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避けて通れぬ試練

「今日で最後なんだから、頑張らなくちゃ…。」


ツアー最終日を迎えた3月26日土曜朝7時。

ベランダから入る早春の弱々しい光を背にして、雪見はしゃがみ込んで

めめの頭をずっと撫で続けていた。時に溜息をつきながら。

独り言を聞きつけたラッキーも、励ますかのように膝頭に頭をこすり付けてくる。


いつものように、ライブ前の緊張を解くためにだけ猫の助けを借りてるわけではない。

むしろ緊張感だけを味わえる朝だったら、どんなに良かったことか…。

めめの頭を撫で続けたぐらいでは解決しない、入り組んだ感情である事など

当の昔に知っていた。

大事なラストライブの朝なのに…。



昨夜はライブ終了後、久々に四人で「秘密の猫かふぇ」へ行き、軽く飲んで食事した。

猫カフェ再建の手助けを約束した雪見が、どうしても早急に見ておきたいとの

たっての希望で。

思い立ったら即行動の雪見を、すでに三人は重々承知してるので、

誰も異議を唱える者はいなかった。

だが「ご馳走するからみんなでご飯食べに行こう!」と勝手に盛り上がる母軍団を断り

お引き取り願うのは心が痛んだ。


「ごめんねー、母さん!田中さんも、せっかく来てくれたのに…。

ほんとは来てくれたお礼に、こっちの方がご馳走しなくちゃいけないのにね。

でも、今日はどうしても行かなきゃならないとこがあるんだ。

私ね、事務所にあと半年お世話になることになったの。

大きな仕事の手助けをすることになって。

だからニューヨーク行くまでに、少しでもその仕事を進めなきゃ…。

売れっ子もつらいもんだねーっ!」


笑いながら話す娘の中に、身の引き締まるほどの緊張感と暗中模索する心が垣間見えた。

あとは結婚に向かってまっしぐらの、楽しい日々を送るもんだと思っていたのに…。


我が子の苦労を望む親など一人もいない。

だが、いつも自分から苦労を背負い込む娘を、この子はそう言う子なのだと

自分に言い聞かせ、励まし見守るのが母の務めと最近やっと悟った。

今頃悟っても、もう遅いのかも知れないが…。


「そう…。自分で決めたのなら最後まで頑張りなさい。

だけど身体にだけは気を付けて。母さんのことなら心配しなくていいから。

いつも頼れる看護師さんが側にいるんだし。

あんたは健人くんのことだけを考えて、生きて行きなさい。」


そう言って母はにっこりと微笑み、楽屋を後にした。

まるで遺言のような言葉を残して…。


ごめん、母さん。健人くんのことだけってわけにもいかないの。

仲間を助けてあげなくちゃ…。



しばらくぶりの猫カフェは、金曜の夜とは思えないほど閑散としていた。

ライブ前に常務が言ってた通り、この店が消滅の危機にあるというのは本当なのだ。

信じたくない事実を目の当たりにし、お酒が入っているにもかかわらず

四人は食事中も口数が少ない。

疲れも相まって、足取り重く早々に店を後にした。


何が出来る?この私に何が出来るんだろう…。

あまりにも重い任務に、引き受けた事を後悔しそうになる。


そして翌日…。


結局猫カフェ救済方法を何も導き出せぬまま、朝を迎えてしまった。

ライブ前の緊張感に加え、答えの出なかった難題。

それに更にプラスされて、とどめを刺すような事態が待ち受けていた朝…。


「ありがとねっ。大丈夫、頑張るからっ!最後だもん、頑張る!

