1‐5‐3 Start
「起きたんだね。明」
「ん、鏡か。起こしてくれればよかったのに」
「何、君に恩を売っておくのもいいと思ってね」
塔の横手にある草原に二人はいた。そして、ここが入り口であると、『神眼』を持つ鏡にはわかっていた。目を覚ましたばかりで、まどろんだ明の頬を風がなでる。
吹き抜ける風が頬をなで、上を見ると鏡の顔が見えた。
「鏡がいるってことは、夢かそれとも死んじまったか」
大の字に横たわる明を見下ろし鏡が笑顔で答える。
「君は、死んでいると肯定して欲しいのかい? それとも、これまでしてきたことが全て夢であったと言って欲しいのかい? 生きているよ。私も君も」
「そうか、ならいい」
つられて明の顔にも笑顔が浮かぶ。
「それと、介抱してやっていた身としては礼の一つも欲しいところではあるよ」
「俺に恩を売りたいんじゃなかったのか?」
「礼儀作法と恩義に対する報酬は別問題だよ」
肩をすくめるようにして鏡がいう。
「それもそうか。ありがとう、助かった」
立ち上がり、礼をして明が答える。
「ふふ、では行くとしようか。パスコードを起動してくれ」
「目の前まで来ていたか。準備がいいことで」
この空間を支配していた黒木を倒したことで、その支配権はデータを自動統合で引き継いだ明のものとなっていた。鏡が足踏みしていたのは、明が起きないことには前に進めなかったためだった。
「私の手柄だ。忘れないでくれたまえ」
パスコードを起動すると何も無かった空間に光り輝くゲートが出現する。ゲートの開閉は、明がコントロールできるので鏡が一緒に通ることも可能となっていた。ぼやけた光の扉をくぐり、二人はついに目的の場所へと向かうのであった。
***
光の中を抜けるとそこには、穏やかな草原の風景が広がっていた。朝日に照らされた木々、古風な洋館。木漏れ日を反射する小ぎれいなテラス。そこに佇み、ピアノを丁度演奏し終えた純白のドレス姿の少女。明と鏡の二人は、その美しさに一瞬自分自身が絵画の世界に入り込んだかのような錯覚を受ける。
「水月、水月なのか」
彼女が目の前にいると言う事実を現実のものとするために小さく言葉を紡ぐ明。駆け出したい、叫びたい、手を取って抱き締めたい。様々な感情が入り乱れて、結局出てきたのは彼女の名前だった。
「やっと、辿り着いた、ここまで」
既に再会を済ませた鏡は、明と違いあくまでも冷静だったがそれでも感慨深いものがあり目尻には涙が浮かんでいた。二人に遅れて水月が気付く。
「明、それに、鏡も。夢じゃないんだね」
目元をこすり、目を凝らす水月の姿。
くりくりとした彼女の瞳が二人を見つめる。
「現実だよ、これは」
「だそうだぞ、水月」
一歩一歩踏みしめるように進む二人。その姿を見ると、堪えきれなくなったように椅子から立ち上がり、水月は二人の下へと駆け出す。
「来て、くれたんだ」
涙ながらに走り出すミズキだが、動きづらい服装で慌てて駆け出したためか、草原で盛大に転んでしまう。
「「水月!」」
明と鏡の声が重なる。
「痛いよ、でも、でも、嬉しくて」
膝を付きその場に座り込む水月。目尻に浮かんだ涙は、痛みの所為ではないとわかっているがそれでも目の前の二人には見せたくなくて目をこする。そんなようすが微笑ましく思える二人は水月に近付き手を差し伸べる。
「急がなくても、私は逃げたりしないから」
「そそっかしいな、水月は」
笑みを浮かべ水月を待つ二人。照れた笑い声を上げて体を起こす水月。そして、差し出された二つの手を取り、彼女は明と鏡の首に手を回して二人を抱き寄せる。驚き戸惑うが明と鏡は二人で水月を支えてやる。
どちらかだけを選んだわけでも、どちらも選ばない訳ではない。
二人とも一緒にいることを選んだ。
それが彼女のした選択だった。
「ありがとう。私の大好きな二人」
そんな彼女の言葉に明と鏡は顔を見合わせ、答えた。
「どういたしまして、かな」
「当然のことをしたまでよ」
「やっぱり、鏡は素直じゃないよ。ふふ」
並んで立つ二人を強く抱き寄せて、微笑を浮かべる水月。
どうしようもなく嬉しくて、嬉し涙だというのは解かっている。
それでも、泣いている顔を見せたくはなかった。
「ねえ、明」
