最後のキス
二人以外、誰もいない部屋。
隣のホールからは、またヴァイオリンの音色が聞こえてくる。
楽しげな語らいのざわめきも…。
そして学と雪見は…8年前と同じに穏やかなキスをしていた。
拒否するでも突き放すでもなく、自分を受け入れてくれたことが嬉しくて愛しくて、
学は8年分の思いを込めた長い長いキスをした。
「やっと…そばに来てくれた…。愛してる…。出会った時からずっと…。
多分一日も変わらずに…。」
唇をそっと離して学が言った。
愛する人を、やっとこの腕に抱き締めることの叶った喜びが、微かに声を震わせる。
それは、初めて唇を重ねた日の喜びにも似ていた。
この空間だけ時が止まったかのような静寂の中に、学の積み重ねてきた想いが
ほろほろと解けてゆく。
「もう…離したくない。雪見のいない日常に戻りたくない…。
俺と…結婚して欲しい。」
突然の、二度目のプロポーズ…。
でも、どこかでそんな気がしてたから、雪見は思いのほか冷静に聞いていた。
「あの時は…8年前は日本を離れれば忘れられるだろうと思ってた…。
だけど…それは大間違いだと、すぐ気付いたよ。
忘れるなんて不可能で、雪見の代わりなんてどこにもいないと思い知った…。」
「………。」
「あれから毎日後悔したよ…。どうしてあの時、簡単に引き下がってしまったのかと…。
無理にでも連れて行けばきっと…雪見は俺をそのまま愛し続けてくれたに違いないのに…。
誰も…俺たちの間に入ることは無かったのに…。」
黙って最後まで聞いてやろうと思ってた。
思い残すことなく、すべてを吐き出させてやろうと思ってた。
だが…健人のことを言い出したから、ここでゲームセット。
いつまでも答え合わせをしないわけにはいかない。
私の答えは一つしかないのだから…。
「少しは…気が済んだ?あと私に言い残す事はない?」
「…えっ?」
学は今頃気が付いた。
キスする前と、雪見の心が何一つ変わってないことを…。
上気してた心がスッと冷め、束の間に見てた夢からも覚めた。
「ごめんね。2回もプロポーズさせて…。
でも、101回プロポーズされても返事は同じだから。
この身を誰かに支配されたとしても、心は彼の元にあるの。健人くんのところに…。」
「どうして…俺じゃダメなんだ?俺よりあいつを選ぶ理由を教えてくれ…。
俺のどこがあいつより劣ってるのか教えてくれっ!」
学は両手で痛いほど雪見の腕をギュッとにぎり、すがるような目をして訴えた。
初めてのプロポーズを断られた、26歳のあの日と同じ目をして…。
「学が劣ってるわけじゃない。あなたはいつだって優秀よ。
それに私が人を優劣で判断すると思う?」
「じゃ…なぜあいつを選んだ…。俺が納得できる答えを教えてくれ…。」
すでに打ちひしがれ、うなだれてる学をこれ以上傷付けるのは本意じゃない。
彼は何も悪くない。
ただ生きてる世界が狭いだけ。見てる空が限られてるだけ…。
「今日初めて知ったわ。あなたが意外にもエンターティナーだってこと。
みんなの目がキラキラ輝いてたもの。それにあなたも生き生きしてた。
日本よりもアメリカの空気が、あなたに合ってる気がする。」
「何が…言いたいんだ?」
判決を言い渡される囚人のように、次の言葉に怯えてる。
そんな目をしないで…。今日の日を、悪い思い出にしたくない。
でも仕方ないの。何度数式を解き直したって、答えは一つしかない。
「あなたは私じゃなくても大丈夫。きっとこの先の人生に、運命の人が待っている。
だけど健人くんは…私じゃなくちゃダメなの。」
それは…自分自身に言い聞かせた言葉…でもあった気がする。そう思いたい…と。
「あいつが…じゃなく、雪見はどうなんだ…?」
学の真剣な目をした問い掛けに、一瞬静寂が戻る。
だが雪見は顔を上げ、きっと学が今まで見たこともないような笑顔を作って、
キッパリと言い切った。
「もちろん彼が運命の人!だから健人くんと結婚するの。」
やはり…キス一つで雪見の運命を変えることは出来なかった…。
だがやっと今、学は自分の心に区切りがついた瞬間を見た気がした。
太陽のように眩しい雪見の笑顔…。
それは目の前の自分を素通りして207マイル、遙か330キロ先の健人に向けられてると思った。
「そっか…。わかったよ。今度こそ踏ん切りがついた…。
人間、同じヤツに二回も振られると、ダメージも二倍以上になるかと思ったが…
そうでもないんだな。貴重なデータになったよ(笑)
よしっ!向こうに行って、まだ飲んでないビールで乾杯しよう。
ここでしか飲めないビールを飲まずに帰ったら、一生後悔するだろ?」
「学……。よく私のこと、わかってるねっ!」
宴はもう終盤を迎えた様子だったが、まだみんな大統領を囲んで談笑してる。
夫人のミシェルは招待客のご婦人方と、娘二人は良い子にしてるのもそろそろ飽きたのか
揃ってチョロチョロと歩き回ってる。
「へぇ!これが『ホワイトハウス・ハニー・エール』のダークね!
