夢見心地の蜘蛛の巣
「うっそ…。ローラもここに…住んでんの?」
健人と雪見は絶句した。
まさかローラがこの高級アパートメントの住人だなんて…。
雪見は突如襲ってきた得も言われぬ不安に、心臓をギュッと掴まれた。
「あら、ケントもここに住んでたの?知らなかったわ。
じゃあ明日からは、稽古が終わったら一緒に帰れるわねっ♪」
ローラの口振りは、明らかに「知らなかった」という口振りでは無く、
小首を傾げて健人に向かってクスッと笑った。
なんなの、この人…。
私の存在を完全に無視しようとしてる。まるで眼中に入ってないみたいに…。
昨日私達が結婚したこと、あなただって知ってるでしょ?
「ま、まぁ取りあえず入ろ。今朝みたいに人が集まると面倒だから。」
健人が雪見の背中を抱くようにして、二人は足早にエントランスへと入る。
その後ろ姿をカッと睨みながら、ローラもまたドアをくぐった。
「ローラお嬢様、お帰りなさいませ。
斉藤さまご夫妻とご一緒でいらっしゃいましたか。」
コンシェルジュのマーティンが、いつにも増して丁寧に頭を下げる。
その様子から、ローラはどこかいいとこのお嬢さんなんだと薄々理解した。
まぁ、こんな高級アパートメントが自宅なんだから、それは間違いないだろう。
「ただいま。パパは帰ってきたかしら?」
「はい、つい先程お戻りになられました。今夜はとてもご機嫌良くていらっしゃいます。
何でも、素敵なお客様がこれからお見えになるとか。」
「そう!そんなにご機嫌だった?じゃあ早くお連れしなきゃね、お客様を。
ケント!パパがあなたに会いたがってるの。きっとお酒の用意をして待ちわびてるわ。
さぁ、行きましょ!」
いきなりローラが健人の手を取り、エレベーター方面に歩き出そうとしたので
雪見は勿論マーティンまでもが驚いた。
詳しい事情は解らぬが、これはただならぬ状況なのでは…と息を飲んでる。
「ちょ、ちょっと待ってよ!健人にあなたのお父様が、何の用があるって言うの?
私、健人の留学中はマネージャーも兼任してるの。
悪いけど今日彼は疲れてるから、早く帰って休ませるわ。」
さすがにムッと来た雪見は、健人を連れて行かれてなるものか!と
語気を強めて停止命令を出す。
ところが…。
ローラはそんな雪見を微かに鼻で笑い、負けてなるものかと強烈なパンチを繰り出した。
「あら、マネージャーのくせして、タレントを置いて一人で帰国しちゃうの。
随分と放任主義のマネージャーさんね。
大事な商品に傷が付かないよう、せいぜい遠くから見守ればいいわ。」
「ローラっ!どうして雪見にそんな事を言うの?」
健人が間髪入れずにローラをきつく制したのだが時すでに遅く、雪見は心を負傷した。
そうだね…。ローラの言う通りかもしれない…。
いくら母さんの体調が悪いからと言って、健人くんを一人残して帰国するなんてね…。
ローラの言葉がボディブローのように効いて、雪見は思考回路も動きも封じ込められた。
その隙に、今がチャンス!とローラは健人の腕を再び掴んだ。
「ユキミは明日の荷造りが済んでないんでしょ?それは早く帰って準備しなきゃね。
心配しないで。どんなに酔ったって同じマンションの中だもの。
ちゃんと私が送り届けるから安心してちょうだい。じゃ行きましょ♪」
「ちょっとぉ!」
ローラに腕を引かれた健人はエレベーターが閉まる瞬間「すぐ戻るよ。」と言った。
何も心配しないで、と微笑んだ目は伝えてきたのだが、雪見はただ茫然と
二人が消えたエレベーターのドアを見つめるしかなかった。
「雪見さま…。今日のところは斉藤さまの判断が正しいかと存じます。
後々を考えると、あの御方の機嫌は損なわない方が得策かと…。」
マーティンが雪見を気遣い、穏やかな声で助言する。
その声にハッと我に返った雪見は、何でもいいからこの状況に納得のできる説明が欲しいと
マーティンにすがった。
「いったいローラの父親って何者なのっ?
どうして機嫌を損なわない方がいいの?ねぇ、教えてっ!」
「いや…口が過ぎました。今の言葉はお忘れ下さい。
私にはお客様に対しての秘守義務がございます。どうかお察しを。
ただ…。今朝私が申し上げましたお客様のうちの一人…とだけお伝えしましょう。」
「今朝マーティンさんが言ったお客様の一人…?」
雪見は頭をフル回転させて、今朝の状況と会話をプレイバックさせる。
マーティンと今朝交わした会話って…?えーと、今朝は…。
そうだ!健人くんと学校に行こうとしたら、外に人がたくさん集まってて
正面からは出られなかったんだ。
他の住人にも迷惑かけちゃうって困ってたらマーティンが、このような事は他にも、って…。
「…あ!ローラのお父さんは有名人ってことっ!?
このアパートには著名人が何人か住んでるって、今朝言ってたわよねっ?
誰なのっ!?ローラのお父さんって。」
雪見にすがられたが、マーティンは静かに首を横に振った。
「申し訳ございません。私の口からはもう何も…。
斉藤さまがお戻りになられましたら、直接お聞き下さい。
どなた様でもご存じの方でございます。」
それだけを教えるとマーティンは静かに会釈をし、また自分の定位置に戻った。
誰でもが知ってる有名人…。
誰だろ…。一体誰なんだろう…。どうして健人くんを…。
どうしよう…。明日私が帰国したら、この先はどうなってくんだろ…。
どうしよう…どうしよう……。
玄関の鍵を開け、健人のいない寝室によろよろと迷い込んだ雪見は、
からっぽのスーツケースの前にペタリと座り込んだ。
『どうしよう…』という言葉だけが頭に浮かび、まるで前には進めなかった。
その頃、健人は…。
「パパ、ただいまー!ケントを連れてきたわよ♪
ケント、遠慮しないで入って。紹介するわ、うちのパパ。」
「あ…!」
健人の部屋より更に広いリビングに通され、そこに居た人物が振り向いた瞬間
息が止まりそうに驚いた。
パパと紹介されたのは、今もっともハリウッドで活躍する人気俳優のうちの一人、
ロジャーヒューテックだったのだ。
「は、初めまして!日本から来た斉藤健人と言います。
ローラさんとはアカデミーで一緒に…」
「まぁ堅い挨拶はやめにしよう。待ってたよ。どうぞ座りなさい。
君に会えるのを楽しみにしてたんだ。
なんたってローラの相手役のロミオだからねぇ。
もちろん当日のスケジュールはもう空けてある。楽しみで仕方ないよ。
さぁ、まずは乾杯しよう。」
緊張でぎこちない会話しか出来ない健人のグラスに、その大俳優は笑ってワインを注ぐ。
何の心の準備もないまま、こんな状況になるなんて…と健人は夢見心地だ。
その隣でローラが満足げに微笑んでる。
もう…あなたは私の手の中にいるのよ、と…。