」
「自惚れてもらって結構です。実際、私は先輩のために描いたんですから」
「……」
まるで、俺のために描いたみたいじゃないか。そう笑い飛ばすつもりだった。なのに、ミドリが肯定することで、俺の言葉はすべて封殺された。
自分のために誰かが絵を描いてくれた、そう言葉通りに捉えれば嬉しいことだろう。ただ、ミドリの口調からそういう思考にたどり着くことは困難だった。これは甘酸っぱい青春なんかじゃない。絵の具のフェノール臭がする、芸術家の闘争だ。ラブレターなんかじゃなくて、挑戦状だった。
どちらにせよ、断るつもりなんてない。芸術祭のために描いていた作品を没にしてまで作り上げたものだ。それが、俺に対するどんな類のものであっても、拒否することはきっと許されていないだろう。
らしくない顔をしているミドリの頭に手をぽんっと置いて、俺は告げた。
「いいよ、行こう。付き合ってやるよ」
窓の外では、夕日がすっかり夜に飲み込まれていた。腕時計の長針は、夕刻を指している。心臓の音は、次第に馬蹄が地を蹴る音に変わる。それがどれだけ冗談めいた話であっても、悪魔の存在が思考の中から消え去っていたとしても、毒を盛られたように根付く暗闇への恐怖は去らない。
だからこそ、俺は行かなければならないと、そう思った。
ミドリは風景しか描かない。人物デッサンの授業では、一人だけデッサンをしている教室の風景を描いたとかで、一時期話題になっていたほどだ。落書きにしても、まず四角い縁を描いてから、中に構図を書き始める。小中学生がするような、可愛らしいものではない。落書きの時点で、既に圧巻なのだ。俺が見たことのある作品数こそ少ないものの、ある程度過去の経歴を辿ってみても、すべてが風景画だった。そのどれもが高レベルで、額縁に飾りたいほどだった。
以前、ミドリに何故風景画ばかりを描くのか聞いたことがある。それは彼女が芸術祭の作品『太陽の散歩道』を描き始めた頃だった。キャンバスに伸び伸びと草原を描き出していた彼女は、俺の問いにそれが当たり前だと言わんばかりに答えてきた。
「馬鹿だからですよ」
「なんだって……?」
「技法とか表現とか、そういうのを考えるのが苦手なんです。だから、頭に浮かんだ光景をそのまま描き出すことしか出来ないんですよ私は」
だからミドリの絵は、あまりにも直情的な絵になる。彼女の絵には、たった一つの嘘も混じらない。自分が想い、浮かべ、広げた光景をそのまま完璧に描き出してしまう。草木は草木そのままに、水と大地は乾きも潤いもそのままに、生き物も、無機物も、すべてがそのままに。
この世界にきっとある、美しい風景なのだ。
それを、まるでスキップするように彼女は描いていく。彼女の歩幅は大きい。誰かが数年歩んでくる距離を、たったワンステップで踏み越えていく。それを羨む人も多くいるだろう。でも、彼女はそれでも自分を「失格」だと言ったりもする。何故なら、彼女は走り方を知らないから。ずっと同じ歩幅で、ずっと同じ調子でスキップをしてきただけ。それに気付いてしまったから。
そんな彼女が、全力疾走をしたという絵は、きっと……。
アトリエの夜は薄暗く、廊下から漏れる電灯がかすかに室内に入ってくるだけだった。彼女の要望で電気はつけていない。窓も締め切っている。一歩踏み出せば人食い沼にでもはまってしまうのではないかという暗闇が辺りに広がっている。俺の足はかすかに震えているが、ミドリの前で変な姿は見せなくなった。
「先に、伝えておくことがある」
イーゼルを立て、作品を部屋の中央に設置したミドリに向かって言う。
「父さんの絵は、悪魔の絵なんかじゃなかった。あれは、父さんが自分を天才だと信じて疑わなかった時期に描いた、母さんとの思い出の品だった。でも、父さんはあの『魔王』を見て怖がっていたらしい。自分の才能を奪ったんだって。……だから、俺の考えは間違いじゃなかったと思う。でも、多分お前が正解だ」
「そうでしたか。どうりで、物凄い気迫に溢れていると思いました」
「だな」
思わず笑ってしまう。そして、一つ呼吸を置く。
「あと、『ニクトフォビアの悪魔』に父さんを閉じ込めてるってことも、なんとなく分かったよ」
「結局、どういう結論になったんですか?」
