大事な時間
「あ、おはよ!ホンギくん♪よく眠れた?…って床の上じゃ身体痛かったでしょ?」
「あ…おはよございます…。もしかして俺…そーとー飲んだ?めっちゃ頭イテェ…。」
「うん。ゲストルームに連れて行こうとしたけど全然起きてくれないぐらいは飲んだ。」
あっちこっちに跳びはねた金色の髪が可愛くて、思わずクスクス笑ってしまう。
雪見は薬の入ったカゴから頭痛薬を取り出し、冷えたミネラルウォーターと共に
「はいっ。」とホンギに手渡した。
「お酒は私達ほど強くはないってことね。了解!じゃあ、これからのアドバイス!
健人くんのペースで飲んだら確実に今日みたいになるってこと、覚えといてねっ(笑)」
「わかった…。肝に銘じておく…。」
「あははっ!朝から完璧な日本語だー!素晴らしいっ(笑)
ホンギくんに日本語を教えたお婆さまも素晴らしいのね、きっと。
さ、朝ご飯用意しておくからバスルーム使って!着替えは健人くんのでガマンしてね。
レッスンまでにシャキッとしなくちゃ!」
ユキミって朝から元気だな…。朝飯なんか食えるかな…。
頭痛薬を流し込み、痛む頭に手をやりながらホンギはバスルームの扉を開けた。
「な、なにーっ!?このバスルームぅぅ!!」
ホンギの驚く声が家中に響き渡る。まぁ無理もない。
贅沢な造りの大きなバスタブとこの家一番の絶景が、ドアを開けた瞬間
彼を待ち受けていたのだから。
「どんな大声だよっ!あれだけ元気なら二日酔いのレッスンでもOKだな(笑)
おはよ!ゆき姉、ほとんど寝てないんじゃない?大丈夫?」
キッチンで朝食の準備をしてた雪見の元に健人がやって来た。
後ろからギュッと抱きかかえるようにして、心配そうに顔色を覗き込む。
「大丈夫だよ。平気平気!
健人くんの寝顔見てる方が、自分が寝るより百倍疲れが取れるもん。」
「んなわけ、あるかっ!」
健人が雪見の背中で笑ってる。
が、首筋に健人の吐息を感じ、雪見は思わず肩をすくめた。
「だめっ!ジッとしてて。」
いつものごとく後ろから雪見を抱き締めて、うなじにそっと口づける。
料理をする時とカメラの仕事中にだけする、長い髪をクルクル丸めて留めただけの
無造作アップヘア。
健人は、後れ毛がフワフワしたその中に顔をうずめ、雪見の匂いに包まれて
首筋にキスするのが好きだった。
それは時に身体を求める合図の場合もあるのだが、大抵は心の安らぎを得るため。
以前飲みながら、その行動の理由を聞いてみたことがあるが、健人は
「なんか落ち着く」と表現した。
何かの本で読んだことがある。
子供が母に抱きつくのは、母の匂いに包まれると自分は守られてると安心するから、と。
多分それと同じ原理。だから雪見は、健人の心の母でいようと決めたのだ。
心が満たされると健人は最後に頬に口づけて朝の儀式を終える。
「ねぇ。朝飯作ったら少し眠れば?夜までもたないよ。
今夜はミュージカルを観に行くのに。」
「ありがと。でも大丈夫。もったいなくて寝てなんかいられないの(笑)」
「もったいないって…なにが?」
健人は横から手を伸ばしてサラダのミニトマトをつまみ、自分の口にポンと放り込む。
「健人くんとね…ここに一緒にいる時間。
不思議だよね。東京でだって一緒に暮らしてたのに、なんだかここには
違う時間が流れてる…。
眠っちゃうとね、時間があっという間に進んじゃう気がしてもったいないの。」
そう言う雪見を、健人は思わず力一杯抱き締めた。
愛しくて、けれども切なくて…。頬ずりしながら頭を撫でた。
「なに言ってんだか…。ほんの少し離れるだけじゃん。あっという間に俺も東京帰るよ。
俺が帰ったらすぐ…二人で婚姻届を出しに行こう。
自分たちで出しに行くのが夢だったんでしょ?」
「そう!窓口の人が書類を確認した後に『おめでとうございます!』
って祝福してくれるの。それって嬉しくない?」
「別にさ、窓口の人じゃなくても、みんなが言ってくれるでしょ(笑)
ま、いいや。で、その後お母さんの病院寄って報告するってのはどう?」
「うん!母さん、きっと喜んでくれるねっ!ありがと、健人くん。」
「あ…婚姻届出した瞬間から、俺のこと君付けで呼んだら罰金もーらおっと!」
イタズラな目をして健人が言った。
「えーっ!そんなのずるーい!じゃあ私のことも『ゆき姉』って呼んだら罰金!
