優しい抱擁
健人は、店の中で待ってるから着いたら電話して、と言っていた。
ここからなら十五分もあれば着くだろう。
十五分後には健人に会える!
そう思うだけで私の胸はときめいた。
迎えに行くタクシーの中で、ひとり健人を想う。
こんなにも強く、会いたいと願ったことがあっただろうか。
わずかな道のりが、永遠に思えるほど長く感じた。
帰りのタクシーの中では、健人に理由を説明しなければならない。
時間が無いので今から要点を整理しておこうと思ったのだが、頭の中が健人で満タン。
他の事を考える余地は無かった。
「あ、その辺でいいです!」
わざと少し手前でタクシーを降りる。
小走りに角を曲がった瞬間、健人の姿が目に飛び込んできた。
店の中で待ってると言っていたのに。
夜十二時半を過ぎ、昼間の人通りは無いにしても、飲んで上機嫌な人達が何人も行き交う。
私は、健人が誰かに見つかるのではないかと焦って駆け寄った。
「健人くん……。」
名前を呼んだ途端、なぜか涙が溢れてきた。
健人の笑顔が、張りつめてた心を一気に緩ませた。
が、健人はビックリ。
「ちょっ!どうした?なんかあったの?」
心配そうに顔をのぞき込む。
肩に置かれた手のぬくもりが一層優しくて、私はさらに泣けてきた。
「ううん、なんでもない。健人くんに会いたかったから…。
顔見たら嬉しくなって、勝手に涙が出てきちゃった。」
いつまでたっても泣きやまない私を、健人はギュッと抱きしめてくれた。
「ごめん。ゆき姉ひとりに辛い思いをさせたんだね…。」
両手で雪見を抱きしめながら健人は、これから対峙するであろう『敵』に思いを巡らせた。
まだその正体がわからない。
だが、そいつがゆき姉を泣かしたことだけは間違いない。
「ゆき姉を泣かす奴は、俺が許さないから…。
さ、行こう。敵のアジトに連れてって。」
抱きしめた手を緩めた時だった。
いきなり突然、ドンッ!と雪見に突き飛ばされたではないか。
その反動で健人は、ビルの壁に思いっきり肘をぶつけてしまった。
「いってぇ〜!なにすんだよ!肘から電気が流れただろーがっ!」
「だって、誰かに見られたらどうするの?」
「泣いてるゆき姉を抱きしめてやることも出来ないなら、俺、俳優なんて辞めてもいいから。」
思ってもみなかった健人の言葉に、声が出なかった。
そんなにも想ってくれてるなんて、知らなかった。
「ごめん…。ありがと。
今の言葉、かなり心に効いた。元気出てきた。
ダメだなぁ、私って。
健人くんに心配かけないようにって、いつも思ってるのに、まったく演技ができないや。
これじゃあ、女優さんにはなれないね。」
涙を拭きながら、私は笑ってそう言った。
「あれ?ゆき姉って、女優になりたかったわけ?
無理だよ。すぐ顔に出るから(笑)。
泣いたり笑ったり怒ったり、くるくる顔が変わって面白いけどね。」
健人が笑いながら、おどけて見せた。
誰もいない場所だったらもう一度、今度は私が健人くんを抱きしめたかった。
ありがとうね、って言いながら…。
さぁ、行こうか。
みんなが健人くんのこと、待ってるよ。
真由子の家へ戻るタクシーの中。
二人はずっと手をつないだまま、話をしていた。
健人との食事をすっぽかし、真由子の家へ行った理由。
そこから真由子の父の所へ行き、写真集の仲介を頼んだこと。
それなのになぜか真由子の父が、写真集を自分のとこでやりたいと言い出したこと。
明日、健人の事務所と交渉する前に、どうしても健人に会いたがってること。
「本当にごめんね。健人くんになんの相談もしないで、勝手に話を進めちゃって…。
事務所に、写真集のカメラマンにしてくれ!って乗り込んだ時も今回も…。
どうも健人くんの顔が頭に浮かぶと、勝手に身体が動き出しちゃうんだよね。
頭で考えるよりも先に、足が歩き出しちゃうんだ。
これって病気だね。健人病だ。」
自分で話しながら可笑しくて笑った。
そんな私を、健人はジッと見つめてる。
「え?なに?なんか顔に付いてる?
あ、さっき泣いたから化粧が落ちちゃった?やっばー!」
化粧ポーチから鏡を出そうと、下を向いたその時。
突然健人の顔が近づき、私の頬にそっとキスをした。
「なんでこんなに大好きなんだろね。」
健人の言葉と甘いコロンの香りは、ずっと一生忘れない。
「写真集のために少しの間、我慢してね。
きっと私たちの味方になってくれる人達だから。」
「大丈夫だよ。俺のことなら心配しないで。
今日はもうゆき姉に会えないと思ってたのに、呼んでくれたんだもん。
ありがとうって、お礼言わなくちゃ。」
「あ、私の親友、真由子って言うんだけど、大のアイドルおたくでね。
健人くんにも会わせろ会わせろって、前から言ってたんだぁ。
だから、きっと健人くんに会った途端絶叫すると思うけど、ほんとはいい子だからね。
私たちのこと、ちゃんと解ってて応援してくれてる。
でも、お父さんとお母さんは私たちのこと、はとこ同士としか知らないからそのつもりで。」
「OK、わかったよ。」
タクシーを降りた時、健人の顔は今をときめく人気俳優の精悍な顔つきに変わってた。
後ろに続く雪見も、カメラマンの鋭い瞳に変わってる。
二人はもう一度手をつなぎ、真由子の家を見上げて深呼吸した。
「そんじゃ、乗り込みますか。」