夢の中の母
今野の車の後部座席で30分ほども居眠りしただろうか。
ガタンと揺れた振動で、雪見はハッと目が覚めた。
元気で家に居る、母の夢を見てた。
『秘密の猫かふぇ』に預けた猫たちも家に帰っており、ソファーに座る母の隣で
安心しきって眠ってる。
そのフカフカな背中を母が微笑みながら、そっと優しく撫で続けてた。
私が「ただいま!」と居間に入ってくと「おかえり。」と笑顔で出迎えてくれたのだが、
一人で帰ったことを知ると「今すぐ戻りなさいっ!」と案の定叱られた。
「母さんの心配はしなくていいから、あんたは健人くんだけに尽くしなさい。
健人くんの自慢の奥さんになれるよう、もっと努力しなきゃダメよ。
母さんは父さんのお世話で忙しいんだから、さぁ帰った帰った!」
……そう母に追い払われたところで目が覚めた。
父さんのお世話、って…。
すごくリアルな、だけど不思議な感覚の夢だった。
『病院でも同じこと言われる気がするな。正夢だったりして。』
母の態度が想像つくからそんな夢を見たのか、雪見はこれから向かう病院で
母になんて言われるのか楽しみになって、下を向いてクスッと笑った。
「おっ!起きたか。しばらくは時差ボケとの戦いだな。
まぁいいさ。二、三日はお袋さんのそばにいてやれ。
明後日の夜、小野寺常務が出張から戻る。
翌日午前九時からはお前の戦略会議だ。遅れないで事務所に来るように。」
「せ、戦略会議って!私まだ何にも決めてませんけどっ!?」
後ろから運転席に身を乗り出すようにして、雪見は今野に訴える。
いつもなら「耳元でデカイ声を出すなっ!」とたしなめられる場面だが、
今野は表情一つ変えず淡々と、静かに雪見に問い掛けた。
「だからそれを決めるための会議だ。
お前にとって、どうするのが一番いい道なのかを考えるための…。
手にしたくたってそう手に入らないチャンスが、向こうからやって来たんだぞ?
あのブランド初の東洋人イメージキャラクターモデルって、どんだけ凄い話かわかるか?
『YUKIMI&』が世界レーベルからデビュー出来るって、どういう意味かわかるか?
目先の感情だけで決めつけると、後で絶対後悔するぞ。
会議まであと三日ある。お袋さんとでも相談して、自分の考えを整理しとけ。
健人は多分近い将来…世界への道が繋がるはずだ。」
「えっ?ほんとですかっ!?」
今野はこの前の国際電話でも、健人はもう夢のかけらを握ってる、と言っていた。
世界への道…。夢のカケラ…。
何か大きな仕事がすでに決まってるのか。それとも今はその途中?
だが、雪見と言えども今野は、それ以上のことを口にはしなかった。
それを踏まえて妻としての方向性を考えろ。きっとそう言うことなのだろう。
窓に映る自分の姿をぼんやりと眺めながら、自分にとって…ではなく、
健人にとってどうすることが一番いいのかを考える。
だが、答えはそう簡単に見つかるはずもなく、様々な思いが浮かんでは沈み、
沈んでは浮き上がった。
健人くんに…会いたいな。
ふと、まだ到着メールを入れてないことに気が付いた。
ヤバッ!きっと心配してる。
向こう時間は…と。ちょうど休憩時間だっ!カフェテリアに居るはず。
雪見は、今ならメールではなく電話しても大丈夫だと、心弾ませて健人に電話を掛けた。
ところが…。
「Hello!誰?あ、ユキミ?」なんと、ケータイに出たのは健人ではなくローラだった。
「ちょっ!なんでローラが健人くんのケータイに!?
健人くんは?健人くんはどうしたのっ!?」
「あははっ!そんなに慌てないで。
ケントは今、私のコーヒーとサンドイッチを買いに行ってくれてるの。
お昼休みもこのまま稽古したいって言ったら、ケントが売店まで走ってくれたわ。
彼ってほんとに優しくて素敵な人ね♪とっても情熱的なお芝居をするし。
みんなカフェテリアに行っちゃったから、これから二人きりでキスシーンの
お稽古でもしようかしら(笑)
あ、日本に着いたって伝えたいんでしょ?私が伝えとくから…。」
その時だった。
「お前、なにケントのケータイいじってんだよ!貸せっ!」
遠くから声が聞こえた。ホンギだ!
