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心の救世主

迎えに来た寝台車のストレッチャーに、夜勤の看護師2人と婦長、非番の田中が

母を「一、二の三っ!」でそっと乗せてくれる。

エレベーターを一階で降り、夜間玄関までの長い廊下を母と歩調を合わせみんなで歩いた。


乳癌を発病してから10年。その間ずっとお世話になったこの病院とも今日でお別れ。

もう、通うこともない…。


「本当に長い間お世話になりました。この病院で診てもらえて良かった。

私のせいで色々ご迷惑おかけして済みませんでした。

母の望み通りにして頂いて感謝してます。」


雪見は婦長を始め看護師一人一人に深々と頭を下げた。

田中がまた泣き出す。

きっと母の望みとは言え、容体の悪化を最後まで雪見に黙り通したことを後悔してるのだろう。


「もう泣かないで。これでいいの。これでいいのよ。ありがとねっ。」

少しでも田中の心を軽くしてやりたいと、雪見は笑顔を作って手を握りしめる。


どんなに心苦しかったことか。

いや、田中だけではない。婦長だって他の看護師だって、それでいいのかと悩んだはず。

そして一番は…ずっと口を開かない義妹ひろ実…。


なんて辛い思いをさせてしまったのだろう。

母さんは、なんて約束を嫁にさせてしまったのか…。

義母から最期のお願い、なんて言われたら、それを守らざるを得ないじゃないか。

頑固でわがままな母。

だけど…。


一番悪いのは…別世界に住む人と結婚してしまった私…なのかも知れない…。


何かに気付くように、そう思ってしまった 。

今まで感じたこともない罪悪感が、その瞬間ジワジワと身体の端っこから湧き上がる。

自分が健人と結婚すると言うことは、この先も弟夫婦や親戚に、迷惑を

掛け続けることなのかも知れない…と。


「姉貴、車が待ってるよ。さぁ、母さんを連れて帰ろう。」


「う、うん…。」


雅彦の声が、暗たんたる闇の中から一旦救い上げてくれた。

取りあえずは家へ帰ろう。そしてじっくり話し合わねば…。


「じゃあ皆さん、お世話になりました。

落ち着いたら日を改めて、またご挨拶に伺います。

先生や他の看護師さんにもよろしくお伝え下さい。では失礼します。」

雅彦が下げた頭と一緒に雪見とひろ実も頭を下げる。


「雪見さん、頑張ってね。これからもずっと応援してるから。」


「婦長さん、ありがとうございます。はいっ!頑張ります!」


きっとその笑顔は、こんな別れの場面に似つかわしくはなかっただろう。

だが、この場を上手く完結させる手段として、そうするのがいいと思った。

自分の心を前へ転がしていくためにも…。


たとえ大切な人が亡くなっても、時間は止まってはくれないのだから。



整列し深く頭を垂れる4人の看護師に見送られ、母と雪見を乗せた車は

夜の暗がりにスッと紛れる。

もしこれが、人目につく日中の出来事だったらどうだろう。

入院患者や外来患者に目撃され、瞬く間に拡散されたかも知れない。

それをマスコミがすぐさま嗅ぎつけ、翌日のスポーツ紙にはこんな見出しが踊るはず。


『NY留学中の俳優・斉藤健人の義母死去』


まだ未入籍だから正確には『YUKIMI&』の母、なのだが、そう書くよりも

斉藤健人の名を出した方が百倍、いや一万倍売れる。

そのあと報道陣はNYのアカデミーに押し寄せ、義母の死に対してはもとより

結婚に関してやら何やらを質問攻めにし、健人は稽古どころじゃなくなる。

母の目にはそんな光景が浮かんだに違いない。


人様に、特に健人に迷惑かけることを最大限に嫌ってた母。

実の娘にさえもその死に際を漏らさず、健人の妻としてだけに全力を注ぐよう

身をもって私に伝えた母。


それはきっと、母さんの生き方の集大成でもあったんだね。

カメラ片手に世界中を飛び回ってた父さんを全力で支援し、見守り、愛し

笑顔で留守宅を守り続け、私達を育て上げた。

きっと私にも、そんな妻であれ!と教えたかったんだね…。


私も、母さんが父さんを愛したのに負けないほどの愛情を持ってるよ。

健人くんのためならどんな事でも出来る。

だから…ごめんね。

寂しいお別れになっちゃうけど許してね。

母さんの言う通りにさせてもらいます…。




「さぁ、母さん、家に着いたぞ。久しぶりの我が家だよ。

あ、そうか…。なんか寂しいと思ったら猫の出迎えがないんだな。」


「あ!みんな猫かふぇに預けてあるんだった…。

ねぇ…今日って何曜日?日曜の真夜中?

今ならまだ支配人が残ってるかも…。ちょっと行ってくるっ!

二人とも、母さんをお願いねっ!」


「お、おいっ姉貴っ!どこ行くんだよっ!まだ母さんを寝かせてもいないのに!」


雪見は転がるように玄関を飛び出して行ったかと思うとすぐさまタクシーを拾い

「南青山までお願いしますっ!」と、その場所を告げた。


「あーお願い!支配人さん、電話に出てー!帰っちゃわないでー!

………あ!もしもしっ!秘密の猫かふぇですかっ!?雪見です!」



日曜日のクローズは24時。

閉店から1時間半ほど経過してたが、日曜の閉店後は従業員のミーティングや

残務整理があると、以前みずきに聞いたことがある。

『秘密の猫かふぇ』入り口まで行くと、黒服を着た支配人が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ、雪見さま。」


NYのマーティンを日本人にしたような、穏やかな笑みをたたえた支配人は

こんな時間の来店をとがめるわけでもなく、理由を聞くわけでもなく、

黙って雪見を店内に招き入れた。


「こんな時間にごめんなさいっ!

あの…うちで預けた猫を連れて帰りたいんです。わがまま言ってすみませんっ!

それと…。少しだけオーナー室をお借りしちゃ、ダメ…ですか?」


「えっ…?オーナー室…ですか。

…わかりました。いいでしょう。このカードキーをどうぞ。

ただし、猫ちゃん達を集めてバッグに入れておきますので、あまり長居はされませんよう。」


「ありがとうございますっ!じゃあ行ってきます!」


雪見はキーを受け取ると、猛ダッシュで長いトンネルと幾つもの部屋を駆け抜け、

脇目もふらずにオーナー室までたどり着く。


「ハァハァハァ…。(カチャッ)失礼しまーす…。」


何も変わらぬその部屋に入りドアを閉めた途端、雪見はプチンと何かが音を立てて切れ、

ベッドに腰を下ろしてポロポロと泣き出した。


部屋の温もり、匂い、気配から、在りし日の宇都宮勇治を感じる。

霊感なんて一つも持ち合わせてないが、宇都宮の方から寄り添ってくれてる気がした。


その時だった。カチャッ…。「ゆき姉…。お帰りなさい。」


「みずきっ!どうしてここへ?今、パリに行ってるはずじゃ…。」


「私も今日帰って来たの。寝ようと思ったら、ゆき姉が泣いてる姿が見えて…。

ここに来る気がしたから支配人に電話しといた。


お母さん…残念だったね…。ゆき姉も辛かったね…。」


「みず…き…。」


すべてお見通しのみずきに肩を抱き寄せられると、偶然心の出口を見つけた安堵感に

声を上げて泣きじゃくった。


まるで、迷子になった心が母の魂に出会ったかのように…。


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