思い出した恐怖
衣装を着ての初めての通し稽古は、みんなの沸き立つ気持ちと心地良い緊張感、
真剣な眼差しの中で行われた。
舞台上の健人、ホンギ、ローラも、客席側からカメラを構える雪見も、
すでに先程の揉め事など頭の片隅にもない。
それぞれが真剣勝負に挑むプロの顔つきで、ひとつの世界に入り込んでた。
さすが名門と呼ばれる所の研究生クラス。
すでにハリウッドで活躍するスター達のように、皆が光り輝いてる。
その中でもひときわ輝く別格の星。それが健人と…ローラだった。
主役に成るべくしてなった二人と雪見は思う。周りとはオーラがまるで違うのだ。
『健人くんのロミオ、メッチャ可愛いっ!それにセリフが胸にキュンキュンくるよ。
いつの間に、こんなネイティブな英語が話せるようになったの?
ちゃーんと心に響いてくる。大丈夫だね。これなら大丈夫…。』
久々に夢中になってシャッターを切り続ける。
健人は勿論のこと、キャスト一人一人の一番輝く瞬間を逃さずに。
撮しながら、このアカデミーに来た初日の健人を思い出してた。
英会話に自信が無くて、私を不安げに見ながら事務員さんと話してたっけ。
終わったあと「良く出来ました♪」って褒めてあげたら、健人くん子供みたいに
廊下を飛び跳ねてはしゃいで…。
ロミオに選ばれてからも、英語でのお芝居に感情を上手く乗せられるのか、
ずっと心配してたんだよね。
それが今はこんなに堂々と、自信に満ち溢れた瞳で…。
そう思うとこみ上げてくるものがあり、ファインダー越しの健人が徐々にぼやける。
ぼやけた健人はなぜかとても遠くに見えて、駆け寄ろうとしても辿り着けない
蜃気楼に思えた。
そして健人と同じ画面に写るローラの存在は、何もかもがそこでは圧倒的で、
名優である父の血を脈々と受け継ぎながらも、二世俳優と呼ばれる事を許さない
気位と自信に満ちている。
その上、なんと可憐で可愛いジュリエットだろう。
声もいい。良く通る澄んだ声。
舞台上のローラは、万人を引きつける魅惑に溢れてた。
二人とも…もうすぐきっと世界に飛び出すんだ…。
五感が鮮明にそう感じ取る。景色までもが瞼のすぐ手前に浮かんでた。
舞台の幕が下り、大勢のマスコミやスカウトに取り囲まれ称賛を浴びる二人。
健人は瞬く間に世界のケントになり、近寄ることもままならなくなる自分…。
繰り返し見る悪夢のような幻想。
だが今は、幸か不幸か簡単にそこから抜け出すことが出来た。
目前で繰り広げられるロミオとジュリエットの甘いキス、キス、キス。
実際は離れた場所から望遠レンズで覗いてるのだが、愛し合う二人だけが
余計に瞳の中にクローズアップされる。
すると、幻想よりもタチの悪い感情に新たに支配された。
だめだ…。私、どうしちゃったんだろ。
健人くんが一生懸命お芝居してるのに、観てられないや…。
キスシーンなんて、今までだって何度もあったのに。
俳優斉藤健人のキスシーンは、誰よりも綺麗で美しいのに…。
二人の芝居が上手すぎるゆえ、それが現存する恋かと錯覚してしまう。
多分観客もロミオとジュリエットの恋に引き込まれ、胸を熱くし涙するだろう。
そして舞台は大成功を納めるはず。
なのに雪見は、健人とローラが交わす情熱的な口づけを冷静には観ていられなかった。
『こんなんじゃ、この先健人くんの奥さんなんて務まらないじゃないの。
しっかりしなさいよ、雪見っ!』
心に渇を入れてみたものの、どうやっても軌道修正が出来ない。
幼稚な自分に失望し、カメラを下ろして一旦健人から視線を外す。
そしてぼんやりと、舞台上のホンギを眺めてた。すると…。
…あれっ?ホンギくんのお芝居…なんか凄くいい。
あんなにキラキラな目、してたっけ?いつもはどこか寂しげな子犬みたいなのに。
あ…そっか!この後『スミスソニア』のカメラテストあるから気合い入ってんだ。
そーだよね。この発表会も『スミスソニア』も、どっちも人生変わる
ビッグチャンスなんだもん…。
よーし…。私も最後まで後押ししてあげなくちゃ。絶対ホンギくんを合格させてみせる!
そう思った瞬間、雪見のスイッチはカチッと切り替わった。
再びプロカメラマンの鋭い視線が蘇り、一枚でも多くとシャッターを切り続ける。
健人…ではなくホンギ一人を被写体にして。
完全なる現実逃避とは気付かぬふりして…。
集中すると時間が過ぎ去るのはアッという間。気付けばもうこんな時間。
ちょうどお昼の休憩に入り、健人とホンギが満ち足りた顔で舞台を降り
雪見の元へとやって来る。
「お疲れ様!凄くいいお芝居だったよ。本番が楽しみだねっ。」
雪見にそう言ってもらえたことが嬉しくて、健人は顔をクシャクシャにして笑ってる。
「ほんとに?だったら良かった!あーメッチャ腹減ったから早くメシ行こ。
ゆき姉も一緒に食う時間くらいあるよね?今日は何にしよっかなー。」
機嫌良く歩き出した健人を止めるのは心が痛んだ。
「あ…ごめん。私、もう行かなくちゃ。」
「えっ?もう…行くの?あとは荷物取りに戻って真っ直ぐ空港行くだけでしょ?
昼飯ぐらい一緒に食えると思ってたのに…。なーんだ。」
苦笑いで隠した健人の寂しげな瞳。
あなたのその憂い色の瞳は、私が負わせた擦り傷で出来てるのかも知れないね…。
「ごめんね。発表会は必ず観に来るから。それまで風邪引かないように気をつけて。
ホンギくんも頑張ってね。あなたなら絶対に大丈夫!自信持って。」
まだ周りに人が居たのでカメラテストを、とは言わなかった。
でもホンギはちゃんとわかってくれて「ありがと。頑張るよ。」と優しく雪見にハグをした。
ホンギから離れた後、健人と最後の抱擁を交わす。
ギュッとお互いを強く抱き締め、次に会うまでの愛を約束し合ったのだが、
最後の最後に健人が放った一言に激痛が走った。
まるで、隠し持ってたナイフで背中をひと突きされたかのように…。
「お母さんによろしくね。」