1‐4‐4 Opt
外部の騒動から時間が経ち一段落した今、水月は考えていた。
仮想空間上では、腐敗や成長という概念が存在しないために汚れることは無いのだが、毎日同じ服は女としてはいかがなものかと思ってしまう彼女がいた。
「これはこれで、すごく可愛いんだけどね」
月明かりとガス灯のぼんやりとした明りに受ける洋館のテラスには、白いドレスの少女と一人の黒服の男がいた。
少女こと水月は例によって、木製のラウンドテーブルでゆったりと紅茶を口に運ぶ。
「どうなされた、我が女神よ」
「ちょっとね。それから、私はあなたに崇拝されたいとは思っていないよ。できれば、水月って呼んで欲しいんだけど。だめかな?」
「望むとあらば、答えましょう。水月様」
スーツ姿で恭しく礼をしながら黒木が言う。
「水月様っていうのも何か違うんだけど。まあ、いいか」
男こと、黒木智樹がこういう人物であることは、大分前から理解していたのでそれをたしなめることは諦めていた。表面上は、狂っている人物にしか見えないが、アビリティに『共感』によって内面がある程度理解できる彼女には、今の彼をただの狂人と断定することができないでいた。
「なんで、私を殺さなかったの?」
「神を殺すことなど、誰にできましょうか」
水月が、彼の統括するエリアに侵入したあの日。
彼の目には、本当に神が舞い降りたように映っていたのだ。
そのとき既に半狂人であり理性と狂気の狭間で揺れ動いていた彼であったが、彼女の前では幾分理性的でいることができていた。そういう意味でなら、彼女が彼にとっての女神であるというのは間違ってはいなかった。
「今日浸入してきた人たちは、どうなったの?」
少し大きくなった声で水月が質問する。彼女にとって、他のことなど大した意味を持っていなかった。
「撃退しておきましたが、又、来るかもしれません。そのときは、どんな手を使ってでもあなたをお守りいたします。我が女神よ」
自身が原因でここに彼らが来ているとは考えもしないで黒木が言う。そして、そんな彼に死ねなどと水月が言うことができるわけも無い。先程言って、もう彼女のことを女神と呼んでいる彼にどこまで理性が期待できるのだろうか。
それでも、ときたまやってくる海賊連中から守ってもらっているという側面もあるのだ。そして、ここに閉じ込められてこそいるが、彼らに捕まることや殺されることに比べれば、現状は破格の待遇だった。
「できるなら、彼らとは殺し合わないで」
結局、水月の口から出てきたのはそんな言葉だった。
それは、長い間行動を共にしたテロリストと人質が結託する、という心理に近い状況なのかもしれない。いっそ、彼が乱暴に扱ってくれれば恨むこともできたのだろうが、そんな気持ちは沸いてこなかった。
「可能な限り努力はします。しかし、手加減してどうにかできる相手ではないとだけ、言っておきます」
自身を神と言いながら、限界があると吐露している彼は、結局は人間なのだろう。
「結局、あなたは何を望んでいるの?」
それは、水月の心にふと沸いた疑問であった。
「愛ある死でしょうか?」
それだけ言うと黒木はその場から消え去るのだった。
***
これは自分の過去の夢だ。
そうであると明がはっきりと解かるのは水月が彼の隣にいたからだ。夕暮れの校舎の中で制服姿の寝ぼけた彼を揺り起こす声が聞こえる。
「そろそろ、起きてよ。もう、放課後だよ」
学校指定の紺のブレザーと白いミニスカート姿の水月が明を揺り動かす。
「そんな時間か。どうせ起こすならもう少し早くして欲しかったんだが」
「ふふ。寝顔がすごく可愛かったので、ずっと観察させてもらいました」
照れるように笑う水月は小動物を思わせる。明としては、自分の寝顔なんかよりも彼女のしぐさ一つ一つの方が余程可愛らしいと思っていた。
「なんにせよ、起こしてくれてありがとうな。帰るとするか」
「本当に仲がいいな、君たちは」
同じく学校指定のブレザー姿の少女、神代鏡だ。
退屈そう後ろに机に腰掛けていたが、明が起きたのを確認すると机の上に横になっていた黒いカバンを持ち上げる。別段、彼女は視力が悪い訳ではないのだが、掛けているとなんとなく知的に見えるという自論からこのときは眼鏡を掛けていた。