「俺にとって父さんは、画家である前に、やっぱり父親だったんだ。あの風景は、俺が画家以外で知っている父さんの、唯一の姿だった。そうして画家となった俺が父さんを残せる方法として、多分あの絵は出来上がった。暗闇は、俺が知る父さんの生死のすべてだったんだと思う。だから、閉じ込めておかなきゃならなかったんだと、今ではそう思う」
ただ黒く、黒く、黒く塗りつぶした風景の中。
――お父さん、悪魔がいるよ。と、そう怯えた俺の姿と。
――悪魔なんていないんだよ。と、そう諭す父の姿と。
その両方が閉じ込められた牢獄を、俺は『ニクトフォビアの悪魔』と呼んだ。恐怖の象徴としたことに間違いなんてない。あの夜、生きている父を黙認した最後の夜に見た光景。怖くないわけが無い。
でもそれは、暗所恐怖症だから怖いんじゃない。
暗いから怖いんじゃない。悪魔がいるから怖いんじゃない。
その風景が終わる次の瞬間、父は消える。穏やかに寝息を立て始めれば、目を覚ました時には父はいない。『ニクトフォビアの悪魔』は、その刹那を描いた作品だった。だから、怖い。この絵が終わることが、怖い。
「やっぱり、綺麗な作品じゃないですか」
「そう……かな」
「風景マイスターの私が言うんですから、間違いないですよ」
ミドリは静かに微笑んで、画板の縁をなぞった。
「でも、先輩は一つだけ誤解をしていると思います」
「まだ俺は何か間違っているって言うのか?」
「はい。先輩は、それでもまだ暗闇を怖がってますよね。どうしてですか?」
足の震えが勘付かれていたのだろうか。ミドリはあらかじめ用意していたんじゃないかと思うほど、はっきりとした口調でそう聞いてきた。
「正直、分からない。恐怖症が根付いているとしか言いようがないんだ。もうほとんど、癖というか、条件反射というか、そういうレベルの話だと思う」
「違いますよ先輩。先輩は、ずっと見てこなかったんじゃないんですか?」
「見てこなかった?」
何を、と言い返そうとした時、タイミングを計ったようにミドリが画板にかけられた布を解いた。
「――闇の姿です」
そこに、ミドリの風景が開幕する。
あったのは、広大な闇の姿だった。
圧倒される。ここはどこだろうか、この世界のどこにでもありそうな風景が広がっているにも関わらず、別世界が両手を開けて俺を迎えていた。要領を得ない、何を書いたのか言われなければ分からない、まるで俺が作ったあの暗闇と同じように、ミドリの画板には暗闇が広がっていたのだ。
「これは、海ですか、空ですか、草原ですか」
ミドリはそう問うた。
圧倒的な黒が目に飛び込んだ瞬間、俺は思い出す。
『ニクトフォビアの悪魔』を作り上げた日、俺はいつものようにカーテンを閉め切った部屋の中で、あの暗闇を思い浮かべていた。静まり返った寝室、やけに目の冴えた自分が見た、質量を持った暗闇。
悪魔だと、俺はそう思っていて。一枚一枚新聞紙を重ねて、写真を重ねて、赤を重ねて、青を重ねて、緑を重ねて、黒を重ねて。
――そのすべてが、闇の正体だった。
「私は、この広大な闇の海を裸になって泳ぎます。それは、綿毛のように柔らかくて、朝露のように冷たくて、とても、気持ちがいいんです」
ミドリの風景は、確かに海のように見えた。
「私は、この広大な闇の空を大きな翼を持って飛んで行きます。時には殴るような風が吹きつけたり、時には撫でるような風に乗って行きます」
しかしそれは、どこか空のようにも見えて。
「私は、この広大な草原の上で寝ています。きっときつい青の香りもするでしょうし、甘い花の香りもするんだと思います」
そんな、草原の香りもした。
「なんて言ったら、なんか胡散臭いですかね」
照れくさそうに頬をかいて言う、ミドリの姿もあった。なんだかそれが、月下美人という言葉にぴったり当てはまるような気もして、俺まで恥ずかしくなる心地がした。
「先輩が思う暗闇の姿がどういうものなのか、それは『ニクトフォビアの悪魔』を見ていれば痛いほど伝わってきました。多分、間違ってなんかいません。怖いと思う人もいれば、綺麗だと思う人だっている。でも、だからこそ、先輩には誤解して欲しくない」
搾り出すような声が、その必死さを訴えていた。
「風景は、見る人によって千差万別、多様に変化します。私がどれだけ言ったとしてもその美しさは伝わらないかもしれない。でも、せめてこうして絵にして、私が目にした同じ景色を誰かに見て欲しい」
