ごめんなさいの仲直り
四十九日と納骨が済んでから六日ほど。
実家から母の気配が完全に消え去り、雪見はその寂しさを紛らわすように
写真の仕事に没頭する日々が続いてた。
ちょうど陽が落ち、カーテンを閉めて明かりを付ける頃。
「ゆーきねっ♪また来ちゃった。」
ドーナツの箱を手にしたつぐみがスタジオのドアを開け、ヒョコッと顔を出した。
最近、しょっちゅう空き時間や帰り道に立ち寄っては他愛もないお喋りをし、スッと帰る。
雪見が他の仕事でスタジオに居ない時でも、何故か秋人と喋って帰るようだ。
「あ、お帰りー。やった!私の大好きなドーナツ♪
ちょうどお腹が鳴ったとこだったの。ありがと!今、コーヒー入れるねっ。」
「あれっ?シュートさん…は?」
「 秋人くん?あぁ、今日はもう一段落着いたから、さっき早上がりしてもらったの。
ここんとこ、ずーっと忙しくてお休みあげられないから。
…あ。もしかして…ガッカリしてる?」
なんとなくそんな気がして、ニヤニヤ顔を覗き込んだら、正直に赤面したつぐみが
必要以上に大きな声で反論した。
「なっ、なんでガッカリしなきゃなんないの?
ただ、シュートさんの好きなシナモンロール買って来たから聞いただけっ!」
「へぇ〜。秋人くんってシナモンロールが好きなんだ。
ぜーんぜん知らなかったなー。ねぇ、どんな流れでそんな話になったの?
もしかして…秋人くんみたいな人がタイプ?いいよいいよ、応援するよ♪」
「ちーがーうっ!!」
ぷくぅーと膨らませた頬が可愛くて、「ごめんごめん!」と笑いながら
両手で優しくほっぺを包んだ。
わかってるよ。私のこと、心配して来てくれてるんだよね?
少しでもリラックス出来るように、そばにいてくれるんだよね。
ありがとう。やっぱりあなたは健人くんの、そして私の可愛い妹です。
雪見はコーヒー片手にお喋りしながら、残りの仕事をサクサク片付けていく。
忙しさは相変わらずだが、つぐみがここに顔を出すようになってから、
精神的にも体調的にも元の自分を取り戻しつつある。
まぁ一番の原動力は、あと5日で愛する人の元へ飛んで行けるということに尽きるのだが。
早く会って、この前のことをちゃんと詫びたい。
ご馳走たくさん作って、ハリウッドデビューを心からお祝いしたい。
とっておきのワインを開けて、一緒にお風呂も…入っちゃう?キャッ☆
顔がニヤけそうになり、慌ててコーヒーカップで覆い隠す。
と、つぐみがドーナツを頬張りながら、急にドキリとすることを言った。
「ねーねー。お兄ちゃん、もうすぐ留学終わって帰ってくるんだよね?
そしたらこっちでも結婚式するんでしょ?
まさか、婚姻届出しておしまい!とか言わないでよね。
私、結婚式に着ていくドレス、もう買っちゃったんだから。」
健人は、まだ家族には話してないらしい。
ハリウッドデビューが決まり、引き続き映画の撮影に入るということを。
だが、ドキリとしたのはそこじゃない。
『婚姻届』という言葉にだった。
寝室の引き出しに眠ったままの婚姻届。
本当はNYへ持っていき、二人だけの挙式で神父様に永遠の愛を誓い、
その場で署名捺印するはずだったのに、健人が結婚指輪と共に忘れて行った婚姻届。
そこには本人よりも先に証人二人の署名がしてあって、一人は健人の母、
そしてもう一人は…すでにこの世にいない雪見の母。
つまりその婚姻届は、提出前に証人死亡のため記載に不備があるとみなされ、
届け出ても受理されない、という事。
そんな恐ろしい事実を白状する日が、とりあえず先送りされたことを、
心のどこかがホッとしている。
「うーん、健人くんねぇ…。残念ながら、まだ帰って来れないの。
だから…結婚式は未定だな。ゴメンねっ。」
「えーっ!嘘でしょ!?どうしてっ?どうして帰って来れないの?
お兄ちゃんとゆき姉…いつまで離ればなれでいるの…?
