摩天楼最後の夜
「ただいまー!……ゆき姉?…ただいまっ!」
いつもなら即座に「おかえりー!」と明るい声が聞こえ、パタパタと駆けてくるのに。
ブーツの紐を解いてる背中にピョンと飛びつき「お疲れっ!」と頬にキスするのに。
聞こえてきたのは「にゃあ」と小さく返事したラッキーの鳴き声だけだった。
まさか…!
一気に酔いも醒め、慌てて居間やキッチン、寝室を見回すがどこにも居ない。
と、その時、浴室の方からジャーッ!という水音が。
急いでドアを開けると…いた!そこに愛する人はいてくれた。
「ゆき姉…。」
「あ…お帰りっ!早かったね。まだ帰って来ないと思ってお風呂掃除してた。
お湯が溜まるまで、もう少し待って…キャッ!」
いきなり健人に抱きつかれ、手にしてた濡れスポンジと洗剤を落としそうになる。
酔ってるのか。それともローラの家で何かあったのか。
「ねぇ、どーしたの?何か…あった?」
健人がローラに連れ去られてからというもの、ずっとマーティンの言葉が頭で渦巻いてる。
『あの御方の機嫌は損なわない方が得策かと…。』
機嫌を損なうとどうなるの?一体ローラの父親は…誰?
聞きたいことはたくさんある。
でも根掘り葉掘り聞くのはいけないとも思ってる。
健人が住む世界は特殊な世界。
たとえ妻であろうとも、立ち入ってはいけない領域が有るはずだ。
だから健人から話してくれたら聞くが、自分から詮索することはしない
と付き合い出した時、心に決めた。
しかし、健人の答えは予想と違ってた。
「何にもないよ…。ゆき姉が…もういなくなっちゃったのかと思っただけ…。」
「えっ…?」
まただ。同じ理由で抱き締められるのは、これで何度目だろう。
結局、結婚式を挙げたところで健人は、何の安心も保証も手に入れてはいなかった。
知ってるよ。知ってる。
健人くんがどれだけ寂しがり屋で孤独が嫌いなのかを…。
手の中にある幸せが、するりと逃げてく恐怖にいつも怯えてることも…。
なのに…ごめんね。
明日帰って来た時にはもう「お帰り」って迎えてあげられないんだ…。
自分の悲しみよりも、健人の悲しみを思って泣きそうになる。
だけど泣かない。今泣いてしまったら…きっと明日帰れなくなる。
今夜は無理にでも笑っていよう。
「え?そんな理由?あははっ!
健人くんに黙って、いなくなったりなんかしませんって。子供みたいだよ(笑)」
「子供で…いいよ。」
キスもせず、ただ母にすがりつくように抱き締めるだけの健人が余計に切ない。
ローラの家での出来事なんて、今は取るに足らない事なんだね。
タクシーの中で香ったローラの香水が微かに立ち上ったとしても、今はそんなこと
どうでもいいや。
せめて今夜は、しばらくのあいだ蓄えておける安らぎを与えたい。
「もぅ仕方ないなぁー。ほら、よしよし。いい子いい子!
あ…!スポンジに残ってた泡が付いちゃったよ(笑)
ねぇ、一緒にお風呂入ろっか?そーだ!お風呂ん中でカラオケ大会しよう!」
「え?カラオケ大会 ?」
「開けてー!」
雪見が曇りガラスの向こうで叫んでる。
先に入って待ってた健人がドアを開けてやると、はにかみながら「飲も♪」と
グラスとシャンパンを差し出した。
「約束してたもんね、お風呂でワイン。結婚祝いだから、とっておきのシャンパンにした。
けど健人くんはもう酔ってるから一杯だけねっ。あとは私が飲んであげる♪」
「えーっ!ズルっ!」
ぬるめのバスタブに向かい合わせになり、健人がいい音を立てて開けたシャンパンを
雪見が突き出すグラスに注ぐ。
すると琥珀色の泡粒の向こうに、ツンと上向いた程良い大きさの胸が見えた。
「うーん、やっぱ俺はこれくらいがいいや。」
「え?なに?あ、やっぱ結構飲んできたんでしょ?じゃ一杯くらいで丁度いいね。」
ローラの豊満な胸と比べられてるとはつゆ知らず、雪見は健人のグラスに
琥珀色を満たしながら、お門違いなことを言ってる。
それが可笑しくて健人はクスクスと笑ってた。
「…?」
今の会話の何が可笑しかったのかは知らないが、健人が笑ってくれた。
それだけでホッとして、心が軽やかに鼻歌を歌い出しそうだった。
「じゃあ、カンパーイ!う〜ん、美味しっ♪お風呂でシャンパン、サイコー!