「同じ、景色……」
これが、俺が見た暗闇と同じだとミドリは言う。色使いも違えば、そもそもコラージュと水彩画ではその様相はまったく異なる。全然違うと、見た目だけで判断すればそう思うのに、どうしてかその風景が『ニクトフォビアの悪魔』と重なった。
「だから私は、綺麗な風景をずっと描いていくんだと思います」
そうしてミドリは、言葉を締めくくった。
「俺には、描けないよ。こんな闇の姿は……」
「別にいいんです。私に『ニクトフォビアの悪魔』のような作品が作れないように、先輩は私の景色を再現することは出来ない。それでいいんだと思います。ただ、私は知って欲しかったんです。私には、こういう風に見えているってことを」
「……これが、お前の見せたかった絵か」
「はい」
ミドリは力強く頷いた。それがあまりに真摯で、思わず目を逸らすように俯いた。
「芸術祭の作品を没にしてまで作って、それに徹夜を繰り返して作業して、どうしてそこまでお前は俺の暗闇に拘ろうとする?」
ミドリの顔を見れない。俺は足元に視線を落としたまま、そう聞いた。
「先輩、こっち見てください」
俺に檄を飛ばすように、普段ならそんなことを言わないミドリが俺にそう望んだ。ゆっくり顔を上げると、やはりミドリは笑っていた。
「あれは、もっと綺麗なものなんです。先輩が怖いと思うからそう思えるものであって、本当は違う。私はあの作品が本当に好きなんです。だから、幾ら製作者である先輩であっても、それを貶めることは私が許しません」
なんて、なんて顔でお前は笑うんだ。
いつものように、普通に笑っていればいいものを、彼女は遠慮気味に、悪事を働いていると分かっているのに行動するようなやりきれない表情で言った。正しさを確信出来ず、下手をすれば自分が悪になることのハイリスクを背負って、彼女は話している。
歪んでいて、泣きそうで、それでも押し通さなければならないもののために彼女は笑う。その決意は最近どこかで聞いた話の中にもあって、俺は思わずその風景とこの風景を重ねて、崩れるように膝を折った。
「馬鹿野郎……!」
拳を握りつぶす。アトリエの床を殴りつけ、その痛みで自分の馬鹿さ加減を咎めようとした。
「馬鹿でもいいんです。私が表現者である限り、やらなきゃならないのは自分を伝えることなんです。私は今まで、それが出来なかった。自分の中にあるものを模倣するように作品は作ってきました。でも、本当に自分が書きたいものなんてほとんどなかったんです。今回、私はそれが出来て嬉しいんです」
適わない。こいつには多分、一生適わない。技術も精神も、心も適わない。じくじくと胸の中が痛み出す。その心地いい痛覚の中で、俺は彼女の作品を真正面から痛感する。焼き付けなければならない、この作品を。
既に変わることのない黒を、塗りつぶそうとした綺麗な闇を。
「ミドリ、聞いてくれ」
「……はい」
だから俺は、ミドリに返事をしなくてはならない。
「……『ニクトフォビアの悪魔』は、それでも俺にとっては恐怖の象徴だ。父さんを覚える上で、どうやっても変わらない事実だ。父さんはあの闇の中で死んだ。それを俺は覚えておきたい」
悪魔なんていないんだと、そう告げた父のことを、俺は覚えておきたい。
「でも、閉じ込めたあの空間が、少しでも綺麗に見えるようになりたいと俺は思う。俺の暗闇には、温度なんて無いし、頬を撫でるような風も、草の香りも感じない。でも、お前の絵には確かに感じる。これを俺は、本当に綺麗だと思った」
どう言葉を紡ぐべきか、歩き始めた赤子のように口を動かす。
「……馬鹿野郎」
しかし、結局言葉を失ってしまう。
「何ですか、褒めるのか馬鹿にするのかどっちかにしてくださいよ」
妙に声を弾ませてミドリが笑った。
ニ三度深呼吸を繰り返す。そうしないと、何か余計なことを言ってしまいそうだった。冷たい空気を肺に送り込み、血が上ってどうしようもなくなった頭を冷やした。
「完敗だ!」
俺は勢い良く床に頭を打ち、そのまま土下座した。冷えた床が額から熱を奪っていくのが分かった。
「ちょ、ちょっと何してるんですかっ?」
「ありがとう!」
「謝る格好でそんなこと言わないでくださいよ!」