さてと…そろそろ健人くんを起そうか。」

雪見は自分に言い聞かすように、最後にもう一度二匹の頭を撫で

二度も「頑張る」と口にしながら立ち上がった。


朝早くから付けっぱなしのテレビでは、当麻、健人二組の大型カップル

結婚の話題が流れてる。

芸能ニュースはどの局も、昨日発表されたこの話題一色。

雪見が口にした「頑張る」と言う言葉は、このニュースに目を向けながら

発せられたものだった。


昨日のライブでは、確かにファンみんなが祝福してくれた。

テレビのコメンテーター達も、このビッグニュースに一様に興奮しながら

おめでたい話題として盛り上がっている。だが…。


雪見はそれを他人事のように冷めた目で見てた。

ちっとも自分の事として「嬉しい」という感情が湧いてこない。

世間に正式発表され、やっと結婚に向けてスタートを切った喜ぶべき朝だと言うのに。

それどころか心が暗く沈み込んでる。今日のライブが不安で仕方ない…。


昨日の帰りがけ、常務が言った。

「明日のライブは最高に盛り上がるぞー!絶好の興奮材料を提供したんだからなっ。」

その興奮材料が怖かった。

昨日と同様、祝福されて盛り上がるだろうなどと言う脳天気な確信を、

雪見はまったく持てずにいた。

何故なら、よせばいいのにインターネットを覗いてしまったから…。


ネット上では、このニュース解禁と同時に膨大なる数のツイートや書き込みがされ、

瞬く間にこの話題で埋め尽くされている。

それを見なければ良かったのに、雪見は恐る恐る覗いてしまった。

結果は…ただ傷ついただけ。自信を失っただけ。悲しくなっただけ…。


勿論、二人を祝福する嬉しい声も多数ある。

だがこんな時に目に留まるのは、良い言葉よりも悪い言葉。

感情剥き出しの鋭いナイフのような言葉たちが、雪見の胸を容赦なく斬りつけた。

収拾付かないないほどに心も掻き乱された。

ある程度は覚悟しとけよ、と言う今野の声が蘇る。

これが「ある程度」の事なのか…。


こんなの健人くんには見せられない。絶対に…。


すぐにシャットダウンしノートパソコンをパタンと閉じた。

だがすでに目に焼き付いてしまった忘れてしまいたい言葉たちは

心で増殖を始め浸食し続けて、とうとう何の隙間もなくなってしまった。


どうしよう…。こんな気持ちで歌えるわけがない…。

だけど『SJ』にとっては次に繋がる大事な日。

演技でも何でも、明るく振る舞わなきゃ。

私は健人くんを照らす太陽で有り続けなければいけないんだ…。


時間はお構いなしに一歩ずつ近づく。

もう健人を起こし、準備を始めなくてはいけない。

雪見の心は体勢を崩したまま、見切り発車せねばならなかった。


「健人くん、おはよ!朝…!?えっ?いないっ!!」

寝室でまだ寝てるはずの健人がいない!

ベッドはいつものごとく、ガバッと起きたままに乱れてる。


「健人くんっ、どこっ!?どこにいるのっ!?」


雪見はそう広くはない部屋中を、大声を出しながら捜し回った。

親に置いてかれた子供のように、半ベソをかきながら。

健人が自分から逃げ出してしまったんだと、頭が勝手に解釈してた。


その時だった。ガチャリと玄関で鍵が開く音が聞こえた。

「ただいまー!ゆき姉、朝飯出来てる?めっちゃ腹減ったー!」


バタバタと雪見が駆け出し、玄関に腰を下ろした健人の背中に飛び付いた。

その温もりに触れた瞬間から涙が溢れて止まらない。


「えっ!?なになにっ!ビックリするじゃん!

てか、背中汗びっしょりで気持ち悪いんだけど。どしたの?」

背中越しに健人が笑って聞いた。


「いなくなったかと思った…。どこかに行っちゃったんじゃないかって…。」


「えーっ!なんでなんでぇ?

今日から体作り開始しようかと思って、その辺を走ってきただけなのに。

ニューヨークのレッスンって、体力ないとキツイって聞いてるから。

それよりシャワーしてくっから、朝飯の準備よろしくっ!」


健人は雪見の涙の訳も聞かずに立ち上がり、頭をクシャクシャッと撫でてから

バスルームへと消えていった。それ以上無いほどの飛び切りの笑顔を残して。

その笑顔を見て雪見は、健人が何もかも知っての笑顔であることに気が付いた。



健人はすでに前を向いて歩き出してる。

何物にも囚われず、外の喧噪など興味も持たず、ただ雪見との

希望に満ち溢れた未来だけを、その大きな瞳に映して…。


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