不測の事態
「健人くん、起きてー!もう起きないと遅刻しちゃうよ?
健人くんってばぁ!朝ご飯出来てるよー!
あ…今、ニヤッとした!絶対寝たフリしてるでしょ?健人く…キャッ!」
「つーかまーえたっ!おはようのチューしてくんないと離してやんない。」
ベッドの上で健人は雪見を捉えて引き寄せ、耳元で甘えた声を出す。
たった2時間しか仮眠出来なかった割には寝起きも良く、朝から機嫌がいい。
「チュッ♪おはよ!私の可愛いダンナ様っ。寝不足だけど大丈夫?」
健人の顔を覗き込み、顔色を見ておでこに手を当て今日の体調をチェックする。
アイドルな旦那様の健康管理は、奥さん兼生涯マネージャーの重要な任務の一つ。
彼女ならまだしも、妻となったらその責任は大きい。
「うん、なんか今朝はスッキリ起きれた。めっちゃ気分いい。
お遊びみたいな結婚式だったけど、ゆき姉と結婚したんだなって感じの朝。
ゆき姉こそ、ほとんど寝る時間無かったんじゃない?大丈夫?」
いつも自分のことより人の心配をする優しい健人が大好きで、もう一度
チュッ♪とキスをした。
「私?もうメイクも完了、ご覧の通り完璧な朝よ(笑)
掃除も洗濯も終わったし、あとは健人くんと朝ご飯食べて学校行くだけ。
今日はお世話になったみんなに、お別れの挨拶してこなきゃ…。」
雪見は健人と話し合い、あさって二人きりで挙げるはずだった結婚式をキャンセル。
急遽明日夜の便で帰国することにした。
事務所に再三呼び出されたせいもあるのだが、母に送った結婚報告のメールに、
何も返信が無いことに心がざわついてた。
「ごめんね、早く帰ることになっちゃって…。
せっかく式を挙げたのに、何にも奥さんらしいことしてあげられなかったね。」
雪見は帰国することに未だ迷いがあった。
健人に諭された通り、母の看病を悔いのないようしてくるつもりでいた。昨日までは…。
しかし発表会の主演に健人が選ばれたとなると、その状況は一変するのだ。
夢に繋がるかも知れない大事な時に、妻である自分が隣でサポートしないでどうする。
ここ一番に健人が最大限の力を発揮出来るよう、心身共に支えるのが
結婚することの意味であり、私にそれを託してくれたファンや事務所の望みではないのか。
自問自答するうちに自分の答えが輪郭を現した。
やっぱり…母さんの顔を見たらここへ戻って来よう。
母さんとの約束を全うするんだから、親不孝娘でも許してくれるよね。
でも…健人くんにはまだ言わない。
絶対戻って来るなと言うに決まってるから…。
いつもと変わりない朝に見えて、だけどやっぱり違う朝。
簡易な式を挙げたというだけで心の置き所がこんなにも違うなら、
籍を入れるということは、どれほど大きな作用があるものか。
いまだ白紙のまま机の引き出しに眠る婚姻届が、ちらりと頭をかすめて通り過ぎた。
「ねぇ、健人くんの稽古って、今日何時に終わるかな?
終わったらどっか飲みに行かない?結婚のお祝いワイン、今朝飲み損ねちゃったし(笑)」
アパートのエレベーターに二人手を繋いで乗り込み、雪見が笑いながら健人を見上げてる。
その無防備な笑顔に何時間か前の浴室での雪見を思い出し、健人はたまらずキスをした。
「飲むんだったら家で飲みたい。しばらく会えないんだから二人っきりで居たいし…。
何だったら、今夜こそお風呂でワイン飲もっか。」
「えっちー!そんなことばっか考えてんの?(笑)」
「新婚だよ?俺ら。ふつー考えるでしょ(笑)
あ、マーティンさん、おはようございます!行ってきまーす♪」
じゃれ合いながらエレベーターを降りたのだが、エントランスに立つ
コンシェルジュのマーティンが、大慌てて二人を呼び止めた。
「ちょっ、ちょっとお待ち下さい、斉藤さまご夫妻っ!
外が大変な騒ぎになっております!今日は裏口から出られた方がよろしいかと。」
「大変な騒ぎ…って?」
このアパートメントのガラス窓はすべて、外部から内側が透けないガラスを使用してるが、
それでも健人と雪見は大きな観葉植物の陰から恐る恐る外の様子を伺った。
「なっ、なにっ?この人だかり!外で何か事件でもあったんですかっ!?」
雪見が驚いて振り向きマーティンに聞いたのだが、その返事の方が驚くべき事だった。
「皆さん、お二人を一目見ようと集まられた方々のようです。」
「お二人って?…え?ま、まさか俺たちのことぉ!?うそっ!」
「朝のニュースはご覧になりませんでしたか?
昨日のパーティーでの様子、奥様が一番大きく紹介されておりました。
それと…斉藤さまご夫妻とお仲間たちがホワイトハウス前と、このアパート前で…
お騒ぎになってる場面も。」
「ええーっ!そんなのもニュースになっちゃったのぉぉ!?」
朝はゆっくり語り合いながら朝食を取りたいので、テレビは付けない派。
しかも今朝は時間が無かったので、ネットも開かなかったのだが、
まさかまさか、世の中がそんな騒ぎになっていようとは…。
「ごめんなさい!マーティンさん。
ここの皆さんにもご迷惑かけちゃう。どうしよ…。」
思わぬ事態に動揺した雪見は、健人の手を両手でギュッと握り締め、
背中に隠れるようにうつむいた。
「ご安心下さい。このアパートメントには24時間在中のガードマンもおりますし
セキュリティも万全でございます。
不測の事態に備え、ここの他に3箇所の出入り口もございます。」
「えっ?不測の事態…?」
マーティンは執事として二人に余計な心配と気遣いをさせぬよう、極めて穏やかに
いつもと変わらぬ笑みをたたえて健人と雪見を交互に見る。
「はい、さようでございます。
お二人はお会いになられてないかと存じますが、実はこのアパートには
他にも何名様かの著名な方がお住まいになられていて、このような事態は
そう珍しいことではないのです。
ですからあまりお気になさらずに。
さぁ、学校に遅刻してしまいますよ。裏口へご案内致します。
そこからですと地下鉄駅はすぐそば。出られましたら真っ直ぐ先へ進んで下さい。
どうぞお気を付けて。今日も素敵な一日を。」
マーティンに笑顔で見送られ、健人と雪見は手を繋いで地下鉄駅まで駆け出した。
人混みに紛れてホッとしたのも束の間、あちこちから視線を感じる。
二人は場所を移動しながらサングラスをかけ、キャップを目深にかぶり
息を殺して地下鉄に飛び乗った。
そしてやっとアカデミーへ到着。
「ふぅぅ…やっと着いた…。
にしても、メンドクサイことになっちゃったね…。」
雪見が溜め息をつきながら廊下を歩く。
「東京と違って、ここじゃ誰にも知られてないから伸び伸びしてられたのにね。
優や翔平と会えて、ちょっと浮かれ過ぎたな。でも気持ち切り替えて稽古しなきゃ。
おはよー!…ございます?」
「な、なにこれ!?」
教室のドアを開け、最初に目に飛び込んできたもの。
それは黒板いっぱいに書かれた、二人へのお祝いメッセージであった。