肩越しに語りかけるように水月が話す。
「なんだ、水月」
穏やかな声で答える明。
「これは、お礼だから」
唇と唇が触れ合い、両手で強く引き寄せられる。
「なっ」
突然の行動に驚いた様子の鏡からは、間抜けな声。
当事者の明は唇をふさがれて声が出ない。
「それと、宣戦布告かな」
いたずらっぽい笑みを浮かべて水月が言う。
自分が知らない間に何が起きているかはわからなかったが、直感的にこれが一番正しい対処法だと水月は思った。愛している、なんて言わせないで逆にこちらがお礼だといってしまえばそれまでの話なのだ。そうすれば、自分を助けるという目的とその対象を愛しているという行動原理が否定されるのだ。少なくとも、助けた時点で結ばれるという選択は無くなる。
つまり、三人の関係はあの日の時点にリセットされる。そして、恋敵の存在を知ってしまった以上、正々堂々と戦いたいというのが彼女の本心だった。
呆ける二人に水月は微笑みながら、言葉を放つ。
「明、設定の変更をお願い。戻って、安心したいから」
「ああ、わかった」
一瞬の間を置いて反応した明が即座に設定を変更する。
水月は眼に見えない楔からも、捕われていた関係からも解き放たれた。
「これを使うのも久しぶりだよ。《Return》」
すぐに拡張現実を起動させ、コマンドをシステムに送りつける水月。
「ふふ、先に待っているよ。二人とも」
位相がずれ半透明になりながらミズキが言い、ポリゴンとなって霧散する。初めから最後まで彼女に振り回される形となった二人は、しばし見つめ合い大きな声で笑い合った。
「敵わないな、水月の奴には」
「私の悩みもあんな簡単に解消してくれちゃって」
この半年で成長したと思っていた彼らだったが、まんまと出し抜かれた形だった。
「俺たちも、帰るとするか」
「そうね、夢が覚めないうちに。現実にしましょう」
「これが夢なら、覚めないことを願いたいがな。《Return》」
「それから、君に大事な話がある。詳細は、リアルで話すとしよう。《Return》」
砂時計の砂が流れるように少しずつ、しかし、確実に風景が視界の中で解けてゆく。すぐに振り向いて様子を確認するが、草原もその姿を消していく。崩れ行く草原に、一陣の風が吹く。砂漠を通り抜ける、砂のように何もかもが崩れていく。
風景も自分自身でさえも、全てに平等に破滅が訪れる。あるいは、破壊ではなく創造なのかもしれないが。
そして、それは水月にとっては長い夢の終わりだった。
***
白い服を着た少女は、窓から射す光を目に感じる。
短く整えられていた黒髪は、すっかり長髪になっていて、見下ろす先にみえるのは、少しでも力を入れられればすぐにでも折れてしまいそうな細い腕。半年前とは大分変わってしまっていたが、それが今の水月の姿であった。震えるように手を動かし眠い目をこすり、這うように周囲を見渡す。ぼんやりと映る視界に浮かんでくるのは、簡素な部屋でそこにある全てが無機質だった。
白いベッドから起きようとするが、止めた。彼女の枕元には黄色いひまわりが飾られている。暖かく穏やかな時がゆっくりと流れていくように思えた。だから、今はこの幸せな時間がもう少し続いて欲しいと思う。目を閉じると、布団のぬくもりに意識をうずめていく。
夢見心地。
はっきりとは、していない意識だった。だけどそんなに悪い気分ではなかった。ぼんやりとした視界に、バスケットに詰まれた赤いリンゴが見える。
きっと見舞いの品の一つだろう。
「アップルケーキ、食べたいな」
久しぶりに発せられた言葉は、自分がしゃべったのか、思ったことなのかいまいち判別が付かなかった。そして、半年もの間、何も食べていなかった彼女はいたく空腹であるというのは事実ではあった。
とはいえ、それはあくまでも感覚的な問題であり点滴などの処理により栄養は与えられてはいた。きしむような体を起こし彼女は大好きな友人たちを待つことにした。そう、時間はいくらでも取れるのだ。
そして、ここは病院だ。多少の無理はすぐに治してもらえるだろうという打算が彼女の行動を後押ししていた。
なにより夢のような時間はこれで終わりではなく、これから始まるのだから。
あと少し、と。