1‐1‐3 Crossroad
そして、放課後。
喫茶店『止まり木』のカウンター席にて。
「結局、おみやげくれなかったね、平治君」
「お前はあいつが金欠と認めながらも、物を買ってくると期待していたのか」
「ナチュラルに鬼だね、水月は」
今時珍しい文明の利器がほとんど無いアンティーク風喫茶店『止まり木』で話す三人。そして、ぼけるのは基本的に水月一人なので突っ込み要員には事欠かない。三年生で進路も決めた彼らは放課後の暇をだべることで潰していた。
「平治君いい人だから。期待には応えてくれると思って」
「もはや俺は何も言うまい」
「マスター、コーヒーお代わり」
わが道を行く鏡は、会話そっちのけで注文をすると無愛想なヒゲ面の男ことマスターがカップを受け取り代わりのブラックコーヒーをカップに注ぐ。
ちなみに、彼らがいつも通っているこの店は、コーヒーと紅茶がお代わり自由なので学生である彼らのお財布には非常に優しかった。穴場なのか、人はそれほどいないため長時間居座っても迷惑は掛からないが、経営はどうなっているのかは謎だった。
「あいよ」
ぼそり、とつぶやきマスターがコーヒーをカウンター席に置く。
エプロン姿が妙に似合うマスターだが、そこには真実の愛とか、世界平和などといった意味不明な漢字が大きく書かれたものをよく着用していた。そのセンスから生体に至るまで全ては謎に包まれていた。
ちなみに、今日は七つの海とデカデカと書かれていた。
「どうも、マスター」
礼を言う鏡のことなど見向きもせずにグラスを拭き始めるマスター。この店に通って大分立つ彼らだったが、未だにマスターの本名を知っている者はいなかった。
「今日も弾いてもいいですか? マスター」
水月の唐突な申し出に無言で首だけうなずき、カウンター席の脇にあるグランドピアノをみやるマスター。文句を言う客がいないからなのか、はたまた彼女の腕前を認めているからなのかはわからないが彼女が気まぐれにピアノを弾くことを許していた。
「今日は何を弾くんだい? 水月」
「少し指が動くままに任せて弾いて、あとは即興で考えるかな。題して、諦めないことを教えてくれた君に送る曲」
席からゆっくりと立ち上がり、脇へと移動する水月。こういった動作が少し様になっているように映るのは、彼女が多くのコンクールで入賞していることとも無関係ではないのかもしれない。
しかし、そんな才能がある彼女が何故趣旨換えしてまで宗光学院に入学してきたのかは不明だった。あえて聞くようなものでもないと、誰も聞かない内に時が過ぎ、彼女との奇妙な関係は続いていた。
「なんだそりゃ」
呆れる明、マイペースにコーヒーを飲む鏡。
その耳には、おだやかな音が届く。
楽譜も無く、ただ彼女の白く美しい指が遊ぶままに奏でられるその曲は、どこか優しく包み込まれるような感覚になる。わずかな光だけが届く深海のようだった店内は、その音が響くと風に揺られる水面のようににわかに活気付く。
別段、店内がにぎやかになった訳ではないのだが、普段は仏頂面のマスターの顔さえどこか楽しげに映る。耳に心地よく響き聞いている人間の心を穏やかにしてくれる、そんな曲だと明は思った。
会話するでもなく、静かに流れる音の海に身を任せてどれだけの時間が経っただろう。明と鏡のカップの中はとっくに空になり。窓から差し込む夕日に照らし出された水月の横顔はどこか現実離れしていて引き込まれるような美しさを放っていた。
そして、演奏が終了すると奥の席から拍手が聞こえる。
「お見事。天宮君にこんな特技があるとは知らなかったよ」
一体何時からいたのだろうか、そこには黒木講師が座っていた。
「って、黒木先生。恐縮です」
「今はただの喫茶店の客だよ、僕は。そんなにかしこまらなくてもいい」
スーツ姿よりも白衣で教鞭を取っている姿の方が似合う彼だが、眼鏡を掛けてコーヒーを飲む姿は、教師というよりはサラリーマンだった。
「本日は、ご指導ありがとうございました。黒木講師」
「おっと、君もいたのかい新城明君。指導なんて大それたものではないが、訓練ならば何時でも相手になろう。それと武道は、礼に始まり礼に終わるものだよ。だから、こちらこそありがとう明君」
真面目すぎるきらいがある黒木講師だったが、明は彼を素直に尊敬していた。強く正しく誠実な彼は、少しクールぶって斜に構えている明が認める数少ない人物だった。
「先生の指導の賜物ですよ」
「さて、あちらの男二人は放っておいて次の曲を弾いてくれないかい、水月」
「そうですね、少し情熱的な曲を奏でるとしましょうか。ふふ」
何時の間にか注文したのか大きなパフェをほおばりながら鏡が話す。そんな店内の様子をうかがい、笑顔を浮かべた水月が栗色の髪を揺らし楽しげな音を奏でていく。こうして穏やかな時が流れていったのであった。
修正しますた。