飛んで火に入る夏の虫?
思いもしない展開で突然真由子の実家へ行くことになり、頭ん中はこれ以上ないくらいに混乱してる。
「ちょっと待ってね。今、一つずつ考えを整理するから。」
タクシーの中で、私はため息をつきながらそう言った。
「のんびり考えてる時間はないよ。この時間帯ならニ十分あれば着くから。
まず、これだけは約束!
父さんに、雪見と健人の本当の関係は絶対言わないこと!」
意外な真由子の提案であった。
大好きなお父さんぐらいには、本当の事を話しちゃうのかと思った。
「はとこ同士って話は、ちゃんとしてね。でも恋人同士だって事は、絶対言っちゃダメ。
自分の親を信用しない訳じゃないけど、ビジネスにおいては、たとえ親子であろうと秘密厳守は当たり前。
だから、父さんに話す内容はそれ以外の事ね。
まぁ、私が話を進めるから、雪見は聞かれた事だけ話して。
あとは…。実家に帰ったら、私は怪しまれないようにいつもの調子に戻るから。
それを見て、あんたは笑わないように!」
一体、どんな調子になっちゃうんだろ?
笑わないように!なんて釘をさされたら、かえって笑っちゃいそうなんだけど…。
取りあえず「うん、わかった。」とだけ返事しておいた。
「さ、もうすぐ着くよ。いい?必ず今日で決めちゃうからね。
交渉なんてもんは、明日があると思ってたらダメ!
必ずどこかに、さらわれちゃうんだから。
タッチの差で契約取れないなんてこと、しょっちゅうなんだよ。
だから最初のプレゼンが肝心なの。
いかに相手の心を掴んで離さないか!ここにかかってる。
まぁ、私のいつもの仕事ぶりを、あんたに見せてあげる。
あ、運転手さん。その信号の手前でいいです。」
「ここだよ。」と言われて見上げた家は、夜の暗闇でもひと目でわかる、いわゆる豪邸であった。
「この場所に、この豪邸?真由子んちって、どんだけお金持ちなの?」
「ぜんぜんお金持ちなんかじゃないよ。」
「こういう家に住んでる人を、世間ではお金持ちって呼ぶんだよ。」
深呼吸して自分を落ち着かせる。
隣で真由子が、大丈夫、大丈夫って言うけれど、ちっとも大丈夫なんかじゃない。
自信がないから、健人の事務所に初めて行った時より緊張してる。
もうここまで来たら、あとは真由子にすがるしかないと自分に言い聞かせた。
「ただいまぁー!
あ、ママ、久しぶり!元気だった?」
「ほんとに久しぶりね!あなたも元気そうで良かった。
あら、ごめんなさい!お友達も一緒なのに立ち話なんて。
ようこそいらっしゃいました。いつも真由子がお世話になって。
どうぞ、上がって下さいな。」
「こんな遅い時間にお邪魔しまして申し訳ございません!
浅香雪見と申します。こちらこそ真由子さんには、いつも大変お世話になっております。」
私は夜分の突然の訪問を詫び、通された居間へ恐縮しながら入る。
やはり、想像通りのお金持ちらしい。
キョロキョロするのは、はしたないと思いつつ高級感溢れるインテリアに目を奪われる。
え?壁の絵画はモネの『睡蓮』じゃない⁈
本物⁇
と、そこへ。
二階の自室にいたらしい真由子の父がやってきた。
真由子と母は、キッチンに入ったままだ。
早く戻ってきてー!
「あ、あの、わたくし、真由子さんの友人の浅香雪見と申します。
今日はこんな時間にお伺いしまして、本当に申し訳ございません。」
ソファーから立ち上がり、深く頭を下げた。
すると真由子の父は、にっこり。
「あぁ、斎藤健人の専属カメラマンの浅香さんですね。
お噂は聞いてます。色々大変ですね。
まぁ、そうかしこまらずに。どうぞお掛けください。」
やはり話は広まってるのだと動揺した。
「あ、いえ、違うんです!あれは誤解で…。
私と斎藤健人は祖母同士が姉妹の、はとこなんです!」
とっさに弁解したが、誰の目から見ても私はうろたえてた。
どうしよう!何から話せばいいんだろ。
やっぱり噂がリークされた出版社には、すべての部署に話が広まってるんだ…。
二十代向けファッション誌の編集長だって聞いてたけど、これじゃ飛んで火に入る夏の虫。
真由子、早く助けて!
父との間に気まずい沈黙が流れ出したその時、やっと真由子と母がキッチンから戻ってきた。
二人が持つトレーにはワインとグラス、おつまみが乗っている。
「よう、お帰り!元気そうな顔見て安心したぞ。」
「パパも元気そうね!良かった。 」
そう言って真由子は父の隣に座り、外国人並みのハグをした。
「もう自己紹介ぐらいは済んだ?取りあえず乾杯しようよ。
ママ、お願い。」
母がワインの栓を抜き、四つのグラスに注ぎながら嬉しそうに言った。
「パパ、このワイン、真由ちゃんが買い付けたんですって。
今度日本に輸入されるそうよ。お仕事、頑張ってるわね。」
「おぉそうか!それは楽しみだな。どれどれ、早速いただくか。
真由ちゃん、お帰り!それと浅香さん、ようこそ。
じゃ、乾杯!」
四人は軽くグラスを合わせ、ワインを一口飲み込んだ。
「美味いじゃないか!これは売れるぞ。
いい仕事したな。さすが、我が娘だ。」
真由子の父は、先ほどとはうって変わって上機嫌だ。
久しぶりに会った一人娘と酒が飲めるとあって、大層嬉しそう。
真由子は自分の事をファザコンだと言ってたが、この父も娘を溺愛してる様子が随所に見られた。
「お前がパパにお願いがあるって言うから、ベッドで本を読んでたけど飛び起きたぞ。
こんな時間に何事かと思ってね。」
「本当に済みません!お休み中のところを。」
私は再度、真由子の父に詫びを入れた。
見ると、時計はすでに十一時半を回ってる。
「いいんですよ、そんなにお気になさらないで。
真由子はいつも忙しく仕事してるものですから、帰宅するとなると大体がこんな時間なんです。
それも本当に突然に。でも顔を見れるだけで嬉しいんですよ。」
真由子の母が、目を細めて心から嬉しそうにそう言った。
とても穏やかで、優しそうな母だ。
「じゃあ、そろそろ本題に入るとしようか。
で、斎藤健人の写真集を、うちの社で受注してほしい、と…。」
いよいよ勝負のときがやって来た。