服の襟を引っ張られて無理矢理立たされた。思わず崩れそうになった表情をなんとか取り繕って、俺はまた深呼吸した。
やっぱり顔は見れない。天を仰ぐように首を上に向けて、俺はひたすらに普通を演じる。
「そういえば、聞いてなかったな」
「な、何がですか」
「タイトルだよ。なんていうんだ?」
色々言いたいことはあったのに、最初に出た言葉はそれだった。
すると、ミドリはよく聞いてくれましたと言わんばかりに両手を広げ、そこに宣告するように名を口にした。
「『月の散歩道』です」
その時、俺はミドリはやっぱり天才なんだと確信した。
彼女の作品に月なんて浮かんでいないのに、その暗闇はまさにタイトルの通りでしかった。
改めて思う。
ミドリは風景しか描かない。
とても綺麗な、風景しか描かないのだ。
【月の散歩道】
■■■
「で、なんでお前は俺の家にいるんだよ」
やけに重いトランクを床に降ろすと、横でくつろいでいるミドリに向かって俺は邪険にするように言った。
「記念館の鍵が閉まってたから作品を預かっておいてもいいぞ、って言ったのは先輩じゃないですか!」
「それはそうだが、お前が来る必要はないだろ」
「私の作品なんですから、心配になるのは当たり前でしょ! ていうか、私が画板を背負ってるのが見えませんか? 私が持って歩いてきたんですよ?」
「お前がトランクにこんな荷物詰めてくるのがいけないんだろうが」
「ひっどーい、それが誠心誠意、心を込めて先輩のために絵を描いてあげた私に言う言葉ですか?」
「ありがとう」
誠心誠意頭を下げて礼を言う。そこだけは、茶化してはいけない。
正面から「あ」だとか「う」だとか途切れ途切れの言葉が聞こえてきた挙句に、ミドリはにやにやしながら頭をかいた。
「へ、へへっ。素直な先輩も悪くないじゃないですか」
「なんだそれ」
「いえいえ」
素直に礼を言われると照れるらしい。あまり見たことの無い姿だった。
時計を見ると、既に七時を回っていた。俺は帰りの道中でずっと考えていたことをミドリに提案する。
「もう一つおまけに、お前を家まで送っていってやろう」
「え」
心底意外そうな顔をして、ミドリは大口を開いていた。
「いくらなんでも無茶しすぎじゃないですか? 私、確かに先輩には暗所恐怖症を克服して欲しいなとは思ってましたけど、そこまで無理しなくても……」
「大丈夫。多分、もう大丈夫だと思うから」
はっきりと、自分の感覚を告げる。心臓の部分に重く圧し掛かっていた何かが、すっと滑り落ちていった気がした。
ミドリも最初は俺の様子をまじまじと見ていたが、そのうち観念したのか「分かりました、お願いします」と恭しく頭を下げてきた。
「じゃあついでに、どっかでご飯食べに行きましょう。初夜遊び記念です」
「いいなそれ」
ミドリの提案に乗る。実際、夜遊びなんてしたことがないのだ。少しだけ期待に胸が弾んだ。
「初ディナーですよ、ディナー。どこに行きます?」
「そうだなぁ……ラーメンが食いたいなぁ」
ふと思いついたことを言ってみた。ラーメンなんて、昼にインスタントを幾らか食べるくらいで、店になど入ったことがない。夜食といえばラーメン。学生にはそういうイメージがあった。
しかし、ミドリは若干表情を曇らせ、不服そうに言う。
「ラーメン、ですか……? ディナーですよ?」
「夕飯だろ? 一回行ってみたかったんだよな、ラーメン店って」
「……分かりました。ラーメン行きましょう、ラーメン」
「何だ、嫌だったら別にいいんだぞ。俺に合わせる必要なんかない」
「いえ嫌じゃないですよ。まったく。これっぽっちも」
「意味が分からん……」
相変わらず、よくわからない奴だった。
ミドリの作品を部屋の隅に置くと、俺は帰ってきたままの格好で外に出た。後ろからミドリもついてくる。
部屋の鍵を閉める前に、その空気に俺は浸る。何年ぶりだろう。悪魔の軍勢が闊歩していた場所は、夜空に浮かぶ月の散歩道になっていた。足の震えも起きない。もし、一人でいたならばまた話は別だったかもしれない。しかし、あの日俺がミドリの隣に座って『ニクトフォビアの悪魔』を眺めたように、ミドリは俺の隣で夜を満喫するように背伸びをした。
「行きましょう、ヒカル先輩」
そうしてミドリは、俺の背中を押した。