不安と裏返しのキス
「あれぇ?だいぶ早く着いちゃうな。こんなに道路すいてると思わなかったぁ!
こんなんだったら、もっとおばさんとおしゃべりしてあげれば良かった。
うちらが帰る時、なんか凄く寂しそうな顔してたよね、おばさん…。」
健人の祖母の一周忌法要を終え、雪見は健人を次の取材現場まで送り届けるため
遅刻しては大変!と慌ただしく斎藤家を後にした。
だが渋滞にも巻き込まれず、思いの外スムーズに車が流れたせいで
かなり早くに着きそう。
これはどこかで時間を潰さねば、とキョロキョロしながら走ってた時だった。
「ストップ!」
「えっ!?なに?どっかいい場所でも見つけたの?」
雪見が慌てて減速し、ハザードランプをつけて路肩に止まる。
「違うって!その『おばさん』てのさぁ、さっきからめっちゃ気になんだけど。」
「え?『おばさん』…が?…あ!あぁ、そーゆーことね。だってぇ〜!」
健人の言いたいことはすぐにわかった。
もうすぐ結婚すんのに、いつまで「おばさん」て呼ぶのさ?てことだろう。
わかっちゃいるよ。けど二十年以上もそう呼んでた人を名称変更するには
それなりの手順と心の手続きってもんが必要で…と言い訳を用意してたら
追い打ちを掛けるように次の言葉を繰り出してきた。
「じゃーさ、俺のことはいつまで『健人くん』なわけ?」
そう言いながら健人は、キスでもするかのようにグイと顔を近づけ
小首を傾げて雪見に回答を迫ってくる。
ドラマでも見たことがある、最上級のキメ顔で。
「ちょっとストーップ!なんで今、そんなこと聞くのぉ!?今、そんな話の流れだった?
もっと離れてーっ!誰かに見られたらどうすんのよ!」
「あれっ?そのためにゆき姉の車、外から見えないやつに買い換えたんだけど。
じゃ試してみる?」
えっ!?と驚く間もないほど健人は突然唇を重ねてきた。
片手で素早く自分のシートベルトを外し、ハンドルを握ったままの雪見に半ば強引に。
されるがままの雪見だったが、頭の中はひどく冷静だった。
脈略もなく健人がこんな行動を取る時は、必ずその裏に何らかの不安が潜んでることを
経験上良く知ってるからだ。
こんな時、雪見がすべき事は、健人の中にある正体不明の不安をとにかく静めること。
自分の中でミッションの確認さえ取れれば、あとの行動は素早い。
気持ちを切り替え、年上の女がまだ経験浅い年下の男を扱うかのように
大胆に振る舞い出す。
雪見は唇を重ねながらもシートベルトを外し、自らを自由にしてやった。
両手で健人の頭を包み込み、今度は雪見が健人の唇を支配する。
助手席に押しつけられた健人の身体は熱を帯びるが、今はどうすることも出来はしない。
胸の高まりを理性で押さえ、ただ雪見の唇のみを受け止めるより仕方なかった。
そろそろ健人の不安もどこかへ消えたはず。さぁ仕上げに取りかかろう。
雪見はゆっくりと唇を離し、ギュッと健人を抱き締める。
それで我に返った健人も雪見を優しく抱き締め返した。
「今日の夜はゆっくり飲もっか。私、美味しい物作って待ってる。
しばらく健人くんに、ご飯作ってあげる暇もなかったもんね。
今日は荷造りもやめにして、のんびり二人でワインでも飲もう。」
穏やかに優しく、健人の目を見て微笑んだ。
今ここで、突然のキスの理由を探し出すのは得策ではない、と…。
「そんで、今のキスの続きも?」
「しょーがないなぁ!健人くんが寝落ちしなければねっ。」
健人が鼻でクスッと笑ったので、雪見はミッション完了を確信する。
子供のおねだりに「良い子にしてたらねっ。」と母が言うかのように
雪見もしたり顔で返事したあと、にっこり笑ってみせた。
その瞬間の健人の嬉しそうな顔ときたら!
別にキスの続きだけが嬉しい訳ではないだろうが、大好きな人と過ごす
至福の時間を約束され、その時が待ち遠しくて仕方ないのだ。
子供なら「うんっ!良い子にしてるっ!」と喜々として母を見上げる場面であった。
健人が求めるもの。それは時として母の優しさだったり父の強さであったり
大好きな人の温もりだったりする。
つまりは何かに包まれる安心感が欲しいのだと雪見は思う。
その安心感があってこそ、健人は明日も戦場の中を一人
前へと進んで行けるのだ。
芸能界と言う名の戦場…。
いつも健人の周りには人が大勢集まり、もてはやされ
孤独とは無縁の世界に目には映る。しかし現実とはいつも裏腹。
健人は誰が敵で誰が味方なのかさえ判らぬ曖昧な世界で
ひとり孤独に戦い続ける。
そんな毎日に救いの手を差し出すのは雪見。
冷たくなった心を両手で温め、再び真っ赤な血潮を流れさせてくれる。
雪見無しにベストな自分を保つのは、もはや不可能とさえ思うのだ。
「さーてとっ。あと30分、どこで時間を潰そっか。」
シートベルトを再びカチリと締めながら、雪見が健人に目を向けた時だった。
健人の向こうのガラス越しに、見覚えのある景色が。
急いで辺りに目を凝らすと、それを確定づける表示も見つけた。
「あぁーっ!このお寺ぁ!夏美さんに連れられて来たお寺だぁぁ!」
雪見が健人を通り越し、そのまだ先を指差して大声で叫ぶ。
その声に驚いて指の示す方を向いた健人もまた大声で言った。
「うっそ!この前仕事で来れなくなったとこぉ?
そんな偶然ってあんの!?」
3日前、二人はここに来るはずだった。
「必ず渡米前に来るように」と言う老住職の言いつけを守るため
アポまで取り付けていたのだが、運悪く健人の撮影が長引き、
どうしても来ることが出来なかった。
その、もう来る事が叶わないとあきらめてた寺が、なぜか今
二人のすぐ真横に建っていた。
時間潰しの場所、みーっけ!