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母の遺言書

「雅彦…?ひろ実…ちゃん?」


「あ、姉貴…。お帰り…。」


深夜12時前の寝静まった病棟廊下。

雪見は二人と確認出来た数メートル先から、囁くように声を掛けたのだが

近づくにつれ、明らかに様子のおかしい弟夫婦に恐怖を感じ足がすくんだ。

心臓が自分の意志よりも速く打ち出し、ただ事ではないことを雪見に知らせる。


「どうした…の?なんで…こんな時間にいるの?」


そう言いながらも何かを予感し、すでに涙が頬を伝って落ちる。

その質問が的確ではないことぐらいわかってた。

弟が返した「お帰り。」という返事も、今は場違いだと言うことも。

だけど怖くて核心に触れることなど出来やしない。


しかし答えは、無言でクルッと後ろを向いた義妹の震える肩と嗚咽が教えてくれた。


心臓の鼓動が静かな夜に響き渡ってる気がする。

それでも意を決し病室のドアを静かにゆっくりと、恐る恐る開けた。


そこには…


誰かが…

白い布を顔に乗せて横たわってた。


誰か、が…。



「うそ…。誰よ、これ…。

母さんじゃないよね…。母さんじゃ…ないでしょ?


……どうして…。どうして母さんなのよっ!」


震える指先でそっとめくった白い布の下には、最愛の母が眠ってた。

昼寝の最中みたいに穏やかな顔をして。

「ただいま、母さん。」と肩を叩くとすぐ起きそうな顔をして…。


雪見はこの現実が受け入れられず、今なにが起こってるのかさえも理解出来ず、

母のために買ってきた花を抱きかかえながら、崩れるようにして泣きじゃくった。


「…どういう事なのか理解出来ない…。

なぜ母さんは死んでしまったの…?どうして誰も教えてくれなかったの?

危篤だなんて…誰も言わなかったじゃない…。」


こんな状況においても、ここが深夜の病室だと言う理性だけは働いた。

荒げたくなる声を押し殺し、嗚咽の隙間から絞り出すようにして吐いた言葉を

物言わぬ母は、どう聞いていただろう。


「6時間ほど前に…容体が急変したんだ。

ここ何日かは、転移した肺に胸水が溜まって抜ききれなくて…。

溺れてる状態だと先生が言ってた。

姉貴が帰ってくるまで頑張ってくれるかなと思ったけど…ダメだった…。

ちょうど一時間前…午後10時55分に…息を引き取ったよ。」


「……えっ?10時…55分?」


その時刻に聞き覚えがあり、はたと泣きやんだ。

空港から乗った今野の車で居眠りをし、ハッと目覚めて「今何時ですか?」と聞いた時、

今野は時計を見ながら「10時55分。」と言った。確かに。


あの時見た夢は正夢じゃなかった…。

母が…母が別れを告げに来たんだ。そうだよね、母さん…。


母の永遠の寝顔に再び涙が止めどなく溢れ、どうしてもっと早い便で

帰って来なかったのかと後悔した。


「黙ってたひろ実を責めないでやってくれ。

こうすることは…ひろ実と母さんの約束だったんだ。

母さんの…遺言だったんだよ。」


「遺言…?」


「あと30分で寝台車が迎えに来る。母さんの荷物は俺の車に積んだ。

これからひろ実とナースステーションで手続きしてくるから、姉貴は母さんと居てやって。

あ、それからこれ…。」


雅彦はベッドサイドの引き出しから一通の手紙を取り出すと、雪見に手渡し病室を出て行った。

廊下にたたずんだままのひろ実の元へ…。


雪見は抱えた花かごをいつもの場所に飾り、受け取った白い封筒を眺める。

『雪見へ』と書かれた文字は確かに母のものだったが、婚姻届に書いてもらった署名よりも

更に弱々しい筆跡だった。


読むのが怖い…。どうしよう…。

でも…読まなくちゃ。


あと30分で病室を出なくてはならない事が、雪見を急かした。

静かに封を開け、緊張しながら便せんを開く。



雪見へ


お帰りなさい。

きっとあなたはこの手紙を泣きながら読んでるでしょ?

