シンコンショヤ
「ただいまー!はぁぁ…やっと帰ってきたぁー。長い一日だったね。
学校行くまであと4時間しかないよ。健人くんは早くお風呂入って、少しでも寝なきゃ。
めめー!ラッキー!良い子にしてる?」
ご主人様のいない部屋で寄り添って寝てたのだろう。
玄関先で呼ぶ雪見の声に起こされ、二匹はのそのそと寝ぼけ眼でやって来た。
「ごめんな!俺も出かけちゃったから腹減っただろ?今ご飯あげるよ。」
タキシードのまま猫に餌をやる健人と、ウェディングドレス姿でお風呂にお湯を張る雪見。
日常生活ではあり得ないシチュエーションに、二人が同時に気付き同時に笑った。
「なに?このシュールな光景(笑)」
「あははっ!やっぱお洋服はTPOが大切ってことね。
家ん中でウェディングドレスは似合わないって、よくわかった。」
そう言って顔を見合わせた後、お互いなんだか照れてまた笑った。
今日から二人で暮らし始めるわけでもなく、今までも一緒に暮らして来たのに
同じ空間に居ることがどこかくすぐったくて、ドキドキするのはなぜなんだろ。
やっぱり結婚式って儀式は…特別なことなんだ。
「さぁーってと…。着替えっかな。やっぱこんなカッコは窮屈でかなわんわ。
…あ!そーいや言うの忘れてた。俺…。」
「な、なにっ?」
雪見は何を健人に言われるのかと、ドキドキが加速した。
俺…?俺の後に続く言葉って…なに?俺のこと、いつまでもよろしく?
いや…俺、やっぱ他に好きな人が…とか!?やだぁぁあ!!
「俺…。6月の発表会で…ロミオに選ばれたよ。主演に選ばれた。」
「え…?うそっ!ほんとにっ?健人くんが主演…なのっ?
……キャーッ!!凄い凄いっ!アカデミーの発表会でしょ!?
色んなとこから、スカウトがわんさか集まるって言う?
嘘みたいっ!おめでとう!やったねっ!!
……嬉しい…。おめでとう…ほんとにおめでとう…。」
雪見は思いもしなかったビッグニュースに、顔を覆って泣き出した。
留学早々の大抜擢は、世界への階段を確実に登り始めた証しだと…。
泣きじゃくる雪見を健人は笑いながらギュッと抱き締め、頭を優しく撫で続ける。
そう…この人に一番に伝えたかったんだ。大好きなこの人に…。
「泣き虫だなぁ、ゆき姉は(笑)。でも…早く伝えたかったよ。
ゆき姉なら絶対喜んでくれると思ったから…。
早く会って伝えたいって強く願ったら、優と翔平がゆき姉んとこに連れてってくれたんだ。」
「えっ?そうなの?
じゃあホワイトハウス前で会った時、早く教えてくれれば良かったのに。」
胸の中で涙を拭きながら不思議顔で見上げると、健人は優しい目をして雪見を見てた。
「だって伝えたらキスしたくなるし、キスしたらすぐ抱き締めたくなるし、
抱き締めたらゆき姉が…欲しくなるじゃん。だから…。」
「健人くん…。」
「本当に早く会いたかった。愛してる…。」
健人はそっと唇を重ね、何度も何度もキスをした。
やっと自分の元へ戻ってきた雪見を、もう誰にも触れさせはしないと…。
勝手に頭に浮かんでは消える学の存在を、自分の中から完全消去するため、
キスしては「愛してる。」を繰り返した。
それはまた雪見も同じで、永遠にも思えた離ればなれの時間を1秒でも早く埋めたくて
健人の首に手を回し、自ら唇を寄せていった。
抱き締めてた健人の手が、スッとウェディングドレスのファスナーに伸びた時である。
雪見はあることをハッと思い出し、慌てて健人から身を離した。
「ちょっ、ちょっと待って!お風呂のお湯が溜まったみたい。
健人くん、先に入ってて。私も着替え用意したら、すぐに行くから。」
すんでの所でドレスの中身を思い出したのだ。