「なんだ鏡もいたのか。律儀に待っているのはいいが、それだと親切なんだか、不親切なんだかわからんぞ」
寝起きの頭を動かしながら伸びをする明。
「なに、新種の生物を観察する課題があってね。親切心とは関係なく、観察しなくてはならなかったのだよ」
机から降りて、大げさに言う彼女はどこか楽しげであった。
「水月に遠慮なんかしないで、起こせばよかったのに。友達思いの奴だな」
多少毒が効いた発言ではあったが、彼女なりの冗談であると理解しているので明としては特に気にはならなかった。
「そういった気遣いだったとしても、言わぬが花と言うものだよ」
「それもそうか。行こうぜ」
「ああ。行くとしよう」
そういって鏡と明は教室を後にする。
「もう、私を置いて行かないでよ」
そして、最後に取り残された水月が白いミニスカートを揺らし追い掛けるというのがいつもの流れだった。
***
「今日は平治がセットじゃないんだな」
ぼんやり歩きつつ明が言った。
「彼の親友である君とは違うからね、いつも一緒にいる訳では無いさ。何でも、結婚するという話らしい。しかも、相手は社長令嬢とのことだ」
これに答えたのは鏡。
「平治君、もてもてだね」
そして、最後に様子をうかがいながら言葉を選ぶのが水月だった。
水月を真ん中に、左右にそれぞれ鏡、明という並びで季節はずれの桜並木を歩く三人。季節になればなかなか見ごたえのある景色なのだが、校門から校舎までの距離がやたら長いので学生からはあまり人気がない場所でもあった。
「相変わらずトゲがある言い方だな、鏡」
「なあに、ただの愛憎表現だ。好きなように受け取ってくれたまえ」
愛情ではなく、愛憎というあたりはむしろ、彼女らしいと言えた。
「鏡は本当に、素直じゃないんだから」
苦笑しながら水月がいう。鏡は素直じゃないというよりは、単に天邪鬼なのかもしれないが純粋な彼女にはそう映っていた。
「愛情ではなく、愛憎っていうあたりが実に鏡らしいよ」
「人間の感情は、愛だけではできていないよ。かわいさ余って憎さが百倍などという格言ができてしまっているくらいだ」
「鏡は、難しく考えすぎているよ。私は、好きなら好きでいいと思うよ」
姉が妹に教えるかのような口調で、水月が鏡に答える。
「逆に、水月は単純すぎると思うぞ。少しは、鏡を見習ってみたらどうだ」
「そんなこと言われても、難しいことはわからないよう」
「明も、あんまりいじめてやるな。かわいそうじゃないか」
「いじめの元凶がそれをいいますか! で、何で俺を待っていたんだ?」
「何、ガーディアンの討伐をしようと思ってね。当然、参加してくれるな?」
「ガーディアン討伐か。腕が鳴るな」
早々と進路を『電脳技術研究所』のに決めて、暇を持て余していた十二月、明としてはこの提案は渡りに船であった。
「緊張する分を差し引いても、格下相手のミッションだ。腕など鳴るわけが無いだろう」
そういう鏡の声も楽しげだ。
三人が通うのは、最新技術を試験的に利用した実験校の宗光学園だった。ここは、仮想における仕官学校的な役割を果たしている電研に対しても多くの人材を輩出している学校であった。
そんな学校に通う彼らとしては、ガーディアン討伐ミッションはちょっとした冒険のつもりであった。セーフティがあるエリアでならば、ゲームとしての『GENESIS』ならば、彼らは既に軍人と大差ない水準に達していた。
もっとも、仮想の軍隊は、現実の軍隊とは異なり寄せ集めの人材が形式的に構成している組織なので、こうした学生やゲームのヘビーユーザーなどに対して実力の逆転現象がしばしば起きていた。仮想の治安維持が目的としているが、実働部隊以外は大した戦力では無く、仕事をしているという事実のみが重要なのであった。
「これが、吊り橋効果」
ぼそりと、水月が何かつぶやくが小さすぎて聞き取れない。
「やっぱり、命懸けは嫌か? 無理強いはしないぞ、水月」
「違う、違うよ。わ、私も参加するよう」
