微笑みの罠
「さーて。もうみんなセリフは頭に入ってるわよね?
昨日の配役発表から一夜経ってるんだから。
ま・さ・か忙しかったとか、今日までに覚えてこいって言われてないとか、
上を目指してる人達がそんな恥ずかしい言い訳しないでしょうね?」
ホールの片隅で撮影の準備をしてた雪見は、先生が皆に向かって言った言葉に
思わず「えっ!?」と小さく声を上げてしまった。
うそっ!昨日の健人くんにセリフを覚える時間なんて無かったよ!?
ヘリコプターでワシントンまで飛んできて、ホワイトハウスからずっと
みんなで一緒に居たんだから。
それに家に帰ってからだって…。あー、お風呂でじゃれてる場合じゃなかったぁ!
主役のロミオがセリフも覚えてないなんて、役を降ろされちゃうかも!?
どーしよ!雪見のバカバカバカーっ!!
妻として自分の配慮のなさに愕然とした。
お遊びの留学ではない。そんな甘い世界ではないことを、首根っこを掴まれて
思い知らされた気がする。
絶望的な気持ちになって、カメラを構える気も失せた。
今日が最後の撮影日なのに…。
ところが…。
健人がこっちをチラッと見てニヤッと笑った。不敵な微笑みで。
その意味するところが解らなかったが、とにかく祈りながら息を詰めて見守った。
するとどうだろう。
健人の口から滑らかに、ロミオのセリフが流暢な英語で溢れ出したのだ。
「えっ…?」
しかもセリフをただ読んでるだけではない。
その言葉に感情が乗って、動いてる姿はすでにロミオにしか見えなかった。
「うそっ…。凄い…健人くん…。健人くん、すごーいっ!!」
「シーッ!静かにっ!ユキミもケントに負けずに仕事をなさいっ(笑)」
あまりの驚きと感動に思わず手を叩いて喜んだが、それはもちろん先生に叱られ
みんなにはドッと笑われた。
だが健人は、そんな新妻雪見が可愛くて可愛くて。
みんなと一緒にクスクス笑ったら、ストンと肩の力が抜けて更にやる気が満ちてきた。
ありがとう。ゆき姉はやっぱり俺を照らす太陽だよ。
プロの役者としての健人を再認識した雪見は、こうしちゃいられない!
と速攻仕事モードに切り替わる。
長い髪を素早くアップにまとめると、目の色が変わりオーラが一変。
先程までの無邪気で天然な雪見は姿を消し、仕事が出来る女の強さと鋭さを身にまとった。
当然プロとして、ファインダーの向こうの人を自分の夫だとは思っちゃいない。
そこにいるのは日本が誇る若き名優、斉藤健人だ。
そして自分も、健人を撮らせたら右に出る者のいない世界一のフォトグラファーだと誇り、
舞台上でひときわ光り輝く一番星を目で追った。
凄いものを目撃してる興奮と、それを余さず手中にするぞという闘志にかき立てられて。
しばらくは夢中になって健人だけを追い続けたのだが、ふと我に返って舞台全体を見渡すと、
凄いのは健人だけではなかったことにすぐ気付く。
セリフが入ってないどころか誰一人としてセリフを間違える者などなく、
この発表会がいかに人生の重要なチャンスを握ってるかがわかる熱量を皆が放出してた。
ホンギは?と見ると、ジュリエットのいとこで後にロミオに殺されてしまうティボルト役。
ロミオと敵対する人物で、二人が絡む格闘シーンは劇中の見所のひとつ。
重要な役どころである。
そのホンギもまたセリフと動きが完璧で、それを寝ずに頭に入れたかと思うと、
こんな大事な時期に私達が振り回してしまった事を申し訳なく思った。
それにしても役者とは、よくもこんなに膨大なセリフを暗記した上、
芝居までつけられるもんだと感心する。
健人を見ていていつも思うのだが、頭が良いということは、役者にとって
