夏美の救いの手
「大丈夫か?雪見…。あと一時間ちょっとしかないんだぞ?
まぁな…。あれだけの叩かれ方されたんじゃ大丈夫なわけないか…。」
ツアー最終日の東京公演二日目。
雪見にとって、これがほんとのほんとのラストライブ。
開始一時間少し前の楽屋は、慌ただしさと沈黙と両方の異空間が同居してた。
楽屋に顔を出した客人たちも、そそくさと退散するほどの居たたまれない空気が
部屋にギュウギュウ詰めに圧縮されている。
リハーサルを終え、早々に引き揚げてきた雪見だったが、ドアを開けてすぐ
力尽きたかのようにバサリとソファーに座り込み、ただボーッと足元を見つめ
さっきから身じろぎ一つしない。
そのうなだれた背中を、あとから入ってきた常務の小野寺と秘書の夏美が
腕組みしながら、どうしたもんかとしばし心配顔で見つめてた。
「…常務。私に雪見を任せてもらえますか?」
腕時計に目をやり一刻の猶予もないと見た夏美が、何かを心に決めて小野寺に許可を求める。
その瞳は、上司と言えども有無を言わせぬ威圧感があり、夏美が真剣に
雪見救済を企ててるのがわかったので「頼む…。」としか返事のしようが無かった。
「ありがとうございます。」
そう言って頭を下げた夏美は、最後に小首を傾げてニコリと微笑んだ。
瞬間ザワリと背中に走るものがあったが、小野寺はそれを感じなかった事にする。
そこからの夏美の動きは素早かった。
サッとソファーの前に回り「行くわよ!」と雪見の腕を掴んで一瞬で楽屋から消え去った。
それはまるでイリュージョンを見てるかのように、鮮やかに忽然と。
「ちょ、ちょっと待って下さい!夏美さん!どこ行くんですかっ!
もうすぐ着替えなきゃならないんですよーっ!」
スタイリスト牧田の慌てた声だけが、むなしく楽屋に取り残された。
鏡の前で忙しくメイク道具を並べてた、ヘアメイクの進藤に到っては
牧田の大声に驚き、顔を上げて鏡越しに後ろのソファーを見た時には、
そこにいたはずの雪見の姿がすでに消えていたほどの、それは見事な早業だった。
「何を企んでんだ?あいつ…。」
小野寺の言葉に、牧田と進藤が不安げな顔を見合わせた。
「夏美さんっ!待って!どこ行くのっ!夏美さんってば!」
雪見の大声と夏美のコツコツとした靴音だけが、広い地下駐車場に響き渡る。
ハイヒールを履いてるとは思えないほどのスピードで前を歩くものだから
手首を捉えられた雪見は、歩調を合わせるのに必死だった。
「いいから乗りなさいっ!」
それまで雪見の問いかけに、ウンともスンとも声を出さなかった夏美が
歩きながらポケットの中のキーを取り出し、車のドアを素早く開け
雪見を助手席に押し込む。
それから、ものの何十秒かで夏美の運転する真っ赤なポルシェは、
けたたましい排気音だけを駐車場に残し、あっという間に外へと飛び出して行った。
今起こっているすべての事が受け入れられずに、茫然自失の雪見。
その隣で夏美は、計画通りの鮮やかな手口で拉致を成功させた
ドラマの中の美しい犯人のように、薄微笑みを浮べハンドルを握ってる。
三月下旬の午後五時。
だいぶ陽が長くなったとは言え、外はすでに暮れていた。
もはや口を開く気にもなれない雪見は、どんどん流れる街の明かりを
夢の中の景色と思って、サイドウインドーに頭を預けながら眺めてる。
しばらく頭の中を空っぽにして窓の外だけを見つめる。
すると、ぼんやりとしてた頭が徐々に活動し始めた。
なに?この状況…。
さっきまで楽屋に居たんだよね?私…。
なんで夏美さんの車に私が乗ってんの?
て言うか、今ってライブの前なんだよね?
これから衣装に着替えてメイク直しするんだよね?
…え?夏美さんの横顔ってめちゃ可愛い!
正面から見たらどこか冷たい美人顔なのに、横顔はお人形みたいだ…。
でもさ…スーツにハイヒールに真っ赤なポルシェって、一昔前のベタなドラマでしょ。
…なのに似合い過ぎて笑える。
雪見は思わずクスクスッと声を出して、本当に笑ってしまった。
それから、しまった!と思い慌てて口を押さえたが、夏美が見逃す訳がない。
「何なの?その笑い。言いたい事があるなら、はっきり言いなさい。」
はっきり言いなさいって、そっちこそ!
何にも言わないで、私をどこに連れてく気よっ!
…と、心の中では声を荒げて突っかかったが、口からそのままは出てこなかった。
「どこ…行くんですか…?」
自分でもびっくりするほどの、小さくかすれた声だった。
今朝から、喉の調子があまり良くはないなと感じてはいたが
それは緊張やストレスのせいで、喉に余計な力が入ってるからだと
リハーサルでは思い込んでいた。
大丈夫…。どうにかして本番までに気持ちを立て直してみせる。
喉の力を抜いて、いつも通りに歌えばいいんだ…。
だが、どうやら緊張だけでかすれてる訳でも無さそうな事に今頃気付く。
その時だった。
スッと横から夏美の手が伸び、飴玉3個が雪見の太腿辺りに乗せられた。
「取りあえず、その喉飴を舐めときなさい。もうすぐ着くから。」
「着くって、どこへ?どこに向かってるんですか!?」
「しっ!無駄に大声を出さないのっ!
それ以上喉に負担かけると、本番までに間に合わなくなるわよ!
ほんっとにあなたって人は、最初から最後まで私の手を煩わせて。
キャラクタープロデュースって言うのは、あなたの声を基盤にして
衣装やらメイクやら戦略を決めてるんだから、声が変わっちゃ困るのよ!
『YUKIMI&』のプロデュースを任されてる私の身にも、なってちょうだい!
大体ねぇ…」
普段は無駄口など叩かぬ夏美が、延々と機関銃のごとく喋り続けてる。
雪見に声を出す隙など、まるで与えぬように…。
「さ、着いたわよ!降りなさい。」
大層時間が過ぎた気がしたが車を降りぎわ時計を見ると、まだ5時10分。
スタッと降り立った先に目をやると、そこは大きな寺院であった。