再び歩き出すために
翔平の出て行った病室に、夜の静寂が舞い戻る。
どうやら左手の点滴には、まだまだ続きがありそうだ。
こんな所で寝てる場合じゃないけれど、囚われの身とあっては致し方ない。
潔く諦めて、長い夜をやり過ごそう。
でも…。
やっぱり今夜も眠れそうにないや…。
身も心もクタクタなはずなのに、眠ろうとするといつも昼間の出来事を反すうしてしまう。
あのトークはあれで良かったのか。
あのドレスは綺麗に着こなせてたのか。
緊張し過ぎて記憶に無いが、ランウェイは上手く歩けてたのだろうか…。
何一つ自信を持てず、良いのか悪いのかさえ判らず、地に足の着かない
無重力状態にある自分を、この先どうコントロールすればよいのか。
行き先の見えない旅に出てしまったことを、今やっと後悔し始めた。
健人くんに…会いたいな。
……え?………そーいえば…私のケータイっ!!
どこーっ?どこどこっ!?
急に起きあがったもんだから頭がクラクラした。
だがそれどころじゃない。ホテル入りしてからケータイを開いてない。
もし健人からメールが来てたら、返信しないと心配するではないか!
えーっ!私のバッグ、まさかホテルの控え室に置きっぱ!?
どーしよぉぉー! ……あ、あったぁぁぁぁ!!
翔平が置いた花かごの下のロッカーに、バッグは入ってた。
左手は使えないので右手一本でバッグをまさぐり、やっとケータイを探し当てる。
部屋は綺麗に出来るのに、ナゼかバッグの中はすぐにグチャグチャ。
『そこは健人くんと似てるんだよなぁ♪』と、幸せを感じてる自分がおめでたい。
ベッドに腰掛け急いでケータイを開く。
片手でのケータイ操作が苦手で右手親指がつりそうになるが、健人から
たくさんの着信と留守電、つぐみからも二件のメールが入っててビックリ!
とっさに健人に何かあったんだ!と思った。
今、何時っ?いや、時間なんて関係ない!
今すぐ電話しなくちゃ!!
雪見は留守電も聞かず、つぐみからのメールも開かずに、ドキドキしながら
健人に電話を入れた。
国際電話のもどかしいこと。
とにかく一刻も早く声が聞きたい。早く…出てっ!
呼び出し音を聞きながら、ふと時計に目をやると11時半。
向こうはまだ10時半か…。稽古の時間だ… 。
ハッと我に返り、慌てて電話を切る。
落ち着いてよく考えよう。落ち着いて…。
もし健人くんに何かあったら、今野さんにも連絡が入るはず。
今野さんが何も言わないんだから…大丈夫、大丈夫。
そうだ、まずは留守電を聞かなくちゃ。
NY時間の朝5時半過ぎから12件もの着信。13件目の留守電メッセージ。
それはどう考えても尋常ではなかった。
胸が苦しくなるほど鼓動が早まり、恐る恐る再生ボタンを押して第一声を待ち構える。
と、いつもと変わらぬ健人の柔らかな声が…。
『……もしもし。ゆき姉?
元気…かな。
いや、元気だとは思うけど…
ちょっと声が聞きたくなって。
………。
なんか早くに目、覚めちゃったから
電話してみたんだけど…。
仕事中…だよね。ごめん。
うん…また電話するわ。
………。
仕事頑張れよ。
あんま無理しないで。
なんかあったら…いつでも相談乗るから。
じゃあ…ね。』
『じゃあ…ね。』の後にまだ何か重大な話が続くかもと、しばらく耳をそばだてる。
だがメッセージの再生はそこで終了。
健人くんに何かが起きた訳じゃなかった…。
よかった……。
そう思った瞬間、ポトポトポトと涙が滴り病衣を濡らす。
それだけで泣くに充分な理由だったが、安堵した後には健人の優しさが心に居座り
更に涙に拍車を掛けた。
翔ちゃんが言ってた通りだ…。
いつもと変わんない声だったけど、私のこと心配してる…。
ごめんね……。
言葉を選びながら、心配にはやる心を隠しながら吹き込んだであろう声を、
何度も何度も再生しては涙する。
うん。今夜はとことん泣いてやろう。
明日からは笑顔で頑張れるように。
離れていても健人くんが安心していられるように…。
泣きつかれたその夜は、久しぶりに朝まで熟睡できた。
目は腫れぼったくて重たいが、心の重しは相当軽くなってる。
朝6時の検温と血圧測定にやって来た看護師が、残り少ない点滴液を指差して、
「これが終わったらもういいですよ。」とにっこり微笑み出て行った。
さぁ、また新しい朝が始まった。今日も明日も仕事は詰まってる。
次に健人くんに会う時は、少しは自信をお土産に持って帰れるかな…。
点滴が外れ自由の身になり、着替えて病室を後にする。
キャップを目深にかぶり、うつむいて足早に通り過ぎた大病院の一階ロビーは、
受付開始を待つ多くの患者ですでにざわついてた。
母さんが入院してた病院の朝も、こんなんだったな…。
つい最近まで目にしてた光景が蘇り辛くなる。
でもそれらは遙か昔の出来事のようにも思え、ならばいっそ健人が知らないという事実も
遙か彼方に紛れて欲しいと心から願う。
しばらくすると、会計を済ませた今野が車に戻って来た。
エンジンをかけながら言ったセリフに驚き、雪見は喜びの悲鳴を上げる。
「よしっ!じゃあ…元気の出る朝飯でも食いに行っか。
道案内してくれよ。『秘密の猫かふぇ』とやらに。」
雪見の周りには、いつも愛が咲き乱れてる 。
そのすべては、健人が蒔いた優しさのこぼれ種に違いない。