優しさの置き土産
今朝、二人笑いながら歩いて来た道を、今は一人、胸の痛みに耐えながら歩いてる。
地下鉄駅までのわずかな道のりが、果てしなく思えるほど雪見の足取りは重かった。
しばらく見ぬフリして放り投げてたものを、健人が拾って目の前に差し出した。
『母が死んだ』という事実を、ではない。
『健人が母の死をまだ知らない』という現実をである。
耳の奥に住み着いた「お母さんによろしくね。」という優しくも恐ろしい声。
それらは何かで無理矢理掻き出さなければ、消えてくれそうもなかった。
ふぅぅ…。よしっ。急いで帰ろう。
追いかけてくるものを振り切るように、速度を上げて歩き出した雪見は
地下鉄に飛び乗り、アパートメントへと戻ってきた。
すぐにめめとラッキーがやって来て、甘えるように足元に絡みつく。
犬や猫は、自分が置いて行かれる状況を感じ取ることが出来るのだ。
「ごめんね。遊んであげたいけど時間が無いの。
急いでお仕事して空港行かなくちゃ。おやつあげるからおいで。」
猫用のおやつを少量与えてから、まずはキッチンに駆け込む。
忙しい店のシェフ並みのスピードで肉や野菜を切り、鍋に放り込んで火にかけると
今度はバタバタとリビングへ戻りパソコンを開いた。
そこからは真剣勝負。
先程撮した写真すべてに目を通し、編集して即席のグラビアページを作る。
合間に鍋の仕上げもしてタイムリミットギリギリまで作業を続け、何とか2ヶ所に送信完了!
「はぁぁ、間に合った…。」
しばし放心状態で天井を見上げる。
『私がしてあげられる事はこんなことぐらい。けど少しでも役に立てたらいいな。
あとはホンギくんが頑張るんだよ。絶対勝ち取ってね…。』
まだ稽古中であろうホンギに、強く念を送る。
その頃には波打ってた心も落ち着き、楽になってる事に気付いた。
『やっぱり写真の仕事が私の天職だなぁ。撮される方じゃなくて撮す方だけどね。』
世界ブランドのモデルとして撮される側に回ったばかりなのに、今更そんなことを
再確認してる自分に苦笑い。
が、ふと壁の時計を見て大慌てした。
「ヤバっ!もうこんな時間!?急がなくちゃ!!」
全速力でダイニングテーブルにシチュー皿とスプーン、ワイングラスを並べ、
パンを乗せた皿にはラップを掛ける。
散らかった物を手早く片付け火の元を確認し、猫の頭を再び撫で、トランクを持って
慌ただしく玄関を飛び出した。
バイバイ、またね。
部屋に心を残したまま、エレベーターで一階へ。
『もっと、ご馳走作っておいてあげたかったな…。
バタバタ出て来ちゃったから、なんか忘れ物してる気がする。
…あ!お風呂の用意してこなかったぁ!
はぁぁ…。本当に今日帰らないと…ダメ?
明日の一便で帰っちゃ…ダメなんだよね、やっぱり。はぁぁ…。』
溜め息をつきながらエレベーターを降りる。
と、そこには、空港で落ち合うはずの今野が待ち構えてるではないか。
「もう待ちぼうけはご免だからな。」
「今野さんっ!」
ほんの数秒前に考えたことが読まれたと思いビックリ!
「なに慌ててんだ?まさか…本当に俺を巻くつもりだったんじゃねーよな?
