母よ さようなら
母のそばで夜を明かした早朝。
母も大好きだったコーヒーを丁寧に落として枕元に供え、線香をあげてから
札幌の祖父母宅へ緊張しつつ電話を入れた。
受話器を取った祖父は、その声が雪見だとわかると即座に全てを察し、
迎えに行くから母を見送ってやってくれ、との再三の説得にも頑として答えを曲げず
「いいんだよ、これで。」と繰り返した。
「逆縁の時はね、親は火葬場へ行かないもんなんだ。
それにお前の母さんは、小さい頃から言い出したら聞かない子でね。
お前もそれは、よーく知ってるだろ?約束破ったら叱られちゃうよ。」
逆縁…。寿命の順序に逆らって、親よりも先に子が死ぬこと。
親として、こんなに辛く悲しいことはないだろう。
だけど 祖父は電話の向こうで、静かに穏やかに笑ってる。
心がそこにたどり着くまでに、どれほどの涙を流したのか。
想像するだけで胸が苦しくなり涙が…涙が止まらない。
「泣くのはおよし。誰も悪くはないんだ。
ただあの子の…お前の母さんの寿命が、ここまでと決まってただけなんだよ…。
こっちこそ済まないね。
娘の最後のわがままで迷惑かけるかもしれんが、どうかよろしく頼んだよ。」
祖父は、最初から最後までずっと穏やかだった。
母のことを「娘」と呼び、父親として娘の最後の願いを全うしてやりたい。
今はただそれだけ…という気がした。
だが…。
声一つ聞こえなかった祖母はきっと…隣の部屋で泣いてたことだろう…。
ごめんね、おじいちゃん、おばあち ゃん…。
母さんは私と雅彦夫婦でちゃんと見送るから…。
明日のお昼、空に登った母さんを札幌から見上げてやってね…。
翌日は、母を見送るに相応しい快晴。
雲一つ無い空は、きっと神様が母のために障害物を置かず、真っ直ぐ
グングン登って行けるよう配慮してくれたからだと思った。
こんな日は母さん、お布団と洗濯物をいっぱい干してから仕事へ行ってたなぁ…。
喪服を着て玄関を出、眩しい空を見上げてそう思い出す。
だがいつまでも感慨にふけってる場合ではない。これからが大事なミッション。
誰かに見つからぬうちに、早く車に乗り込もう。
人目につかぬよう配慮してくれた移送サービス会社によって、無事自宅を出た車は
母との最後のドライブに 、郊外目指して走り出す。
父さんの時と同じ景色を眺めながら…。
到着した火葬場は、まるでそこがアウトレットモールかのような人出。
人って毎日、こんなに大勢亡くなるんだ…。
着いた瞬間思ったのはそんなこと。
悲しんでるのは自分だけじゃないんだと思うと、ほんのちょっぴり心が軽くなった。
足早に母との別れの部屋に入る。
これで本当に本当にお別れ。
たった身内3人と係員だけに見守られ、母は厚い扉の向こうにスーッと押し出された。
さようなら…母さん…。
またいつか 未来で会おうね…。
泣き腫らした目を隠すためのサングラスと「変装用にひとつ持ってた方がいいよ。」
とヘアメイクの進藤が以前くれたショートヘアのウィッグのお陰で、騒がれることなく
静かに静かに母との約束を果たすことが出来た。
一番重要な任務を終え、肩の力が抜けて急に睡魔に襲われた雪見は雅彦に車の鍵を借り、
母の支度が整うまで車内で仮眠することに。
すぐに深い眠りに落ち、しばらくすると夢を見た。
そこはニューヨークのアパート。
健人がランニングから汗をかいて戻るとキッチンには…私じゃない誰かがいる。
…ローラだ。
彼女はまるで自分の家のように、自然に冷蔵庫から水を取り出し健人に差し出す。
それを健人は「サンキュ♪」 と言って受け取り、喉仏を大きく動かしながら
ゴクゴクと飲み干した。
「ケントの喉ってセクシーよね。この瞳も、このホクロも、この唇も…。」
ローラが白く細い人差し指で、ひとつずつなぞって行く。
指先が唇の輪郭を描いて止まると…あろう事か健人はローラを引き寄せキスをした…。
コンコン!
