愛するがゆえの嘘
「大丈夫?少し…落ち着いた?コーヒーでも飲もっか。」
「うん…。」
ひとしきりみずきの胸で泣いた雪見が「はぁぁ…。ごめんね。」と顔を上げたので、
みずきはニッコリ微笑んでティッシュの箱を差し出し、腰掛けてたベッドを立ち上がる。
そして棚の上から亡き父が愛用してたコーヒーミルを取り出すと、慣れた手つきで
ガリガリと豆を挽き出した。
「いい匂い。」
「そうでしょ?この豆は、お父さんが自分の好みに合わせて焙煎してもらった
宇都宮勇治オリジナルなの。
大好きなコーヒーにだけは、めっちゃうるさい人でね。
豆の挽き方やコーヒーの落とし方は、私、喫茶店をやらされるんじゃないかしら?
と思うほど、厳しく伝授されたわ(笑)」
そう笑いながらみずきは、大事に手入れされた年季の入ったサイフォンで
コーヒーをコポコポと落とし始める。
すると狭い部屋は瞬く間に幸せな香りで満たされ、雪見の顔にも柔らかな笑みがこぼれた。
「お父さんはね、この部屋にいる時は一日に何度も、このサイフォンで
コーヒーをいれてたわ。
手間が掛かると思って、私がコーヒーメーカーを買ってあげたんだけど、
手間を惜しんでちゃ旨いコーヒーは飲めないよ、って箱から出しもしなかった(笑)
理科の実験みたいで楽しいだろ?って、コーヒーいれてくれる時はいつもご機嫌で。」
「ほんとだ。実験そのもの。」
「あ、ゆき姉は科学を専攻してたんだっけ(笑)
そう言えば…この前のホワイトハウスでのインタビュー、見たよ。
ゆき姉、他のどの女優さんよりも綺麗だった!」
「そんなわけないじゃん(笑)でもありがと。」
みずきは科学という言葉から、科学者である学を思い出したらしい。
何もかも見えてしまうみずきには、隠し事しようにも出来るはずないが、
かと言って自分からあれこれ話すほどの話でもなく…。
「元カレ…ロジャーの娘から言い寄られたことがあるのね。」
「えっ?うそっ!?」
みずきから手渡されたコーヒーカップを、危うく落としそうになった。
ニューヨークのローラのことまで見えてるなんて!
て言うか、ローラが学を好きだったことがあるなんて!
「ゴメンっ!こんな時にする話じゃなかったね。ほんと私ったら!
あ、牛乳が無いからミルク2個入れて。
でも…どういう訳かロジャーの娘が強く頭に浮かんできて…。なんでだろ?」
「ねぇ!みずきはローラを知ってるの?」
「知ってるってほどじゃないけど…ロジャーとはハリウッドで何回も仕事したから。
彼が娘を凄く可愛がってて、よく現場に連れて来てたのは知ってる。
……えっ?あ…!ゆき姉と健人って…もしかしてロジャーと同じマンションに住んでた?
だからだ…。」
「えっ?だから…って?」
この際、ローラが学を好きだったなんて話はどうでもいい。
今一番知りたいのは、NYに残してきた健人がどうしてるかってこと。
ローラが…近づいてないか、ってこと…。
はぁぁ…。でもダメだ。私ってば、なに考えてんだろ…。
母さんが死んだ夜だって言うのに、頭に浮かぶのは母さんじゃなくて健人くんだなんて…。
あまりにも薄情すぎる自分に嫌気がさし溜め息が出た。
が、なぜか母の事は、ひとしきり泣いたことで自分の中でケリが付いた気がした。
いつまでも泣いてたところで母が生き返るわけでもないし、母はそんなこと
望んでもいない、と知ってるから。
こんなサバサバした性格は、やっぱり親子なんだとフッと可笑しくなる。
それよりも、みずきの「だからだ…。」の続きを早く聞きたかった。
何を言い出すのか怖いに決まってるが、聞かないわけにはいかない。
それに彼女なら私のすべてを見抜き、的確な助言をくれるはず。
目を閉じ透視してるらしいみずきが口を開くのを、ドキドキしながら息をつめて待つ。
「……健人…。ローラと舞台をやるのね。」
「うん、そうなのっ!二ヶ月後にアカデミーの発表会でロミジュリをやるの!
