異国の友達
「おはようございます、斉藤さま。もうご登校なさるのですか?」
一階エントランスで出勤する住人を見送るコンシェルジュのマーティンが、
健人と日本語で挨拶を交わす。
「おはようございます!あ…6時から学校が使えるって聞いたんで、
早めに行って準備しようかなと。
そうだマーティンさん!ちょっと写真を撮らせてもらってもいいですか?」
忘れ物を取りに戻った雪見がちょうどエレベーターから下りてきたので、
健人は手招きしてツーショットを撮ってもらうことにした。
雪見がカメラを構えると、彼はあたかも執事役を演じる現役俳優であるかのように
完璧な微笑みとポージングで、健人と共にカメラに収まった。
「ありがとうございます!さすが元俳優さん!健人くんに負けないくらい素敵に撮れました。
写真集出来上がったら必ず送りますねっ♪楽しみにしてて下さい。
じゃ、行って来まーす!」
「お気を付けていってらっしゃいませ、斉藤さまご夫妻。今日も素敵な一日を。」
柔らかな眼差しに見送られ、外に出て歩き出した途端雪見がクスクスと笑い出した。
「ねぇ。斉藤さまご夫妻って言い方、なんか笑えるー。」
「いんじゃね?俺たち、あと6日で本物のご夫妻だもん。」
健人が笑いながら右手を差し出した。
「そうだねっ。私たち、本物の斉藤さまご夫妻になるんだねっ!
えへへっ、なんか照れるなぁー。」
健人の右手を両手で掴んだ雪見は、イタズラな目をして「よろしくねっ!ご主人さま♪」
と健人の顔を見上げた。
その頭上には抜けるような青空が、今日一日の始まりを手放しで喜んでくれてる。
さぁ、ニューヨーク生活5日目の月曜日。
今日からいよいよ本格レッスンのスタートだ。
「ハーイ!ケント。素敵な週末を過ごせた?」
「今日からまたよろしく頼むぜ!」
「おはよう、ユキミ!俺のこともイケメンに撮ってくれよ♪」
健人の編入する上級者クラスでは、授業開始までまだ1時間半もあるというのに
すでに何人もの生徒が柔軟体操をしたり発声練習したりして、思い思いに
ウォーミングアップを始めていた。
「やっべ!俺が一番乗りだと思ったのに…。
さすが上級者クラスともなると、気合いの入りがハンパないわ。
ゆき姉…。俺、明日からもっと早くに来ても…いい?」
健人が教室の風景を見渡した後、少し申し訳なさそうな顔で隣の雪見を見る。
すると雪見は嬉しそうに笑って大きくうなずいた。
「あったり前でしょ?明日からは、ぜぇーったいに一番乗りするよっ!
よーし!めっちゃ気合い入ったぞー!負けるもんかー!!」
そう言いながら雪見は、嬉々として撮影の準備をし始めた。
「てか、それって俺のセリフでしょ?(笑)
よしゃ!じゃあ俺もゆき姉に負けずに頑張りますか!」
笑いながら健人も教室の隅に行き、一人黙々と柔軟体操を開始した。
遠くからファインダー越しに見るその顔は、いつもの健人らしく一見淡々としてる。
が、雪見の目には、こんこんと湧き出る闘志と蒼白き炎が見えた。
しかしそれよりも何よりも、その底辺にあるのが母の懐に抱かれてるかのような
安心しきった顔であることを、シャッターを切りながら幸せな気持ちで眺めてた。
健人くんの心に、私がゆとりをもたらしてるのなら嬉しい。
私が帰国しても…どうかそのままでいてね…。
少しの不安は鼻で笑い飛ばすことにしよう。
もう子供じゃないんだから、私が居なくたって大丈夫に決まってる。
外食ばっかじゃいけないから、おかずを作り置きして冷凍庫に入れておこう。
あ、あと洗濯も溜め込んじゃうだろうから、下着の替えをいっぱい用意して…と。
そんなことばかりが次々思い浮かぶ自分にふと気付き、急に笑いがこみ上げた。
『私って、留学する息子に付いて来たお母さんみたい。』
クスクス笑う雪見に気付いた健人が、首を傾げて『どうしたの?』とジェスチャーする。
『なんでもないよ。』と首を横に振った後、雪見は思いついたように口を大きく開けて
遠くの健人にメッセージを送った。
『 あ・い・し・て・る 』
夕方5時。今日のレッスンがすべて終了。
放課後も居残りして自主練する生徒が多いだろうと思いきや、教室に残ったのはわずか3人。
あとは凄い勢いでシャワールームへと流れていった。
「みんな帰っちゃうんだ。なーんだ…。」
少し拍子抜けしたように健人が呟く。
すると日本語の話せる韓国人クラスメイトが近づいてきて、健人に色々教えてくれた。
「みんなこれから違うスクールに行くんだ。
ダンスのレッスンやボーカルトレーニングとかが多いかな?