「姉貴!準備出来たって!」「…えっ?あ…今行く。」
車の窓をノックする音でハッと目覚めた。
その夢の続きを覚えていない。
これだけで終わる夢ではなかったのだが、なぜか記憶から抹消されていた。
自分の中の防御装置が作動して、辛うじて破壊されることを防いだのだろう。
夢とは、自分の潜在意識や記憶が見せるもの。
母が死んだというのに、心はす でにニューヨークへ飛んでいた。
骨を拾いながら、もう涙は出てこない。
それが母である実感もなく、母はまだ元気で家に居るような気がしてた。
「父さんが死んだ時…母さん私達に『父さんはまだ外国で写真撮ってるのよ、きっと。』
って言ったの覚えてる?」
「あぁ、覚えてるよ。子供心に、母さんがそう言うんだからそうなんだ
って、悲しいとはあんまり思わなかったな。」
「そうだね、悲しくなかった。今までと何も変わらないや、って…。
母さんもきっと…仕事か買い物にでも行ってるんだよ。
ねっ、そうだよね、母さん…。」
白い欠片を一つ残らず取ってやろうと思ったが、3人で拾い切るには時間がかかり
最後は急かすように係員が手早く骨壺に納め て、母は白い風呂敷に包まれた。
「さぁ、帰ろう。猫たちが家で母さんの帰りを待ってるよ。」
係員に改めて礼を言い、3人は細心の注意を払って雅彦の車に乗り込んだ。
午後3時。ニューヨークは夜中の2時か…。
健人くん、稽古で疲れ切って爆睡してるだろうな…。
そう思った時だった。黒いバッグの中でケータイが振動し出した。
えっ?健人くんからだ!
膝の上に乗せた四角い箱が、車の揺れでカタンと音を立てる。
母に「余計なこと話すんじゃないよ!」と先に釘をさされた気がしてドキッとした。
「もしもし…健人くん?まだ起きてたの?」
「うん。なんか眠れなくて…。ゆき姉の声が聞きたくなった。」
甘えた声を出す健人に胸がキュンと鳴る。
「 私は元気だよ。健人くんこそ、お稽古が大変でしょ?
疲れてるだろうし明日も早いんだから、もう寝ないと。」
母の事などおくびにも出さず、健人の気持ちが落ち着くように穏やかに言って聞かせた。
「ゆき姉が隣りにいないと眠れない。」
「そんなわがまま言わないの。ホンギくんは?」
「あいつはバイトから帰ってすぐに寝た。酒に付き合ってもらおうと思ったのにさ。
あーあ。ゆき姉だったら、いつでも一緒に飲んでくれるのになー。」
まるで子供のわがままみたいで、可愛くて可愛くて仕方ない。
出来ることなら今すぐ瞬間移動して、ギュッと抱き締めてあげたいよ。
「ねぇ、いい子だから今日はもう寝て。
明日は何時起き?朝、電話で起こしてあげるから。」
「ほ んと?起こしてくれるの?やった!じゃあ6時半に起こして。」
「了解!6時半ね。じゃあ、おやすみ。いい夢見てね。」
「ゆき姉の夢見るよ。ゆき姉も俺の夢見てね。じゃ、おやすみ。」
さっきも健人くんの夢見たよ…とは言えなかった。
どんな夢?と聞くに決まってるから。
でも安心した。私のこと、ちゃんと好きでいてくれてる…。
つい、顔がにやけてしまったのを、ルームミラーで雅彦に目撃されたらしい。
助手席のひろ実と二人で、何やらクスクス笑ってる。
「ねぇねぇ。健ちゃんって、いっつもそんなに甘えてくるの?
前はクールキャラじゃなかったっけ?あのイケメン俳優斉藤健人なのに。」
「えっ?」
前の座席の二人はもう我慢が出来ず、お腹を抱えてゲ ラゲラ笑い出した。
ひろ実の笑い声を聞いたのは、いつ以来だろう。
やっと母の呪縛から解け、元通りの明るいひろ実に戻った気がした。
良かった…。いいんだよ、ひろ実ちゃん。それで…。
今まで母さんのことで悩ませてごめんね。
「こっちは俺たちがちゃんと守るから、姉貴は早く健ちゃんとこ帰ってやれよ。」
「そうよ、早く帰ってあげて。
私達…神戸のマンション売って、お母さんちに引っ越すことに決めたから。」
「うそ…。本気で言ってるの?」
「本気だよ。異動願いも受理されてる。
ひろ実とずっと話し合ってたんだ。こうするのが一番だって。
あの家は父さんと母さんの思い出が詰まった家だから、手放すわけにはいかないよ。
それに、せっかく猫たち が我が家に戻ったのに、またどっかにもらわれて行くんじゃ
可哀想だろ?」
「いい…の?それで…。ひろ実ちゃんも…?」
「あぁ、いいんだ。家族が増えるんだから、一軒家がいい。」
「え…っ?うそ…赤ちゃんが出来たの!?あんたたちもっ!?」
嬉し泣きにポロポロ泣いてたら、「あんたたちも?って他にも誰かいるの?」
と聞かれて焦った。
みずきと当麻くんのことは、まだトップシークレット。
でも、おめでとう!
母さんと父さん、きっと手を取り合って喜んでるね。