楽屋での出来事
2人の足元だけ時間を堰き止めたかのような、長い長いハグ。
それは健人にかけた心配の度合いなのだと、胸が痛んだ。
「遅くなって…ごめん。」
ポツリと詫びた途端、悲しくなった。
どうして私は、ずっとこの人のそばにいないのだろう、と。
夢のかけらを掴んで歩き出す日。
今朝はお赤飯を炊いて、祝ってあげたかったな…。
「健人くんなら大丈夫!きっとすべてがうまくいくよ。」
そう笑顔で送り出したかった。
精一杯おめかしして、花束抱えてドキドキしながら列に並んで、
カメラ片手に楽屋を訪ねて…。
容易に浮かんでくる場面のすべてが、もはや取り返しのつかない後悔の裏側にあると知った時、
空気を読まない涙がしゃしゃり出て雪見を慌てさせた。
『ダメっ‼︎ 泣くな、雪見っ!
ここに来たのは、泣き顔を見せるためじゃないでしょっ!』
出かかった涙を引っ込めるのは至難の技。
きつく抱かれた腕の中では、天井を見上げることもままならず。
かと言って、甘えるフリしてロミオの衣装で拭う、なんてこともあってはならない。
どうしよう…と手立てを探し、モゾモゾしてた時だった。
スッと手が解かれたかと思うと、目の前15㎝に突如健人の顔が、どアップに!
すべてを見透かす大きな瞳が、こっちをジィーッと見てる。
『ヤバッ!泣きそうなのがバレちゃう。』
咄嗟にうつむき視線を外したのだが、次の瞬間…
バチッ☆☆
「い、痛ったぁぁあーー!! なんでぇえ?!」
なんと、無防備なおでこ目がけて、強烈なデコピンが飛んで来たではないか!
キス以外の場面を想定してなかったギャラリーが「Oh!my God!」と叫んだとしても仕方ない。
「遅れて来たバツ!間に合わないかと思っただろーが。
ハラハラさせんな、ったく。」
「ごめーん…。」
アイタタ…とおでこをさすりつつ、怖い顔で腕組みしてる人を恨めしげに見る。
頬には、ギュッと目をつむったはずみに、不本意にも押し出されてしまった涙が一粒。
「しょーがねぇな…。」
健人は、わざと溜め息混じりにそう言うと、雪見のほっぺたをぷにっとつまみ、
さりげなく涙を拭ってやった。
もちろん、最初から怒ってなどいない。
雪見が何に泣きそうだったのかも、ほんとの理由はわからない。
だけど彼女が何かに心を痛めてるのなら、早くそこから救ってやりたかった。
自分が涙の理由に、置き換わってやろうと思った。
……にしても、少々力加減を間違えたかな?
薄ら赤くなってるおでこを、健人は苦笑いしながら「よしよし。」と撫でてやる。
「許してくれる?」
撫でてる手の隙間から、上目遣いに伺う雪見が見えて笑いをこらえた。
そんな顔するから、もうちょっとだけイジワルしたくなる。
「どーすっかな。んー、なんか無性にカレーが食べたくなったな。
明日の朝ご飯、ゆき姉特製カレーにしてくれたら許してもいっかな?
けどあれって、二日煮込まなきゃ出ない味なんだよね?さすがに無理か…。」
雪見のカレーは、食べた人みんなが口を揃えて絶賛するほどの、
手間暇かけてじっくり煮込んだ本格カレー。
翔平や当麻に至っては『出資するからレストラン開こう!絶対儲かる!』と言い出し
雪見に叱られたこともある、健人自慢の味でもあった。
「ほんとにっ⁈ ほんとにそれで許してくれる?
ムリじゃない!作る作るっ‼︎ 」
半分冗談で言ってみたのに、両腕をガシッとつかみ目をキラキラさせ、
聞いてくる雪見がおかしいやら可愛いやら。
愛しさで心が満タンになると、あらあら不思議。
それまで、どうあがいても追い出しきれなかった不安や緊張が、そそくさと尻尾を巻いて退散。
早く舞台に立ちたくて、早く雪見に観てもらいたくてワクワクし出した。
そんな自分がおかしくて、健人はフフッと小さく笑った。
『やっぱ、ゆき姉は最強だわ。てか、案外オレって単純。』
キョトンと見上げた雪見は猫みたいで、クシュクシュッと頭を撫でてやった。
最高の朝カレーに何とかありつこうと、優とホンギが雪見を最大限に褒め称えてる。
その傍らで健人は、華やかな衣装をまとった女子軍団の抗議に、笑って反論してた。
「ちょっとケント!なんなのよ、あれは!フツーはキスでしょ?キスッ!」
「あんたロミオでしょ?やっと会えた彼女にキスもしないって、どーゆーことよ。」
「キスキス、うっせーよ(笑)あれが俺の愛情表現なのっ!」
教室中がワイワイガヤガヤ。
本番前の緊張感さえ楽しんでる様子。
さすが研究生クラスね、と楽屋を覗いた校長先生も笑顔だった。
ところが…。
「なんなの?この騒ぎ!もうすぐ本番だっていうのに。
…あら。どうやら野良猫が1匹、まぎれこんでるようね。」
突然入って来た二人に、教室は一瞬で静まり返った。
可憐な純白のドレスとは相反する険しい顔のローラと、その後ろには、父であり大俳優であり
学園の新理事長でもあるロジャーが立っていたからだ。