「ホンギくーん!ユキミだよー!」
「えっ?もしもし?ゆき姉?うっそ!
ローラ、ゆき姉からの電話に出たのかよっ!まったく油断も隙もあったもんじゃねぇ。
ゆき姉、安心して。今日から俺様がケントの用心棒だ!
盗み食いしようとする野良猫が近づいたら俺が追っ払う!
だから、ゆき姉は心配しないでお母さんの看病しておいで。」
「ホンギくん…。ありがと。」
「誰が野良猫よっ!」と憤慨するローラの声が聞こえる。
ホンギはローラの言動に気付いてくれてた…。
それがわかってホッとし、優しい言葉が嬉しくて涙がじんわり滲んだのだが、
今まで「ユキミ」としか呼ばれた事がないのに、今日はやたらと「ゆき姉」
を連発するのが可笑しくて、思わずクスクスと笑ってしまった。
「何が可笑しいのさ。」
「だってぇ。」
わけを話すと「ゆき姉って呼び方は、心友の証しでしょ?」と言う。
そうか…。
翔平くんや優くんと同じく、ホンギくんも私達を見守ってくれるんだ…。
「そうだね。心友の証しだよ。じゃあ健人くんのことは心友のホンギくんに任せたから。
健人くんね、朝はなかなか起きれないし、お料理をまったくしないから
ホンギくん、お願いね。それと…。」
「わかった、わかった!大丈夫だって!このホンギ様に任せなさいっ!
あ、国際電話でこんな長話ししたらケントに怒られちゃう!じゃ、またねっ!」
唐突にホンギに電話を切られ、「ちょっとぉ!」と出した大声に、今野が
「どうしたんだ?健人がどうかしたのか?」とルームミラー越しに後ろを見る。
だが雪見は「なんでもないです。」とだけ言って、街の明かりに目を移した。
やっぱり…誰にも負けない最強の自分になりたい…。
「いいのか?ここで。病院まで送ってくのに。」
「いいんです。ここで母さんに、お花買って行きたいから。
このお花屋さん、夜12時まで開いてるんですよ。
酔っぱらった男の人が花束抱えてお店から出てくるのを、よく見かけて。
見ず知らずの人なんだけど、奥さん愛されてるなぁーって嬉しくなっちゃう(笑)
今野さんもお花、どうですか?」
「いや、遠慮しとく。ガラにもないことしたら、やましいことでもあるんじゃないかって
勘ぐられるのがオチだからな(笑)
じゃあ、病院まで近いったって夜なんだから、気をつけて行けよ。
お袋さんによろしく。戦略会議の時間だけは忘れんな!」
雪見を降ろした今野は、笑顔で軽く手を挙げ「じゃあな!」と車を発進させた。
テールランプを見送りながら、心がジワッと温まる。
どんな時でも今野は私達の味方でいてくれる…。
そう思えることが、どれほどの安心感を与えてくれてるか。
感謝を込めて、見えなくなる車の後ろに一礼し、花屋のドアを押し開けた。
お見舞いに持って行くことを伝え、母の大好きなブルーと黄色を基調に
アレンジメントを作ってもらった。
「こちらでいかがですか?」
「わぁ、綺麗っ♪すっごく喜んでくれると思います。ありがとう!」
お会計をしてる時に『YUKIMI&』と気付かれサインを頼まれたので、照れ笑いしながら
レジの後ろの白い壁にぎこちなくサインして店を出る。
「あー遅くなっちゃった。母さん、爆睡してるだろうなぁ。
今日はお花を置いて帰って来よう。また明日の朝、来ればいいもんね。」
病院の夜間玄関から守衛さんに会釈して入り、エレベーターに乗って
特別室や個室の並ぶ三階で降りる。
消灯から三時間ほども経った病院はシーンと静まり返ってたが、なぜか
奥の一室の前に二人ほどの人影が見えた。
えっ…?母さんの部屋辺り?誰だろ…。
一歩近づくごとにドキドキと鼓動が早くなる。
えっ、うそ…雅彦?…ひろ実ちゃん?
そこには、神戸の自宅にいるはずの弟夫婦が、なぜか泣きながらたたずんでいた。