凄いでしょ?留学早々、健人くんがロミオに抜擢されたのよ!
あ…ゴメン。ね、他には何が見えるの?健人くん、今どうしてるかわかる?」
「……ちょうど…どこかへ移動するとこ…かな?
みんなと一緒に…廊下みたいなところを歩いてるわ。
…あ、この子ね、ローラって…。ふーん…。
……ゆき姉。お母さんのことが済んだら、早く戻った方がいいよ。
前に住職に言われなかった?何があっても健人の手助けをしなさいって。」
「えっ?そう言えば…言われた。
たとえ何があろうとも、彼を支えていかなきゃダメだって…。
それが彼の成功に繋がるっていうようなこと、確かに言われたわ。」
「それって…ゆき姉のお母さんも、似たようなこと言ってなかった?」
「言ってた…。全力で尽くしなさい、って…。」
雪見は急にまた溢れてきた涙を拭きながら、バッグの中から母の手紙を取り出し
みずきに読んでくれるよう差し出した。
「……そう。お母さんは、健人に対してのゆき姉の役割をちゃんと知ってるわ。
…あの子が…健人くんの安らぎと勇気と力になってるのなら、こんなに嬉しいことはない
って言ってる…。」
「う…そ。母さんがいるのっ!?この部屋…に?」
「いるよ。あぁ、ゆき姉があんまり帰ってこないから、心配して探しに来たみたい。
『鉄砲玉みたいな子で困ってるんですよ。』って笑ってる(笑)
……ねぇ。お母さんとお話がしたい?」
「えっ?できるの?そんなこと。」
「………いいよ。私と手を繋いで。」
みずきは雪見に右手を差し出し静かに目を閉じて、何やら瞑想を始めた。
そして驚いたことに、次に発した口調は明らかにみずきのものではなかったのだ。
「雪見。あなた健人くんに、着いたよって電話したの?
母さんは心配ないから用事を済ませたらすぐ帰る、って言ってあげなさい。」
「か…あさん…?母さん…なの?」
すぐにわかった。
そこにいるのは、みずきの身体を借りた母だと言うことを。
繋いだ手の温もりが母の温もりに思えて、涙が次から次へと溢れて落ちる。
「私…どうすれば…いい?」
「あなたの中で、答えはいつも出てるでしょ?
その通りにすればいいのよ。母さんはどこからでも全力であなたを応援するわ。
さぁ、健人くんに電話なさい。今なら大丈夫。」
「え…っ。今…?」
そう言ってみずきを見ると、母であるみずきはニコッと微笑んだ。
時計を見ると深夜2時半。
ニューヨーク時間は日本より13時間前の午後1時半だ。
もう午後の稽古が始まってるはず…。
でも…。
母の言葉を信じて、恐る恐る健人に電話をしてみた。
3回コールして出なかったら切ろう。稽古の邪魔はしたくない。
1回…。2回…。3…
「もしもし、ゆき姉っ!?お母さんになんかあったのっ!?」
「健人く…ん。ごめんね…。稽古の最中じゃ…なかった?」
泣いちゃダメ。泣いちゃダメっ!
だけど健人の声を聞いた途端、涙が溢れた。
「どうしたの?ゆき姉、泣いてるの?今そっち、真夜中だよね?
今どこ?病院?お母さん…は?」
健人くんが心配してる…。
その時だった。
みずきが怖い顔をしてこっちを睨んだ。
その睨み方をよく見たことがある。母さんだ。母さんが怒ってる!
「…ううん。母さんなら…大丈夫だよ。
ぐっすり眠ってた。病院に着いたの、夜中の12時だったから…。
今ね…『秘密の猫かふぇ』に来てるの。母さんちの猫を引き取りに。
弟が…。雅彦が母さん元気になるまでお世話してくれるって言うから。」
「そう。なら良かった。お母さんに何も無かったんなら安心した。」
健人は心底ホッとした声だった。
ごめんね…。
私…あなたの嫌いな嘘をついてる…。
また泣きそうになったが、今度は奥歯をギュッと噛みしめ我慢した。
愛する人を思ってつく嘘は、大概その先にあるものを見失ってつく嘘。
その嘘が、未来にどんな結果を招くとも考えずに…。