あ、小さなシアターでミュージカルの舞台に立つ奴もいるし。
それ以外の奴らは映画やお芝居を見に行く。
なんでかわかる?みんな自分磨きしてるんだよ。」
「自分…磨き…?」
健人がボーっとしながらオウム返しする。
「そう、自分磨き。だからこのアカデミーは金曜が半日で土日が休みなのさ。
レッスンはみんなが平等に、同じカリキュラムを受けられる。
けどそれは役者としての技術だったり応用であったりするだけ。
あとはそれぞれ個性を磨いて自分を仕上げなさいってこと。
この世に二人同じ個性の役者はいらない。
一人一人が唯一無二の存在になりなさい、ってこと。
あ、唯一無二の使い方って、これであってる?」
髪を金色に染めた彼は、人懐っこい笑顔で健人に聞いた。
彼も相当な努力家のようだ。
こんなにも自在に日本語を操るのだから。
「うん、あってる。すっげー日本語上手だね。ビックリした。
いっぱい教えてくれてありがとう。で、君はどこにも行かないの?」
「あ、俺?俺はいつも居残り組。金が無いからさ。
ここのアカデミー代だけで精一杯。親にこれ以上迷惑は掛けられない。
夜は飲み屋でバイトしてるんだ。これ、学校にはナイショね。
ちっとも自分磨きしてないから。」
そう言ってアハハッ!と大声で笑ったあと、健人に右手を差し出した。
「俺、ホンギ。なんかケントとは気が合うんじゃないかって、今日思った。
これからよろしく!」
「あ…こっちこそよろしく!なんかめっちゃ嬉しい!
まさか日本語で話せる友達が出来るなんて、夢にも思わなかったから。」
健人が嬉しそうに握手を交わしてる所へ、夕飯の買い物に出かけてた雪見が
両手に袋を提げて戻ってきた。
「あ、ずっと聞こうと思ってたんだけど、ユキミってもしかして…ケントの彼女?」
突然金髪の、ほぼ初対面に近いイケメン男に日本語で話しかけられた雪見は
驚いて目をパチクリ。
すると健人が隣に来て「持つよ。」と、立ち尽くす雪見の手から袋を受け取った。
「そっ!俺の彼女。てか、もうすぐ俺の奥さん!」
「ワォ!すっげー!その若さで結婚しちゃうの?やるねぇー!」
彼は目の前の二人を冷やかし始める。
話したこともない男にいきなり馴れ馴れしくされた雪見は「なに?この男!」
という少しムッとした顔をしたのだろう。
慌てて健人が話を変えたのだが…。
「そーだ!これからバイトなの?」
「いや、今日は休みだから居残りしようかと…。」
「じゃ、俺んちで一緒に晩飯食わない?ゆき姉って料理の腕前プロ級なんだ。
酒もめっちゃ強いし!」
「ええーっ!?ちょ、ちょっと健人くんっ!」
いきなりの訳のわからぬ展開に驚く雪見。
嬉しそうに「うん!行く行く!」とうなずくホンギ。
そして…『俺、こいつと気が合うかも…』とワクワクし出した健人。
どうやら雪見帰国後の寂しさは、この出会いによって回避されそうだ。