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別れの歌

「母さん、調子はどう?」


午前9時半。

恐る恐る開けた個室のドアを後ろ手に閉めながら、雪見は真っ先に

ベッドに横たわる母の顔色をうかがった。

想像以上に青白い頬…。

一瞬うろたえたが素知らぬ顔で、持参した花かごと着替えの入った紙袋を

ベッドサイドへと置いた。


数日前から体調を崩してたらしい母。

昨日の朝、ちぃばあちゃんの一周忌法要を欠席する詫びの電話を健人の母に入れた後

どうにもこうにも具合が悪くなり、一人で病院へ行ってそのまま入院と相成ったらしい。

それを今朝、二日酔いの寝ぼけ眼でケータイメールで知らされた。


「あぁ雪見。忙しいんだから急いで来なくても良かったのに。

心配いらないって書いたでしょ?きちんと健ちゃんを送り出してから来たの?」

母がゆっくりと身体を起こしにかかったので、雪見は慌ててそれを阻止した。


「いいから大人しく寝てて!もう朝からビックリしたよ、個室に入院したって聞いて。

そんなに具合悪かったんなら、すぐ電話くれればいいでしょ!?

そしたら迎えに行ったのに。」

雪見はいつもと変わらぬ口調をあえて貫き、ベッドの横に腰掛けた。


ここまで衰弱させてしまったのは私のせいだ…。

母さんがこんなにも青白い顔で病院のベッドに横たわってる時に、私ときたら…。

昨日の夜も、メールをもらった今朝でさえも健人くんと寝室のベッドにいた。

ごめんね、母さん…。


「なんて顔してるの。だってそんなつもりで病院来たんじゃなかったのよ。

抗癌剤の副作用なのか知らないけど、どうやっても身体に力が入らなくて。

ちょっと診てもらうつもりで来たから、入院道具なんて何にも持って来なかったの。

あ、下着とか場所わかった?猫たちに餌をやってくれた?」


母も、いつもと変わらぬ口調を装っていた。

だが同じなのはセリフだけで、その荒い息づかいや力の入らない弱々しい声は、

悲しいほどセリフの明るさに不釣り合いなものだった。

私達やっぱり…似た者親子だね。


「もう荷造りは済んだの?忘れ物はない?めめとラッキーは真由子さんに預けたの?」


「私の心配より自分を心配しなさいっ!ほんっとにもぅ。

私、あと3日で旅立っちゃうんだよ?これじゃ心配で…。」


行けなくなっちゃうじゃない…という語尾を慌てて飲み込んだ。

それを言葉に出すと、本当に自分はそうするような気がしたから。

ダメ!自分に負けちゃダメ!私は約束したのだ、母と。

これからの人生は、伴侶となる健人に全力を注ぐ、と…。

それが母の望みだから。母が娘に言って聞かせた最後の教えだから…。


揺らぎそうになる心を立て直し、語尾を急いで違う言葉に差し替えて

何食わぬ顔で話を繋ぐ。


「…母さんちに猫は置いとけないね。しばらくどこかに預かってもらわないと。

あ、うちのめめとラッキーは連れて行くことにしたよ。

ラッキーは寂しがり屋だから、2ヶ月も私達と離れたら病気になっちゃう。

向こうのアパートもね、ペットOKのとこ借りたから心配しないで。

それより母さんちの猫…。そうね…みんなまとめてすぐ頼めるのはあそこしかないか…。

うん、私に任せて!秘密の猫かふぇに頼んであげる。」


雪見はすぐさまケータイを取り出し、その場でみずきに頼み込んだ。

経営権が4月から事務所に譲渡された猫かふぇだったが、みずきはそのまま

雇われ店長として店を任されていた。


「ありがとう、みずきっ!うん、ありがとう、助かった!ごめんね、5匹も。

これで安心して向こうに行けるよ。母さんも安心して入院できる。

じゃ、あさって連れてくから。

うん、いいの。ギリギリまでは自宅に置いてやりたいし。

2ヶ月間お世話になりますっ!帰国したら真っ先に迎えに行くから。

うん、また連絡するねっ。」


母がにっこり笑って「ありがとう。」と静かに言った。

その言葉のあとには空白が出来たのだが、ふと母の声が聞こえた気がした。

『これで心残りは何もなくなったよ。』と…。


それから小一時間ほど、二人でおしゃべりをした。

おしゃべりと言っても、ほぼ雪見が一方的に今の時点で決定してる先のことを

連絡事項のように隙間なく並べて聞かせただけだが。

それに対して母は、時折息苦しさの中から声を振り絞り、「そう…。」

とか「良かったね。」とか、微かに微笑んで相づちを打ってくれた。


一通りのおしゃべりが終わり病室に静けさが戻った時、ふいに母が雪見を見上げ

「ねぇ。私に歌を聴かせて…。」と言った。


「なによ、急に。こんな病室で歌えって言うの?

私の声は大きいからダメ!婦長さんが飛んできて叱られちゃう。」

笑いながら雪見は断ったが、母は真剣な顔をしてもう一度言う。


「雪見の歌が聴きたい…。」


今までそんなお願いは一度もしたことがない母が、なぜそんなことを…。

胸がぎゅんと痛くなる。でも笑顔でいなきゃ…。


「何がそんなに聴きたいの?私のデビュー曲?CDあげたでしょ?

あ、いつでも聴けるようにケータイに吹き込んであげようか。」


「『涙そうそう』がいい。雪見の歌うあの歌、母さん好きだな…。」


あまりにも不意打ち過ぎて、涙が込み上げるのを防ぐ暇がなかった。

どうしてその歌なの。他にもいっぱいあるでしょ。歌えない…歌えないよ…。


「やだ、なんで泣いてんの。あの歌はいい歌よ。父さんを思い出す。

あ…あんた、父さんじゃなくて母さんを思って泣いてるわけ?まだ早いから。」

母はクスクス笑ってた。その笑い顔が少女のようで、なおさら涙が溢れ出た。


「しばらくあんたの歌も聴けなくなるんだから…。

ねぇ、母さんのケータイにも吹き込める?だったら録音しておいて。

あんた達が帰ってくるまで、それ聴いて大人しく待ってるから。」


はいっ!と母は雪見に、枕元のケータイを差し出す。

それを受け取った雪見は、録音ボタンのスタンバイをし涙を拭いた。


ここが個室であっても雪見の声量は、その階の隅々にまで響き渡ったに違いない。

だが今ここで歌うこの歌は、口ずさむような声であってはいけないと、

躊躇なくステージ上と同じだけの声で歌った。

今までで一番の心を込めて…。


「婦長さん、飛んで来なくて良かったぁ!じゃあ私、行くねっ。

これから事務所で最後の打ち合わせがあるの。

イケメン人気俳優の人生のマネジャーになるって、結構大変よ。

いくらプライベートな留学って言っても、まったく事務所の管轄下に無いわけじゃないし。

私の役目は思ったよりも重大そう。ま、ヘマしないように頑張ってくるわ。

足りない物があったらメールしてね。すぐに持ってくるから。

はいはい、寝てちょうだい!バイバイ、またねっ!」


早口で話して急いで病室を出る。

あと30秒遅かったら、また泣くとこだった。

指先で涙を拭い歩き出すと、前から婦長がやって来た。


「雪見ちゃん、少し時間もらえる?院長先生がお話あるって…。」


しまった!やっぱ大声で歌ったの、まずかった!?

だが婦長の顔は、そんなことを言ってるふうには見えなかった…。


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