1‐4‐1 Opt
「くそがっ。最悪の寝覚めだ」
薄暗い『電脳技術研究所』のデスクでうつむいていた顔を上げる明。
胸に付けた銀の十字架を食い込むほど強く握り、その痛みでこれが現実であることを再確認する。仮想に意識を没入させている間は、その本体であるところの肉体は、眠っているような状態になる。
ちょうど、夢から覚めたような状態とでも言うべきだろうか、現実に意識が引き戻されてもしばらくは、肉体と精神が切り離されたような、妙な浮遊感が付きまとう。
「バッドモーニング、明。メシの時間にはまだ早いぜ」
おごってもらえるからだろうか、いつにもまして陽気な声で話す平治。余程嬉しいのだろうか、笑顔を通り越してニヤニヤとした表情を浮かべ、放って置いたらもみ手でもしだしそうな雰囲気だ。
「はあ、平治か。頭を冷やしてくるから少し待っていろ」
ふらふらする体を引きずるように動かし、洗面所まで辿り着く。
まぶしいくらいに明るいライトに映し出された顔は、ずいぶんと対照的で鏡に映る自分の顔は、驚くほどにやつれていた。
当然と言えばそうだろう、ただでさえ命懸けの仮想の探索と言う仕事に加えて、個人的な問題まで絡んできたのだ。
心身に負担が掛からないわけもない。
自動で流れる水の前に手を重ねて水を貯め、顔にぶつける。
「水月、待っていろよ。絶対に助けてやるからな」
それは、何度も繰り返してきた言葉であり、誓いでも決意ですらない。諦めの悪いと言う彼の長所がもたらす呪詛ともいえるそれは、暗示と言う表現が一番近いだろう。水を掛けたくらいで疲れは取れない、しかし、眼光にだけは光が取り戻される。
滴る水を振り払い、明はその場を後にした。
***
「ラーメン屋か、悪くないな」
並んで歩く明の提案を受けて、平治が答えた。
「数回しか使ってないが、味は保障する。しかし、おごってもらうのに偉そうだな」
昼休み、研究所から歓楽街への道すがら、明と平治の昼食のプランはラーメンに決定したようだった。
石畳の街道沿いは、どこか中世の欧風めいた外食店や家具店、ブティックが立ち並び、都市全体が赤や茶色のレンガ造りや木造であり、一定のコンセプトに沿ったデザインで構成されていた。
しかし、外見こそはレトロに作られているがその中身は、新開発された軽量素材や合成金属で作られており、その頑強さたるや、大型トラックが突っ込んでも少しひびが入る程度という代物だ。
「俺の方が偉いから当然だろ、何を血迷っているんだ」
「はあ、血迷っているのは、今だけにしろよ。任務で死んでも、お前の家族の面倒を見る気はないぞ」
「ま、俺が死んでも合成栄養食があれば生きていけるだろう」
「死にはしないだろうが、あれは不味いぞ」
ブロックタイプやゼリータイプの合成栄養食は、確かに栄養価やコストパフォーマンスなどの問題はクリアしているが、味の方は進んで食べたいと言うようなものではないのが現実だった。
「俺は、案外いけたぞ。訓練期間中に食べてみたが、あれは人類を救う救世主だ」
「まあ、安い、安定供給可能、栄養価が高くバランスもいい理想的な食材ではあるよ。
個人的には、質の悪いサプリメントや固形栄養食と同類だと思うが」
「現実的な問題として、食糧難の解決策はあれしかないだろ。実際、最下層の人間はあれで食いつないでいるんだから」
世界的な人口の増加に伴う食糧難は、食料プラントが製造されたことで少しずつだが沈静化しつつあった。宗教による対立やらは相変わらずであるが、とりあえず食べ物を与えておけば、それ以外の問題は棚上げにできた。
「ま、俺たちにはあまり縁のない話だよ。命賭けの仕事の報酬で金だけはあるしな」
「俺は、スラムとブルジョアの綱渡りだけどな。社長令嬢とくっついたはずが、会社が倒産して転落人生だからな」
「そういや、そうだったな。着いたぜ平治。メニューは第二視点で確認してくれ、注文は俺の方でまとめてする」
第二視点は、通話機能等と同じ拡張現実の一種で、現実に対して一種のフィルターを掛けてみることができるといったものだ。基本的には、飛び出す絵本の世界に入り込んだような状態になる。
「なんだ、この街自体のデザインコンセプトを完璧に否定した外観は! 時代を逆行し過ぎているだろ。おごりが嫌なあてつけか、あてつけなのか?」
「まあ、落ち着け。確かにデザインは、廃墟みたいだが中身はむしろ新しい。メニューも不安ならお前が選べ」
歓楽街の外れの一角に、その店はあった。
薄汚れたのれんをくぐり、先に入った明が平治を手招きする。
「お前と同じのでいいよ。調子に乗ると、すごいのが出てきそうだ」
恐る恐る、といった様子で平治が後から入店する。
「馬鹿、確かに店の見た目はあれだが、味は本当にいいんだよ。入り口は、幽霊屋敷のようだが、中はむしろ最新鋭だ。それと、外見に関しては店長の趣味らしいぞ」
「イヤミな趣味だな。と、とにかく、行くとしますか」
「第二視点は席についてから起動しろよ。広告に埋め尽くされて身動きができなくなるからな」
