嘘を守るための嘘
「ローラ…。こんばんは。留守中は主人がお世話になりました。」
振り向いた瞬間、戦いは始まると思った。
なのに今は武器を手に入れる前の丸腰。
唯一手中にあるのは『主人』という言葉の手榴弾だけ。
だが、これさえも不確かなものだった。
なぜなら私達の結婚とは、まだ婚姻届も出してないゴッコ遊びのようなものだから…。
「あら、思ったより早いお帰りね。
もっとゆっくりお母様の看病して来ても良かったのに。
それとも…もうその必要がなくなっちゃった、とか?(笑)」
雪見の投げた手榴弾は、案の定ローラにかすりもしなかった。
それどころか見事に弧を描いて投げ返され、被弾し声を失った。
「ローラっ!冗談にも程があるよ。ゆき姉、行こう!ホンギが待ってる。」
健人は、これ以上二人を対峙させるわけにはいかないと、立ち尽くす雪見の手を引き
エレベーター方向に歩き出す。
が、それを引き留めようとローラが健人の腕を掴んだ。
「やだ、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのに(笑)
お母様が全快して退院したのかしら?って意味よ。
ケント、そんな怖い顔しないで。ロミオは私にそんな目を向けないわ。」
「悪いけど…今の俺はロミオじゃない。勘違いすんな。」
いつもは穏やかな健人の冷ややかな言いように、ローラはビクッとして手を離した。
大きな瞳がキッと睨み付けるように語ってる。
『ゆき姉を傷付ける奴は、誰だろうと許さないよ。』と…。
だが、それでしおらしく引き下がるロ ーラではなかった。
「いいわ…。あとで後悔しないでね。私を邪険に扱うと痛い目に遭うんだから。」
無表情に捨てゼリフを吐きながら、つかつかとエレベーターに乗り込むローラを
コンシェルジュのマーティンは、いつものように深々とお辞儀して見送った。
どうしよう…。ローラを怒らせた。
健人くんに何かあったらどうしよう…。
雪見は、まだその場に留まるローラの言霊に怯えながら、健人の手を強く握り締める。
すると健人は『大丈夫だよ。』と言うように、ギュッギュと二回握り返し
雪見の目を見て柔らかに微笑んだ。
マーティンがもう一度エレベーターのボタンを押し、どれが早く到着するかを見ながら
うつむいてる雪見に穏やかな声を掛ける。
「あれはローラ様の口癖でもあります。
何度も耳にした私が言うのですから間違いございません。
どうかあまりお気になさらず、今宵は長旅の疲れをごゆっくりと癒されますように…。
さぁ、こちらのエレベーターが参りました。」
手を繋いだ二人が乗り込むと、マーティンは雪見の荷物を中に運び込み
静かにエレベーターから後ずさる。
いつもは部屋の前まで運んでくれるのに…。
その気遣いが彼らしく、雪見はやっと笑顔を見せて「ありがとう。」と伝えた。
扉が閉まった瞬間、健人はすぐさま雪見を抱き寄せキスをする。
やっと手の中に戻ってきた子猫を慈しむように。
愛する人の不安や恐怖を、すべて取り除くための熱い熱い口づけを…。
二人きりの時間はほんの数十秒。
チン♪と鳴ってドアが開くギリギリまで唇を重ねてた二人は、開いたドアの向こうに
人がいたので驚いた。
「ホ、ホンギっ!ビックリしたぁー!!」
「ビックリしたのはこっちだって!良かったぁ、キスシーン目撃しなくて(笑)」
「え??」
図星だった二人は、明らかに挙動不審な動きでエレベーターから降りる。
それをホンギがゲラゲラ笑いながら、入れ替わりにエレベーターに乗り込んだ。
「ゆき姉、お帰りっ!俺の総力を結集して作ったご馳走、二人で食べてね。じゃ♪」
「じゃ♪ってなに?え?どこ行くんだよ。一緒にゆき姉の凱旋祝うんじゃないの?」
「そんな無粋な男に見える?ブスイ…?ぶすい…でいいんだっけ?
ま、いいや(笑)日本語って難しいけど素敵だよね。
もっといっぱい勉強して金も貯めて、俺、絶対日本に行くから!
あ、鍵はポストん中…。」
「ホンギっ!」
話の途中で扉が閉まり、ホンギは笑顔を残して視界から消えた。
爽やかな風のごとく、一瞬だけ優しく頬を撫でて…。
「何だか…悪いことしちゃったね。
こっちの都合でホンギくんを振り回しちゃった。お礼、言う暇もなかったし…。
ホンギくんには、いつも助けてもらってばかりだなぁ…。」
「うん。ゆき姉のいない間、家のことは全部ホンギがやってくれたんだよ。
俺よりもロミオの方が百倍大変だから、って…。どこまでもいい奴。」
「ほんとだね…。今度二人で、ホンギくんがうんと喜ぶお礼をしようよ。
何がいいかな ぁ?」
雪見が健人を見上げて微笑んでる。
その笑顔を見て、やっと安心して健人も笑い返すことが出来た。
『ありがとう…。ホンギのお陰で、ゆき姉が嫌なことを忘れてくれたよ。』
雪見とゆっくり足を進めながら、健人は今しがた別れた友を想ってた。
出会って間もないのに、すでにかけがえのない親友。心からの友。
人の一生で、こんな出会いはそうそうあるもんじゃない。
だけど自分には、そんな心友が他に何人もいる。
これって、人生の幸運の大半を占めるラッキーな出来事ではないか。
そして一番の幸運は勿論…ゆき姉と共に人生を歩んで行けること。
これ以上の幸運を俺は知らない。
ホンギがダイニングテーブルいっぱいに用意してくれたご馳走を、シャンパンと一緒に味わう。
健人は、稽古も佳境に入った発表会の準備の様子を。
雪見は新たな挑戦を決意した二つの仕事の話を、お互いに溝が出来ないよう
詳しく話して聞かせた。
とことん話し合う事でやっと離れてた時間が埋まり、健人は安心しきってお風呂へ。
その間に雪見は後片づけを終え、健人が上がるのと入れ替わりに長旅の疲れを癒した。
「さーて、二次会しよ♪」
お風呂上がりに簡単なつまみを用意し、ソファーに場所を移してまずはビールで乾杯。
大好きな人が隣りにいる心地良さって、どうしてこうも笑顔が溢れてくるのだろう。
ビール片手に他愛もない話で大笑いしたり、見つめ合ってキスしたり。
こんな幸せな時間が一日の終わりに少しでもあれば、残りの時間がどれほど大変だとしても
きっと乗り越えて行ける…。
しばらくすると、少し酔った雪見が大きく心地良いソファーにゴロン。
「気持ちいぃー♪」と両手を上げて伸びをした。
「ソファーで寝たら風邪引くよ。」
ふわりとお姫様だっこされた雪見は、そのまま寝室のベッドへ。
健人の手によって一枚ずつ剥がされたのだが、薄明かりの中、十日ぶりに見た
雪見の裸体に驚いた。
「ゆき姉っ!どうしたの?急にそんなに痩せて。」
「えっ…?」
しまったと思った。
突然の母との別れに拒否反応を示した身体は、わずかな食べ物だけを受け入れ
見る見る間に身を削っていたのだ。
「えーと…痩せて見える?一流ブランドのモデルだから、少し身体を絞ったの。
でも今日いっぱい食べたから、すぐ戻っちゃうね(笑)」
忘れてた事実を思い出した。
私は彼に嘘をついてたんだという事を。
そして今。私はまたひとつ、嘘を重ねた…。