荷物はこれだけか?よしっ、じゃあ帰るぞ。日本でみんなが待ってる。」
「みんな…ですか。」
トランクを持って歩き出した今野の背中に、雪見が聞き返す。
その瞳はきっと少し悲しげだったのだろう。
だからこそ今野は雪見の目を見据え、強い口調で念押ししたのだ。
「そう。みんなだ。」と…。
今野はいつも、すべてをお見通し。
健人に対する雪見の思いも、健人を見てきて知ってる歯車の中心であることの
責任や重圧も。
そのすべてをわかった上で、あえて淡々と『お前も歯車の中心になったんだ。
自覚しろ。』と無言で諭し背中を押す。
そうだった…。
今野さんは私のために、役職を蹴ってまで現場復帰してくれたんだ。
今野さんだけじゃない。他にも多くの人達が、私なんかのために動いてくれてる。
やるしかない…。逃げるわけにはいかないんだ。
関わるみんなが恥ずかしくない仕事をしなきゃ。
全力で力を貸してくれる人達に、全力で答えなきゃ…。
健人くんが誇れる人になりたい。
自信を持てる自分になりたい。
がむしゃらに仕事したら…少しは不安が遠のいてくれるかな…。
忙しく仕事することで現実逃避しようとしてる自分を、もう一人の自分が
醒めた目で眺めてた。
相変わらず雑多な人種で混みあうケネディ国際空港。
すべての手続きを済ませ、後は搭乗案内を待つばかり。
ホッとして椅子に腰掛けたら大事な事を思い出した。
そうだっ!健人くんにメールしなくっちゃ!
その頃、アカデミーでは通し稽古が早めに終わり、それぞれがストレッチしたり
談笑したりして一日の疲れをほぐしてる最中だった。
と、そこへ事務員さんがやって来て、何やら先生に手渡しながら二言三言。
「まぁ!なんて素敵なプレゼントなの!
すぐユキミに、お礼のメールを入れといてくれる?お願いね。」
ユキミという名前が耳に飛び込んで、健人とホンギは顔を見合わせた。
一体なんだろ?
「みんなー!ちょっと聞いて。ユキミから素敵なプレゼントが届いたわよ。
さっき撮した写真を、彼女がメールで送ってくれたの。
それを焼いたら、素晴らしい写真集が出来上がったわ。
ここに置いておくから、みんなで見てちょうだい。」
ワォ♪という歓声が上がり、写真集を置いたテーブル周りに人垣が出来た。
みんなが自分の写真を見つけてはキャーキャー言ってる。
その興奮度合いからも、写真がいかに素晴らしいものかが良くわかる。
健人も早く見てみたかったが、人の間に割って入るようなことは得意じゃない。
みんなが見終わるのを後ろでジッと待ってるつもりだった。
が…。
「ちょっとぉ!まずはケントに見せてやってよー!」
ホンギがいきなり健人の腕をガシッと掴む。
「いいんだって!」と言う健人の声も無視して、写真集の真ん前まで連れて行かれた。
「ゴメンゴメン!ケントも早く見てみろよ。ユキミ、凄い写真を撮ってくれてたよ!」
「私、ハリウッド一の女優に見えるぅ~♪」
「この写真、引き伸ばして飾っておきたーい!」
「今年のパンフ、もうこれでいいんじゃない?てゆーか、これがいい!」
「賛成!賛成!!」
みんなが大騒ぎしてる中、健人もそっとページを開いてみる。
途端、目に飛び込んできた自分の写真に心奪われた。
「これ…って…。」
自分の写真だけではない。
ほんの一瞬を切り取ったに過ぎないのに、どの写真からもキャスト一人一人の
魅力と情熱がほとばしり、見てるだけで胸が高鳴る。
と同時にカメラマンとしての高い才能を改めて思い知らされ、何故だか涙がポロッと落ちた。
嬉しさの成分だけではない、複雑な成分で出来てる涙が。
気付かれないよう指先で頬を拭ってると、隣りでホンギが鼻をすすり出した。
「ケントぉ…。俺って、こんななんだね。めちゃくちゃ嬉しいや…。
みんなもスゲェ役者に見えるじゃねーか、こんちくしょう!」
そう言いながら、ついにオイオイ泣き出したので健人もみんなも慌てた。
だが誰もがホンギと同じ思いでいる。
「そうだな…。俺らはもっと自信持っていいのかも知れない…。
よしっ!本番までに更に進化しようぜ!みんなでハリウッドデビューするぞー!!」
「OK!」
盛り上がってるところへ、再び先生がやって来た。
「ケントにお願いがあるの。
今年のパンフレットにこの写真を使えるよう 、ユキミに頼んでもらえないかしら。
あ、もちろんアカデミーから正式な仕事の依頼よ。」
ヤッター!とみんながはしゃいでる。
と、そこへ健人のケータイをブルルと鳴らす者がいた。
グッドタイミング♪ ゆき姉だっ!