めっちゃ美味しそう♪いっただきまーす!あ、ゴメンゴメン!乾杯するんだった(笑)
じゃあ、今日のサイエンスショーの大成功を祝して!」
雪見はビールの泡が消えないうちに早く口を付けたくて、早口でまとめようとしたが
学はお構いなしにゆっくりと、「雪見の結婚を祝して。」と言った。
「私の結婚を…祝ってくれるの?」
「もちろん。雪見の幸せを祈ってるよ。」
本心に探りを入れるように学の瞳をジッと見つめたが、これ以上の追求は何の意味もないと、
にっこり微笑んでその言葉を受け取った。
「ありがとう。私も学の幸せ、祈ってるよ。早く運命の人に出会えますように…。
じゃ、お互いの幸せを祈ってカンパーイ!
う〜ん!これ美味しいっ!私、さっき飲んだライトよりこっちの方が好き♪
もう一杯もらってこよーっと♪」
雪見がウエイターからビールを受け取り、お腹が空いてることにも気付いて
オードブルの盛り合わせと共に学の元に戻ると、そこには大統領の愛娘
14歳のジェシカと11歳のキャシーがいた。
「あら、学センセの恋のお相手かしら(笑)私はお邪魔だから、向こうで飲んでるわね。」
「ちょ、ちょっと待て!いいからここに居ろっ!いや、居て下さい!」
学ファンだと言うおしゃまな女の子二人に言い寄られ、タジタジな学が雪見に助けを求める。
それをクスクス笑いながら「しょうがないなぁ!」と恩着せがましく二人を引き受けた。
「猫の写真集、見てくれた?可愛かったでしょ?」
「うん!すっごーく可愛かった!パパに猫をおねだりしちゃった!」
キャシーはよほど気に入ったのか、雪見があげたコタとプリンの写真集をまだ胸に抱いている。
それを姉のジェシカが引ったくるようにして手に取り、一番最後のページを開いて見せた。
「ねぇねぇ!この人だぁれ?すっごーくカッコイイんだけど!」
指差す先を見るとそれは健人であった。
「あ、この人?カッコイイでしょ?これ、私のダンナさんになる人(笑)」
「ほんとにぃ!?うそ!学センセとユキミは結婚するんじゃないの?
え!じゃあ学センセ、彼女は?彼女は他にいるの?」
まさかフラれた直後にそんなことを聞かれるとは、夢にも思わなかった。
しどろもどろになって、すがるような目で雪見を見ると笑ってる。
その清々しい笑顔をみると、自然と学にも笑みがこぼれた。
『あぁ、こんな関係でいいんだな、俺たち。』と…。
それから雪見は二人を子供扱いせず、人生の先輩として話して聞かせた。
「いい?ちゃんとよーく目を見開いて、周りを見ないとダメよ!
目を細めて見てたって、見えやしないんだから。
世界はこーんなに広いけど、運命の糸は必ず誰かに繋がってる。
あ!日本じゃ運命の赤い糸なんて言うけど、あれはウソね。
そんな目立つ色で繋がってやしない。無色透明の糸で繋がってるの。
だからそれを感知するセンサーを常に磨いておかないと。
お勉強も大事よ。読書も大事。色んなことを見て聞いて体験することが大事。
そうやって自分を磨いておくと、たとえ目に見えない糸でも感じることができる。
そしたら後は、その糸をそっとたぐり寄せればいいの。
あなた達にも素敵な運命が待っていますように…。」
それこそ学に伝えたいことだった。
子供二人の横で神妙に聞いていた学に、少しは届いただろうか。
元カレの幸せを一番に願ってるのは、他でもない雪見だと言うことを…。