結び合う時
「ただいまー!ゆき姉、ワイン買ってきたよー!
よっしゃあ!ビーフシチューの匂い♪もう腹減って死にそう!」
夜8時。取材を終えた健人が車で帰宅。
こんなに早く帰れたのは久しぶりで、玄関から聞こえた声が機嫌の良さを物語る。
「お帰りー!お疲れ様っ!お風呂も沸いてるよー。」
リビングに入ってきた健人に、対面キッチンから雪見が笑顔で出迎えた。
健人が真っ直ぐやって来る。
「ただいまっ!」と言いながら、料理を盛りつけてる雪見を後からギュッと抱き締め
ほっぺにチュッとキスをする。
肩越しに料理を覗き込み「めっちゃうまそ!早く食べよっ♪」と言ったあと
耳元で「ゆき姉もうまそっ♪」と囁いて素早くほっぺにチュッ!
いたずらっ子のように、そそくさと逃げてった。
「ほんっとに、もうっ!」
雪見がクスッと笑いながらシチューを皿によそうと、幸せな香りが鼻をくすぐった。
コンタクトを外しメガネを掛け、Tシャツとスゥエットパンツに着替えた健人が
ご馳走の並んだテーブルに喜々として着く。
そこに雪見が熱々のビーフシチューを運んで来ると、健人が嬉しそうに
「なんかのお祝いみたいだねっ。」と言いながら、グラスにワインを満たした。
「さ、食べよっか!今日のシチューは美味しく出来たよ!いっぱい食べてね。」
「やった!じゃあ今日もお疲れっ!カンパーイ♪
おっ!このワイン、大正解!どれどれビーフシチューは…いっただっきま〜す!
うわ、めっちゃうめぇ!!何これっ!?肉、軟らかっ!野菜もうまっ!
てか、ゆき姉また腕上げたね!三つ星レストランで出しても絶対バレないって!」
「ふふっ、ありがとっ♪絶対バレるけどねっ。」
健人が美味しそうにシチューを頬張る姿を、雪見は微笑んで眺めてた。
大好きな人が自分の作った料理を食べて幸せそうな顔をする。
自分は今、彼を幸せにしてるんだ。そう思えることの何と満たされた幸福感。
行儀悪く頬杖ついて、うっとり健人を眺めていたが、雪見はふと
つい何時間か前の和尚の言葉を思い出した。
『陰になり日向になり、彼を支えていかねばならん。たとえ何があろうとも…。』
アメリカではたった二人きり。マネジャーさんも今野さんもいない。
健人くんを支えられるのは私だけ。事務所の宝物を、この私が託されたのだ。
なんて重い責任。なんて重要なミッション。
けれど、みんなが私の存在を認めてくれたということ。
日本の次世代を担う俳優斎藤健人の、人生のマネジャーとして…。
けれど…。和尚にはあの時、見えてたはずだ。この先に何があるのかを。
あの時は知りたいと思ったが、今となっては聞かないで正解だったと思う。
それを知ってしまったら、私はもしかして最初から逃げ出してたかも知れない。
…え?待って。その時が来たら私…逃げ出してしまう…の?
「ゆき姉?ゆきねぇってば!ビーフシチューのお代わりっ!
てか、なにボーッとしてんのさ。俺の話聞いてた?
あれ?全然食ってないじゃん!飲んでもいないし。どっか具合でも悪い?」
健人が心配げに雪見の顔を見つめ、手を伸ばしておでこに触れた。
「あ…ゴメン!具合なんて悪くないよ。熱もないでしょ?
健人くんの食べてるとこ大好きだから、惚れ惚れして眺めてただけ。
頑張って作った甲斐があったよ。今温め直してよそってくるねっ。
これからガッツリ飲むよー!」
健人が良いタイミングで声を掛け、現実に引き戻してくれた。
ひとりキッチンの壁にもたれ、ボーッとシチューが温まるのを見守る。
だが、先ほど途中まで考えてしまった「その時」の先が恐ろしくて、
早く頭の中から削除してしまいたいと願った。
ガッツリ飲むよー!とは言ったものの、健人の買ってきたワインを1本空けたところで
宴は一旦お開きとする。
二次会は、お風呂に入ってあとは寝るだけに準備してから、ずっと観られないでいた
映画の鑑賞会をしつつ飲もう!と言うことに。
健人に「一緒に入る?」と誘われたが、一人で少し考えたいことがあったので
「お風呂上がったらすぐ映画観たいから、おつまみ準備しておくよ。」
とやんわり断った。
『ほんとに私、大丈夫なのかな…。』
湯船に浸かり、天井を見上げながら雪見がため息をつく。あと4日…。
4日後アメリカで新生活が始まった時から人生は動き出す。新たな局面に向って。
今さらどうこう考えても仕方ないのだが、健人の浮かれようを一歩引いて見てしまう自分が
今更ながら気に掛かった。
『ダメダメっ!何を今頃になってウダウダ考えてんの?
とっくに自分でゴーサインを出して決めたことでしょ?
大丈夫よ!案ずるより産むが易しって言うじゃない。
きっと結婚なんて、そんな大層なもんじゃないんだわ。
よしっ!もっと自信を持て、自分っ!』
あえて先ほど頭をかすめた話題には触れないようにした。
それを突き詰めてしまうと、一歩も足が前へ進まないような気がしたから…。
バシャッ!とお湯を頭からかぶり、気合いを入れてバスルームから出た。
鏡の大きな洗面台の前で、ウェーブのかかった長い髪をドライヤーで乾かし
シュシュで二つにゆるやかに結ぶ。
たっぷりの化粧水と美容液で、お肌のお手入れも完了。
コンタクトを外したのでメガネを掛けると、鏡の中に健人の姿が映って振り向いた。
「あ、健人くんもここ使う?じゃ電気消して来てね。お酒の準備しておくから。」
そう言ってリビングに戻ろうと、健人とすれ違おうとした時である。
健人がスッと雪見の髪に手を伸ばし、ゆっくりと二つのシュシュを下に引き下ろしたのだ。
「えっ…?」
余りにも不意打ちで、心の準備が出来ていなかった。
だが健人は無言のままジッと雪見の目を見つめ、今しがた乾いたばかりの長い髪を
指先で綺麗にといて整えた。
その指は、今度は雪見のメガネを捕らえ、両手で外して洗面台の上にコトンと置く。
「やだ、何にも見えなくなっちゃったじゃない。」
何が始まるのか察した雪見が、照れ隠しにすねたように小さく言った。
「じゃあ、見えるとこまで近付きゃいいじゃん。」
健人はそう言いながら自分もメガネを外し、ゆっくりと顔を近づける。
最接近した瞬間に手を伸ばし、雪見のに並べてメガネを置いた。
何でもお見通しのような大きく濡れた健人の瞳が、雪見の瞳に吸い込まれてゆく。
二人は、長く熱く濃厚な一つの時間を紡いでいった。
誰にも邪魔されることのない、誰の目も気にしなくていい二人だけの時間。
それは離ればなれの時に否応なしに生じてしまう、ちょっとした行き違いや誤解、
不安や寂しさを払拭し傷を埋め、さらに補強までしてくれる大事な儀式の時。
雪見の中でくすぶってた不安の火種は、見透かしたように健人の唇が吸い取ってくれた。
大丈夫、きっと大丈夫…。