途轍もなく大きな資質のひとつである、と。
夕方5時。
朝からみっちりと濃厚な稽古を繰り返し、発表会稽古初日が無事終了。
それと同時に雪見の写真集撮影も、本日をもって終了した。
短い間だったが、みんなには自分までもがクラスメイトのように接してもらい、
撮影にも多大なる協力を頂いて感謝の念でいっぱいだ。
「本当にお世話になりました。
最初から最後まで、部外者である私を温かく受け入れてくれてありがとう。
お陰でとても良い写真集が出来上がったと、すでに自負しております。
明日…私はケントを残して帰国することになりました。」
「ええーっ!」
みんなには知らせてなかったので、一斉に驚きの声が上がった。
「ホンギが指輪に刻んださっきの言葉って、そーいう意味だったのぉ!?知らなかった!」
「うそっ!ユキミだけ帰っちゃうの?どうして?せっかくお友達になれたのにー!」
「昨日結婚したばっかだろ?もうケンカしちゃったのかよ?」
思いがけず掛けられた言葉の数々に雪見はウルウルして、唇を真一文字にキュッと結ぶ。
すると健人がスッと隣りにやって来て、そっと肩を抱き寄せた。
「ユキミは入院してるお母さんの看病に帰るんだ。
それと昨日の騒ぎで、事務所から呼び出し食らっちゃったからね(笑)
でも俺たちなら大丈夫だよ。ほらっ、いつも一緒だから。」
健人は真新しい指輪の輝く左手で拳を作り、雪見の前にずんと突き出す。
それを見て雪見も左手をギュッと握りしめ、健人の拳にコツンと合わせて目を見て笑った。
「よっしゃ!じゃあこれからユキミの送別会だ!
ついでにケントの結婚祝いもしとくか(笑)さ、みんな行くぞー!!」
「ヤッホー♪みんなで飲み会、久しぶりぃ〜♪」
「キャー嬉しいっ!今日はいっぱい頑張ったから飲みたい気分だったんだぁ!」
「みんなシャワーを急げよー!遅い奴は置いてくぞー!」
「えっ!?ちょっ、私の送別会なんていいよー!みんな疲れてるんだからぁ!
それに明日だって稽古が…」
盛り上がりながら教室を出て行くみんなに雪見が慌ててる。
すると健人がサッと肩を組んで雪見に何やら耳打ちしたあと、
ぽつんとそこに突っ立ってるホンギとも肩を組んだ。
「残念ながらお風呂でワインはおあずけだねっ(笑)
さ、ホンギも行くぞっ!もちろん指輪のお礼だから俺のおごり♪」
「ほんとにっ!?やった♪めっちゃ腹減ってたんだー!
シンコンショヤなのに悪いねー。」
「違うっちゅーの!あのね、新婚初夜ってーのは…」
「健人くんっ!それ以上教えなくていいからっ!」
三人が肩を組みゲラゲラ笑いながら、それはそれは仲良さげに廊下を歩く。
その少し後ろからローラが、冷たい視線を送ってるとも気付かずに…。
「よしっ!じゃあ、ケントとユキミの結婚にカンパーイ!」
「カンパーイ♪二人とも、おめでとう〜!!」
アカデミーから程近いお洒落なカフェバーに移動した一行は、思い思いの飲み物を持って
健人と雪見の前に集まり、二人とグラスを合わせては乾杯を繰り返す。
「今日はサイトウケントさまご夫妻のおごりだそうです!皆さんもお礼言ってね!
さぁ、ジャンジャン料理が来るから、まずは食べて飲もう!」
「いただきまーす♪」
宴が始まって少し経った頃、ふと周りを見渡した健人が、向こうでぽつんと
一人でいるクラスメイトに気付き声を掛けた。
「ローラもこっちに来ない?一緒に飲も?」
「えっ?…いいの?」「もちろん!」
いつもさりげなく気を配る健人の優しさを、雪見もホンギも誇らしく思う。
心がほんわかした二人は、笑顔でローラに向かって手招をした。
彼女のはにかんだ微笑みが、捕獲完了の合図とも知らずに…。