笑顔の別れ
トントン♪(そーっと…)「母さん、おはよ!調子はどう?」
午前9時半。
回診が終わった頃を見計らい、健人と二人で母の病室を訪れた。
大部屋の場合、午後1時の面会時間を守らぬわけにはいかないが、
個室の面会は看護師も時間外を大目に見てくれる。
が、二人の正体がバレて病院中が大騒ぎになると厄介。
なので、入念に変装して病室に入る。
「えっ?あ…健ちゃん…?忙しいのにわざわざ…。」
「あーおばさん、おばさんっ!起きなくていいですって!寝てて下さいっ!」
身体を起こそうとした母に、慌てて健人が走り寄る。
あれこれ気配りしつつ母に接する健人を、嬉しい気持ちでぼんやり眺めてたら
心のどこかにいつも存在する想いが、ぴょこんと顔を覗かせた。
健人は優しい。いつでもどこでも、どんな人へも。
自信をもって言える。彼と接した人は必ず彼を好きになる。男も女も子供も年寄りも。
その『好き』の頂点に自分はいるつもりなのだが、他人の好き具合は見た目には判らない。
だからこの広い世界には、もしかすると自分よりもっと彼を好きな人がいるかも知れないし
彼もまた、私よりももっと好きな人が現れるかも知れない…。
…って私、なんで今そんなことを考えちゃったんだろ…。
「今日は顔色が良さそうで安心したよ。…って母さん!もしかしてお化粧したの?」
雪見がそれに気付き驚いて母の顔をのぞき込むと、母は照れくさそうに笑って見せた。
「だって…健ちゃんも来るっていうから。
イケメン俳優さんをお迎えするのに、冴えない顔じゃ恥ずかしいでしょ?」
「えーっ!それってファン心理と同じじゃん!母さんも私のライバルになっちゃったのぉ!?
たーいへんっ!盗られないように用心しなくちゃ。」
雪見がそう言って健人の腕にしがみつくと、病室の中には母と健人の笑い声が響いた。
本当に久しぶりに聞いた母の笑い声。健人も顔をくしゃくしゃにして笑ってる。
自分も笑ってるはずなのだが涙が浮かんで、ちゃんと笑えてるか自信がなかった。
それから雪見と健人はベッドサイドの椅子に腰掛け、母も交えて色んなお喋りをした。
明日からの渡米についてや、雪見撮影による写真集をまた企画してること。
猫を預けに行く『秘密の猫かふぇ』がどんな空間 であるか、などなど。
二ヶ月留守する間の母が不安を抱かぬよう、健人が心を配って話しているのが
雪見にはよくわかった。
こんなに優しい人が、私の旦那様になるんだね…。
優しいのはずーっと前から変わらないが、今改めてその横顔をうっとりと眺める。
ギリシャ彫刻のように綺麗な顔立ち、長いまつげ、大きな瞳。
右半分に多い色っぽいホクロ、セクシーな唇の輪郭、それから…。
「ちょっと雪見っ!なに健ちゃんに見とれてるのよ。
いいから早く用件済ませて、もう行きなさい。
明日日本を出発するって時にこんなとこに居たんじゃ、貴重な時間がもったいないわ。
で、健ちゃん。その書類を貸して。署名してあげる。
雪見、そこの引き出しのポーチの中に鍵が入ってるから、金庫を開けて印鑑出して。」
二日前の息も絶え絶えな母は幻だったのか?私は夢を見てる…の?
テキパキと指図する姿は元気な頃の母そのものだった。
自分は老眼鏡を掛け、健人が書類を出してくるのをボールペンを持って待ち構えてる。
狐につままれた想いで雪見が金庫から印鑑を取り出すと、健人がおずおずと
例の封筒を差し出した。
「おばさん、これなんだけど…。」
母には昨夜、メールで用件は伝えてあった。
「ちょっと署名捺印してほしい書類があるのだが、印鑑は手元にあるか?」と。
婚姻届に、という主語は使わなかった。なんだか気恥ずかしくて…。
母は封筒から折り畳まれた用紙を取り出し、そっと開いて見る。
その瞬間の表情を、健人と雪見は固唾を呑んで見守った。
一瞬止まった視線。
だがすぐに穏やかな笑みを浮かべ、その薄い紙を凝視したまま「おめでとう。」と言った。
老眼鏡の奥の瞳に涙がゆらゆら揺れている。
ベッドテーブルの上に用紙を広げ口元をキュッと結び、空いてる証人欄に
自分の名前を丁寧に書き込む。
それからゆっくりと生年月日、住所、本籍を書いていったのだが…。
本籍地を書いてるところで用紙の上に、ポトリと涙が落ちてしまった。
「うわっ、ごめんっ!大事な用紙が濡れちゃった!」
母が慌てて落ちた涙をティッシュで吸い取ったあと、感慨深げに言ったのだ。
「もう本籍地なんて、書くこともないと思ってたから…。」
母が見つめるその住所は、亡き父と若き母が結婚生活をスタートさせた思い出の場所だった。
「ここで生まれたあんたが婚姻届とはね…。きっと父さんも喜んでるね。
この署名…父さんにさせてあげたかったな…。」
母の瞳から、また新たな涙がこぼれ落ちる。
それを見守る雪見にも健人にも、その涙は伝染していった。
だが母は…多分、父を想ってだけ泣いてるんじゃない。
自分の命を想って泣いてるんだ。
健人はそのことに…気付いてしまっただろうか…。
でもね、母さん…。私は母さんに署名してもらえた方が嬉しいよ。
今生きてる母さんに祝福してもらえることが、何よりも嬉しいよ…。
「これから新しい本籍を二人で作るんだね。本当におめでとう!
健ちゃん。ふつつかな娘ですが、雪見のこと、どうかよろしくお願いします。」
母は健人に向かってベッドの上で深々と頭を下げた。
健人も慌てて頭を下げたが、その母の姿を雪見はある覚悟をもって眺めてる。
母さん。私なら大丈夫だよ。健人くんについて行けば大丈夫でしょ?
もしも母さんに何かあっても…健人くん最優先で頑張るから。
それで…それでいいんだよね?母さん…。
「母さんの大事な役目は済んだわね?じゃ看護師さんに見つからないうちに帰りなさい。
あ、猫たちを頼んだわよ!みずきさんにもお礼言ってね。
このお金で猫たちに美味しい缶詰買って、最後に食べさせてやって。
お釣りであんたたち、お昼ご飯でも食べなさい。」
「えーっ!私達が猫のおこぼれもらうの!?でも有り難くもらっとく!サンキュ ♪」
そう言いながら雪見は、母が用意してあった現金入りの封筒を受け取った。
「じゃ、行くね。二ヶ月向こうで頑張ってくるから母さんも頑張ってよ!
ウェディングドレス姿は…綺麗に撮ってもらえたら送るから。」
「おばさん、ちゃんと送るよ!絶対綺麗だから。」
「あら、健ちゃんも言うわねぇ(笑)じゃ楽しみにして待ってます。
気を付けて行ってらっしゃい!」
病室のドアを閉める最後の最後まで、みんなの笑い声が響いてた。
だが…。
これが永遠の別れになることを、まだ三人は気付いていなかった…。