やっと…一緒になれると思ったのに…。」
えっ?と思った時には遅かった。
健人によく似た大きな瞳が潤んだかと思うと、瞳に比例した大粒の涙がポロリとこぼれた。
「…え?ちょっ、ちょっと!つぐみちゃん?
どーしたのっ?なんで泣くの。
やだぁー!どーしちゃったっていうのぉ?」
雪見はオロオロしながらつぐみを抱き締め、よしよしと頭を優しく撫でた。
いつも健人が、そうしてくれるように。
「だって…。」
そう言ったきり、つぐみは口を閉じた。
わかってる。わかってるよ、ありがとう。
私達のこと、心配してくれてるんだよね?
大丈夫。離れてたって大丈夫だから…。
雪見は自分にもその言葉を言い聞かせた。
大丈夫、大丈夫…と。
「うーん、じゃあ…健人くんに直接聞いてみて。なんで帰って来れないのか。
あ、今ちょうど起きる頃だ。つぐみちゃんのモーニングコール、きっとビックリするよ。」
雪見がいきなり兄に電話し出したので、今度はつぐみが慌てた。
「ダメダメっ!お兄ちゃんの寝起き、最悪だもんっ。
電話なんかしたら、怒られるに決まってる!」
「大丈夫だよ(笑)じゃあ、最初は私が出てあげるから。」
実のところ、自分もドキドキしながら電話した。
あれ以来、やっぱりどこか気まずい。
健人の仕事相手に対して、あんな反応をしてしまったのだ。
呆れられても、がっかりされても仕方ないと思ってる。
だが健人は、いつもと変わらぬ優しい声をしてた。
「…あ、健人くん?おはよ。まだ…寝てた?もう起きる時間だよ。」
『……ゆき…姉?うーん…おはよ。あれ?仕事…じゃないの?』
「今日は一日中カメラマンの日。ずっとスタジオで仕事してるの。
で、久々にモーニングコールしてみた。
あ、ちょっと待ってね。今お客様が来てるんだよ。
健人くんが日本に帰ってくるのを楽しみにしてた人。
まだ帰ってこれないって言ったら凹んじゃって(笑)
だから帰国が延びた訳を、直接話してあげて欲しいんだ。」
「ちょっ、ゆき姉っ!凹んでなんかないからっ!」
兄には、どうしても素直になれないらしい。
きっと世界の斉藤健人になったとしても、それは変わらないのだろう。
『…誰?つぐみ?つぐみが来てんの?あいつ、ちゃんと勉強してんのかな。』
「大丈夫だよ。この前も、ここで難しそうな宿題やってたし。
ほんとはまだ言っちゃダメ…なんだよね?
でも本当に凄いことだから…。
家族にとって、こんな嬉しい知らせは無いと思うから…。
それと……。この前は…ごめんなさい。」
『…えっ?』
突然雪見に謝られ、健人は戸惑った。
自分の方こそ、いきなり報告したのを申し訳なく思ってたのに。
『俺も…謝ろうと思ってた。
こんな話が来てるってこと、ゆき姉にずっと黙ってたから…。
でも…これからも、こういう形でしか伝えられないと思うんだ。
どうか、わかって欲しい。』
きっと心苦しい日々が続いてたのだろう。
そんなこと、ちっとも謝る必要なんてないのに。
あなたを心から誇りに思うのに。
「ううん。健人くんが謝る理由なんてどこにもないよ。
仕事の出来る男は公私混同なんてしない。
この先も、私のことなんか気にしちゃダメだよ。
絶対凄い映画にしてね。楽しみにしてる。
健人くんが帰ってくるまで、私も仕事頑張るから。
もっともっと努力して、世界の斉藤健人に相応しい人になるから…。」
『うん。じゃあ俺も負けない。』
遙か一万一千㎞を飛び越え、魂だけはしっかりと抱き合った気がした。
あと5日で本当に抱き合える。
早く、早く会いたい…。
「ねぇ。世界の斉藤健人って…何のこと?」
「…え?」
すっかり忘れてた。
つぐみのために電話したことを。
兄から直接聞いた嬉しい知らせに、勿論つぐみの絶叫がこだました。
さぁ、今日は早く帰って荷造りしよう。
発表会が無事成功するよう、母がくれたお守りをトランクに忍ばせて…。