でも泣いてる場合じゃないのよ。しっかりなさい。

あなたとした約束、忘れてない?

母さんはあなたに、健人くんの自慢の奥さんになりなさいと言いました。

健人くんに全力で尽くしなさいと言いました。

母さんのことで絶対に迷惑かけないでとも言いました。

あなたも充分知ってるだろうが、母さんは人様に迷惑かけるのが大嫌い。

健人くんに迷惑かけたら、母さんは死んでも死に切れません。


だから。

健人くんの留学が終わるまでは母さんが死んだこと、絶対に漏らしてはいけません。

マスコミに騒ぎ立てられることの無いよう、速やかに母さんを葬って下さい。

このことは親戚にも知らせなくていいです。お葬式もいりません。

すべては健人くんが帰国するまで、雅彦夫婦とあなただけの秘密にして下さい。

いいですね?約束だよ。


追伸

あなたは孫の顔を見せられなかったと後悔してるかも知れないが、それは大間違い。

母さんは孫なんて見ちゃったら、この世に未練タラタラであの世へ行けません。

だから今はスッキリ父さんに会いに行けます。

この先、あなたと健人くんに可愛い子供が出来たら、じじバカばばバカ発揮して

天国から全力であなた方家族を応援します。


いつまでも可愛い奥さんでいなさいよ。

結婚おめでとう。


母さんより



 

母らしい、実にサバサバした遺書だった。

ベッドに眠る母の頭を撫でながら「ありがとう、母さん…。」と言ってみる。

止めどなく溢れ続ける涙が、ポタポタと枕元を濡らす。


『あぁ、帰ったの?お帰り。疲れたでしょ?今日はもう遅いから、早く寝なさい。

ちゃんとお化粧落として寝なきゃダメよ。あんたはすぐ居眠りしちゃうんだから。』


昔よく母に言われた言葉がなぜか頭に浮かんだ。

こんな状況においても母なら、そんな返事をする気がした。


そう、母はいつもどんな時でも飄々としてた。

状況に左右されることなく、穏やかにマイペースに生きていた。

ただ一つの欠点は、言い出したら聞かないこと。

自分がこうと決めた事は、誰に何を言われようが貫いた。


母さんとの約束…。守らないわけにはいかないな…。


そう決意した瞬間、パチンとスイッチが切り替わった。

よし!早く母さんを家に連れて帰ろう。良かった、人目につく日中じゃなくて。


残りの荷物をまとめてた時だった。

誰かが深夜の廊下を走ってこっちに来る音がする。

雅彦?


「ハァハァハァ…。雪見さん…。」


「田中さんっ!どうしたの?そんなに走って。」


それは母の担当看護師で雪見とも仲良しの田中だった。

私服なので勤務明けか。


「今日非番だったの。実家へ行ってて婦長から連絡きて…。

私が…私が看取ってあげたかったのに…。


ごめんね、浅香さん…。田中だよ。聞こえる?

よく頑張ったね。雪見さん来てくれて嬉しいね。

最後に私に顔を拭かせてね…。今までお世話になりました。

ありがとう…ございま…す…。」


田中はナースステーションから持ってきた温かいタオルで、泣きながら母の顔を

そっと優しく拭いてくれた。

その姿を見て、雪見の涙もポロポロと床を濡らす。


「こちらこそ、母がお世話になりました。田中さんが担当で本当に良かった。

きっと楽しい入院生活だったと思う。ありがとね。」


「ごめんね、雪見さん…。何にも知らせなくて…。」

雪見に抱きついた田中は、声を押し殺して泣いている。


「ちゃんとわかってるよ。母さんとの約束、守ってくれてありがとう。

田中さんも守ってくれたんだから、私も守らなきゃね。」

雪見は田中の背中をトントンと叩きながら、自分に言って聞かせた。


そう、泣いてる場合じゃない。

私には、やらなきゃならないことが山ほどあるんだ。


母さん、力を貸してね…。


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