慌てた様子で話す彼女の姿も、いつものことかと受け流す二人。水月は頭が悪い訳ではないのだが、行動が論理的というよりは直感的であるためにいわゆる天然であると認識されていた。
「よし、全員参加だな。決戦は、明日だ」
興奮を隠しきれない様子なのは、明。
「ただの思い出作りよ。決戦なんて大したものではないわ」
落ち着いた様子、でも顔が笑っているのは、鏡。
「みんなが無事に、作戦が成功しますように」
不安を抱えながらも、それ以上の期待を抱いているのが水月。三者三様といった様子で意見を述べ、並木を抜けそれぞれの家路を目指すのであった。
***
「手紙か」
寝ている間にカバンの中に入れられたのであろう手紙を光に透かす。
表にも裏にも、名前は書いていなかった。内容は、よく言えば少し詩的な愛の言葉と呼び出しのメッセージ。かなり意地悪く解釈すれば痛い文章と果たし状。とりあえず、後者の方であると思うことで心が少し軽くなった。
「明日、放課後、待つ、校舎裏で、か」
ポエムを解読して、事実だけ読み取るとそんな内容だった。愛の告白だと考えると胃が痛くなるが、一昔前の不良漫画にあるような呼び出しだと思うとかなり落ち着いた。今時、こんな古風なやり方をしてくる人間は一体どんな姿をしているのだろうと思いを巡らせてみるが答えは出ない。
夢の中のぼやけた思考は、次の断片へと意識を映す。
上の空、という表現が適切な顔で明は授業を受けていた。
一体どこの誰が、何の目的で、あんなものを渡してきたのか。答えの出ない思考の迷宮で永遠と時間だけが過ぎていく。実際には、答えが解かっていてもそれを認めたくないからこそ別の答えを探しているのかもしれないが、手紙を出してきそうな人物に心当たりは無かった。
気が付けば、放課後。
約束の時間が迫っている。
ふらふらとした足取りで、目的地を目指す。
その日一日、そんな調子の彼を仲間は大いに不振がっていた。それでだませたのかは解からないが水月と鏡にはガーディアン討伐が気になって浮ついていると説明してあった。
「PIT全盛の時代に手紙なんて酔狂なことをするやつが、この学園にいたとはね」
手紙の内容としては告白などを期待したいところではあるが、明には自分自身とその状況を結びつけることが出来なかった。そもそも、相手がわからない。何かの罰ゲームに巻き込まれただけという可能性もある。
「何にせよ、確認しないと事実はわからないか」
意味のない自分自身の推論を捨て、腑抜けた顔をたたいて気合を入れる。
そうして辿り着いた目的地である、校舎裏。
そこにいたのは、鏡だった。
「まさか、鏡だったのか?」
「なんのこと? 私はここに用があっただけなのだけど」
落ち着いているとも、照れ隠しとも取れるような言動だった。
「用事、って俺が関ってくる用事じゃないのか?」
(鏡ではない?)
「私は、掃除当番だったからごみを燃やしに来たのだけど。むしろ、君が私に用があったりするわけではないよね?」
校舎裏は、木々が豊かで確かにきれいな場所でもあったが、その一角には焼却炉があり人気が無い場所でもある。そして、鏡の言動が誘導ではないとするのなら。
「ここにいるのはただの偶然だよ。色々とあってね」
緊張が解けて疲れが噴出した明は、手近な木に寄りかかる。
「なら、色々ついでにサボりに付き合ってくれると嬉しい」
そういって、鏡が木に寄りかかる明に近付く。しかし、踏み出した一歩は石にぶつかって明に向かい倒れることになる鏡。明の声を鏡の唇がふさぐ事となり、彼女の体は明にぶつかり事なきを得る。
しばしの沈黙の後、二人は離れるが意図せず向き合うことになり。
声も無く、呆然と見つめあう短い時間。
彼女の黒く澄んだ瞳に、引き込まれそうになる。
「すまない。だが、君にとって幸運な偶然だ」
「お、おう、そうだな」
鏡の悪戯っぽい笑顔の後に、思いきり笑われた。
ぼうっとした明の耳に駆け出すような足音が聞こえる。呆けた意識の中で、何かを追うように走り出す鏡の後ろ姿を見送った。そして、結局その日は手紙の主と明がそこで会うことは無かった。
こちらも微修正。