「お、おう、わかった」
動けなくなる、とまで言われて動揺を隠せない様子で平治が応えた。
白い調理服を着た初老の店長のいるカウンターの前をすり抜け、二人は奥の二人がけの席に座る。そこで二人は拡張現実を起動してメニューを確認する。平治は、目の前に飛び込んでくる広告を含めた情報量の多さにその場で慌てふためく。
そんな様子を見て、明は苦笑しつつもメニューを呼び出す。
「しかし、人口増加でスペースの有効利用が叫ばれる現代でも、この情報量は異常だろ。供給過多で逆に旧世代の人間に共感持ててしまうくらいだ」
「座るまで起動するなって言った意味がわかっただろ。まあ、広告がありえないくらい入っているのさえ気にしなければ、メニュー自体は商品映像を立体視できるしレビューやコメントが併記されているから見やすいよ。店長さん、どうやら電研の出身者らしいし」
二人の視界に映るのは、室内を旧時代のネオン広告のように流れて動き回る広告の群れとテーブル上にあるメニューから立体的に投影された商品の数々だった。その広告の派手な色合いと動きはどこか水族館の熱帯魚を彷彿させる。
「おかげで、外と中とのギャップが楽しめたよ。確かにどれも美味そうだ」
「俺と同じのでいいんだったな、じゃあ、とんこつラーメンを二つと」
網膜に投影されるメニューの端にある数量選択のボタンで二つを選び、会計を事前に済ませて第二視点を停止させる。すると視界にはごく普通の木造の料理店といった景色が広がっていた。
「さびれた外観に対してハイテク過ぎるぞ。下手な高級店より進んでいる」
「普通の高級店は、PITを使った技術なんて毛嫌いする連中もいるからな。客にも運営側にもさ」
そういいながら明はテーブルの端に置かれた二つのコップに水を注ぎ、その内の一つを平治に渡す。
「おっと悪いな。で、今日のヤマで何かあったのか?」
真剣な表情で、平治が明に問う。
「はあ、水月の手掛かりが目の前で逃げて行ったよ」
「なんというか、そいつは辛いな。お前は、そのためにここに入ったんだからな」
事情をよく知っているからだろう、平治は苦々しげに言葉を紡ぐ。
「お前だって、俺が心配で電研に付いてきたんだろ。付き合わせて悪かったな」
「だから俺は、家族のために電研に、いやまあ、そういう要素もあるよ」
穏やかな表情で見つめる明に目を伏せがちに平治がうなずく。
実際、半年前の明は自分が思う以上に思いつめていた。平治の場合は、生活のためと言う理由も確かにあったが、自分の友人が無茶をしないように隣で様子を見ていたいという理由もあった。
「まあ、水月がすぐに殺されることはないと思う。準備ができ次第、殺されない限りは何度でもケルビムに再戦を挑むつもりだ」
「俺もい」
一緒に、と言う前に明が言葉を重ねる。
「無理するな。それに、鏡もいるから」
「そうか。鏡もいるのか。あいつも難儀だよな」
平治は、左手の薬指にはめられた指輪型のPITを眺めながら嘆息するように言う。
「難しい性格ではあるが、今は心強い仲間だよ」
「まあ、色々と同情するよ。しかし、修羅場だな」
呆れるような、同情するような顔で平治が苦笑いを浮かべる。
「戦場だからな。と、来たみたいだ」
「ヘイ、お待ち」
店主の威勢のいい声と共に、二人の前にどんぶりが置かれる。
光を受けて黄金色に輝くスープと味がよく絡む細めの麺、ほのかに甘く鼻腔を刺激する香料の香り、熱々の湯気と伝わる熱。それら全てが彼らの食欲を刺激する。
「普通に美味そうだな、明」
「味は食ってから言うものだろ。まあ、喰ってみな」
店長が作ったものであるが、なんとなく得意げな明。美味いものというものは、自分で食べるのも、誰かに勧めるも気分がよいものなのかもしれない。
「そうだな。頂きます、と」
「頂きます」
二人は手を合わせ、目の前の料理にはしを運ぶ。
恐る恐る、といったようすで食べる平治の姿は、少しずつ、ずるずると音を立てるようになり、かき込むように変わる。そして、惜しむようにこしのある麺をゆっくりと味わいながらすすり、最後にはスープの一滴も残らない。
「めちゃくちゃ美味いぞ、どうしてくれる」
思わず、立ち上がりそうな勢いで平治が絶賛する。よほど感動したのか、口元を拭うことすら忘れているようだ。
「又、来ればいいんじゃないのか。ま、気に入ってくれたなら何よりだ」
少し遅れて食べ終えた明が、口元を紙ナプキンで拭いながら答える。
「むしろ、こんな美味いものを今まで一人で食べていたお前を糾弾したいね」
「俺だって最近知ったんだよ。まだ、数回しか来たことないし」
「これからは毎日……は、無理だとしても通うことにするよ。さて、帰るとするか」
毎日通う、と言いかけて自分の財布事情を思い出した平治は内容を修正する。そんな彼の姿に明は、笑顔を浮かべる。
「そうだ。まだ、終わっていない。何一つとして」
店を出るときにはもう、明の顔から笑顔は消えていた。
まだ、続きます。