あ、でも酔いが回るの早いから、とっととカラオケ大会しよ。」
「カラオケ大会って…ただ歌うだけでしょ?」
「健人くんも気付かなかったでしょ?このテレビ、インターネット回線が繋いであるんだよ。
だからカラオケ出来るの。もっと早く気付きたかったぁ!」
「え?そーなの?イチャイチャばっかしてたから、テレビの存在なんて忘れてた(笑)
よっしゃ!歌お歌お♪」
二人はのぼせないようバスタブの淵に腰掛け、グラス片手に次々と自分の好きな歌を歌ってく。
マイク無しでも声が良く響くバスルームは、絶好のカラオケルームでもあった。
「あ!どーしても健人くんに歌って欲しい曲を思い出した♪
歌えると思うから入れるね。」
流れてきた曲は、尾崎豊の『oh my little girl』
健人は、あんまり歌ったことないけど…と言いつつも、雪見の想像通りの歌を聴かせてくれた。
「やっぱ思った通りだ。健人くんの声にこの歌、凄く合ってる!
持ち歌にするといいよ。絶対いいっ!
なんか、私に作ってくれた歌みたいに心に染みたもん。」
「そう思った?だって『とても小さくとっても寒がりで泣き虫な女の子さ』
って、まったくゆき姉のことじゃん(笑)」
「女の子かどうかは疑問だけどね(笑)私、健人くんの歌、温かくて大好き!
人が書いた歌詞なのに、健人くんが歌うと自分の言葉に聞こえるの。
お芝居もそう。台本に書かれてるセリフなんだけど、健人くんの口を通すと
それは健人くんの言葉に生まれ変わる。
言霊っていうのは本当にあるんだなって実感するよ。
だからね、言語が変わっても大丈夫。
英語のセリフにだって、きっと健人くんの魂が宿るよ。だから大丈夫。」
「えっ…?」
雪見は見抜いてた。健人の不安を。
発表会の主演に選ばれたのは嬉しいが、英語でのセリフに自信が無く、
自分の感情が上手く芝居に乗せられるのか、未知の世界に密かに不安を抱いてたことを…。
にっこり笑って「大丈夫」と言ってくれる雪見に、今までどれほど勇気をもらっただろう。
自分のことを何でもわかってくれて、そばに居るだけで心が落ち着き、
また歩き出す力が湧いてくる。
もう雪見のいない毎日はあり得ないのに、明日の朝にはお別れ…。
「やだ…。ゆき姉と離れたくない…。」
健人は雪見を抱き寄せ何度も何度もキスをした。
どんなにキスを重ねたところで、明日の運命が変わるわけでもないことを
知っていながら…。
「なるべく早く戻るから。それまで…いい子にしてて。」
雪見は最後の夜を健人の身体に刻みつけるように、熱い口づけでその全てを支配し始める。
このひとときだけでも愛しい人が不安から解放されるように、と祈りを込めて。
夜が更けるのもかまわず繰り返される自らを同化させる行為。
それは自分の不安を少しでもかき消すためでもある。
同じ建物に住む正体の見えない魔物から、健人を守るための結界を張るがごとく。
明日からの摩天楼は一体、窓の外から何を見つめるのだろう…。