私、健人くんのお姉さんじゃないもーん!」
「げ!俺も、ゆきみ…とかって呼ぶの?うわ、めっちゃハズいしヤベェ!
俺の方が罰金取られるかも。てか…ゆき姉はゆき姉でいんじゃね?」
健人が笑いながら、そそくさとキッチンを退散。
入れ替わるように窓からサラサラと入る風が心地よい。なんだか今しがたの健人みたいに…。
今日は自主トレをやめにして、ゆっくり朝食を楽しんだあとに三人揃って登校した。
ホンギはクラスでも人気者らしく、彼の周りにはたくさんのクラスメイトが集まってくる。
当然、一緒にいる健人にも皆が英語で話しかけ、どうやら健人の英語力は
たくさんのネイティブな先生によって、グングン上達しそうだった。
本日のレッスンがスタート。
健人は英語のウォーミングアップのお陰で、先生とのコミュニケーションもバッチリ。
雪見が通訳として必要とされる場面など、どこにもなかった。
良かった…。これだけ意志の疎通が出来るなら、もう何も心配はいらないや…。
自分の役目がひとつ減り、ちょっぴり寂しい気持ちと嬉しい気持ち。
よしっ!と頭を仕事モードに切り替える。
朝から精力的に動けたお陰で、お昼前にはレッスン場面をほぼ撮りきり、
最後にクラスメイトとのランチ風景を撮影してその日の仕事は無事終了。
「ゆき姉は一旦帰って夕方まで寝ておいで。
ミュージカル観てる最中に、隣で爆睡されると困るし(笑)」
「ひっどーい!いくら私でも、そんなことしませんて!(笑)
でもカメラバッグを置いて来たいから、そうしよっかな?
健人くんのレッスンが終わる頃に迎えに来るね。じゃ午後も頑張って!」
雪見は、街角の恋人同士がごく自然にキスして別れるように健人に口づけて
アカデミー内のカフェを後にした。
地下鉄駅まで歩く道すがら、なぜか足は途中にある大きな公園へ。
ここには野良猫がたくさんいると聞き、一度来てみたいと思ってたのだ。
『えへへっ、ちょっとだけ寄り道しちゃお♪健人くんが心配するから少しだけね。
うわ、猫ちゃんがいっぱいいるぅ〜♪NYの猫ちゃん、初めまして!』
雪見は、久々に出会った野良猫が可愛くて嬉しくて!
一気にテンションが上がり、カメラを素早く手にすると広い公園内を
縦横無尽に、興奮しながら猫の撮影を始めてしまった。
すると彼女は案の定、周りが何も見えないほど撮影に熱中。
いつものごとく、所構わず腹這いになっては猫目線でシャッターを切るものだから
彼女の周りにはいつの間にか、ちょっとした人垣が出来ていた。
「さっき彼女に聞いてみたらね、日本から来た猫カメラマンだって言うのよ。
見て見て!あんなに可愛らしいのに、服が泥だらけ!」
見物人のそんな声を耳にして、足を止めた男がいた。
人垣の後ろから覗き込んだその長身の男が、驚いたように声を掛ける。
「雪見…?雪見っ!どうしてここにいるの!?」
「えっ…?う、うそっ!まな…ぶ?」
そこに立っていたのは、雪見の大学時代の恋人。
今は世界的に有名になってしまった科学者の…学であった。