学にプレゼントされた、あの地中海ブルーの下着を…。
別にやましい事はないし、ブルーのドレスに合わせたファッションの一部ではあるけれど、
元カレにプレゼントされた派手な下着は、健人に見せてはいけない気がした。
見つからないうちに処分しよう。
あのキスも…早く忘れよう。ごめんね、健人くん…。
今頃になって後悔の念が襲ってくる。
気持ちの無いキスなんて、ただのハグと変わりないじゃない。
あの時はそう自分に言い聞かせ、納得させたはずなのに…。
だけど…。
さっきの健人のキスは、何かを感じ取ってるようにも思えて微かに怯えた。
このままではいけない…。
早く気持ちをリセットしよう。真っ直ぐ前だけを向いて歩こう。
今日私達は…結婚したのだから。
「お待たせ。えへっ♪ワイン持って来ちゃった。
もうすぐ夜明けだけど、特別な日だから…いいよね?」
雪見がワイングラス2個と、程良く冷やしたとっておきの赤ワイン1本を手に
照れながら浴室に入ってきた。
明かりを消した広い浴室。
ブラインドを上げた大きな窓の外には、まだ薄墨色の闇。
だが窓辺に置いたキャンドルの明かりが、生まれたての朝陽の代わりに
ゆらゆらと柔らかい光で雪見の裸身を神々しく映し出す。
それはまるでヴィーナス誕生の瞬間を目撃したかのようで、健人はバスタブに浸かりながら
その美しさに目も心も奪われた。
「綺麗だね…。めっちゃ綺麗…。」
白日の下に身を晒されたかのような羞恥心。
雪見はワインとグラスを手にしたまま、大急ぎで健人と向かい合わせに身を沈める。
「やだっ、恥ずかしいからジロジロ見ないで。いいから乾杯しよ。」
健人に手渡すためにグラスを突き出したのに、健人はその腕をグイと引き寄せ
「その前にキスしたい…。」と再び唇を重ねてきた。
待ち焦がれた裸身を前にして、22歳の若者がのんびりワインなんぞを楽しむ余裕はない。
あっという間に囚われた雪見は観念し、キスしたまま窓辺に手を伸ばして
ワインとグラスをコトンと置いた。
それを合図に二人は空白の時間を埋めようと、むさぼるようにお互いを求め合う。
健人は学の陰を払拭するために。雪見は自分の背負った後ろめたさを帳消しにするために。
やがてお互いの中から一人の男が消え去ると、今度は安心して愛に溺れた。
男であることの上位と、一回りも年上であることの上位が二人を対等にし、
健人が雪見を支配した次の瞬間、今度は雪見が健人を支配する。
一方だけが受け身ではなく、バランス良く拮抗することを二人は何度も楽しんだ。
長い長いキスと共に窓の外が白み始める。
今宵の終わりを告げに来た太陽が、恥ずかしげに顔を覗かせた。
窓を開け、火照った身体に冷たい風と朝陽の火の粉を振りかけると、
たった今、新しい自分が生まれた気がした。
「ねぇ…。あのブランドのモデル…引き受けんの?世界デビューの話は?
俺は…ゆき姉がやりたいようにすればいいと思ってる。
ゆき姉の幸せが、俺の幸せだから…。」
眩しい朝陽を浴びながら、今野に話した時とは明らかに違う感情でそう言えてる自分を感じた。
この太陽は世界にひとつだけしかない。
俺たちは同じ空の下、たとえどこにいても見上げてる太陽は同じなんだ。
それさえわかってたら、少しも怖くない。
だが雪見は屈託なく笑ってる。
「私?…両方ともやらないよ。そんなに器用じゃないもの。
日本に帰ったら、写真集の約束してる人がいっぱい待ってるし、
みずきんとこの猫かふぇにも本腰入れたいし。
それに…今は健人くんのお世話で精一杯。だって私、奥さんだもん!
さーてと、朝ご飯でも作りますか!」
健人の頬にチュッ♪とキスして出て行く後ろ姿には、いつか見た天使の羽が付いてる気がした。