結婚すると言うことは
まだ話は始まったばかりだと言うのに、スタート早々しばしの静寂が訪れた。
だがそれは常務の小野寺が、あえてすぐには言葉を繋がずに、
みずきに少しの猶予を与えてのことだった。
みずきが膝の上で握り締めてる拳の上に、横から当麻がスッと左手を伸ばす。
そして自分の大きな手でみずきの拳を優しく柔らかくそっと包み込み、
みずきの取り乱した心を落ち着かせようと、ただ温もりだけを伝えていた。
大丈夫だよ、俺が付いてるから…。
当麻の手の平は温もりだけではなく、確かにみずきに心をも伝えていた。
人の心を読むことくらい、みずきにはたやすいこと。
ましてや直接触れられた皮膚からは、読もうと思えば心の隅々まで読み切れる。
当麻は…当麻はただひたすら一言だけを繰り返し念じていた。
大丈夫だよ、俺が付いてるから。だから大丈夫…。
その単純なまでに真っ直ぐな心。
何の計算もなく、ただ心のおもむくままに向かってくる一途な気持ち。
そうだった…。もう私は一人じゃない。当麻がいるんだ。
父さんが亡くなって私の魂がひとりぼっちになった時、当麻が私を救ってくれた。
誰にも見せることが出来なかった絶望的な悲しみに、当麻だけは気付いてくれて
何も言わずに側にいてくれたんだ…。
初めて本当の自分をさらけ出すことが出来た人。
私をステイタスとしてではなく、素の華浦みずきを好きになってくれた人。
だからこの人と、一生を共に歩んで行こうと決めたんだ。
だったら…だったら私はどこにいたっていいじゃない。
事務所なんて、そんなに重要なこと?
むしろ当麻と一緒にいれる事を感謝するべきでは?
でも…どうしておじいちゃんの事務所が無くなるの?
一体、私の知らぬ間に何が起こったの…?
おじいちゃんはどうなるの…?
次々と疑問が湧いてはくるが、もう先ほどのような心の乱れは感じない。
みずきは当麻の手の温もりと、ただ一途な心に平常心を取り戻し
この先の事態と真摯に向き合うために、まずはコーヒーに口をつけて
気持ちを立て直した。
キリッと苦いコーヒーは意識を覚醒し、楽屋一杯に充満した芳しい香りにも
鎮静効果があるのが良くわかる。
もしかして夏美はこの展開を初めから予想して、
あえてコーヒータイムを設けてくれたのでは無かろうか…。
だとしたら、やはり話に聞いてた通り凄腕の常務秘書。
夏美の心遣いに感謝しよう。
すっかり落ち着きを取り戻したみずきの姿に安堵して、
他の皆もホッと一息コーヒータイム。
雪見も、次に回ってくるであろう自分たちの番に備えてカップを手に取った。
すると間髪入れずに横から手が伸びて、「あげる。」
と当麻がミルクをくれる。
「私のは健人にあげて。」みずきも横送りにミルクを差し出した。
二人は、健人と雪見がカフェオレしか飲めない事を知ってて
気遣ってくれたのだ。
「あ、ありがと!」
こんな場面においても気に掛けてくれてることが、雪見には
ことのほか嬉しかった。
自分の分と当麻のミルクを入れた少し冷めたコーヒーは 、
心を落ち着かせるどころか強い勇気さえも与えてくれた。
4人でいれば大丈夫。きっと何を言われても大丈夫。
なぜか根拠もなくそう思えた雪見だった。
「よし、じゃあ話を再開するぞ。時間がないからな。」
小野寺が、一気に飲み干したコーヒーカップをテーブルに置くと同時に
早口加減で4人に言い渡す。
「みずき…。お前にとっては何とも辛い話だが…。
津山泰三事務所が不渡りを出したんだ。事実上の倒産だ…。」
「えっ…!?そ、そんな馬鹿なっ!嘘でしょ?嘘ですよねっ!!
嘘だ…。私、一生懸命頑張って来たのに…。」
みずきは、それだけ言うのがやっとで後は茫然とうつむいた。
「すまないが話を先に進めさせてもらう。まずは一通り説明するぞ。」
小野寺は気の毒そうな顔をみずきに向けたが、時間がないとばかりに
当麻に対して淡々とした声で話の続きを急いだ。
それは、すでに小野寺が当麻をみずきの夫として認めてるからに他ならなくて
当麻も、妻であるみずきに代わって話を聞くのは当然と、
小野寺の言葉を受け止めるために真剣な表情で身を乗り出した。
その横顔を健人が不思議な思いで眺めてる。
当麻って、こんなに大人な奴だっけ…?
俺の知ってる当麻は優柔不断でマイペースで、感覚だけで行動するような奴で
大人っぽいと思った事は一度もなかったのに…。
けど今の当麻は、頼りがいある立派な大人に見える。
結婚するって、そういうことなのか…。
頼りがいのある男になるって事が結婚するってことなんだ。
だって奥さんを全力で守るのが使命なんだから。
俺は…今の俺は…頼りがいなんてきっと…ないな。
健人よりも一つ年下で、子供っぽいとばかり思い込んでいた当麻が
あまりにも凛々しくたくましく、自信に満ち溢れ輝いて見えた。
自分よりも明らかに格上のハリウッド女優である年上妻に対し、
何のさげすみも気負いもなく、ましてや卑屈になったり遠慮がちにもならずに
当麻は堂々とした見事な夫ぶりである。
そんな親友の姿を横で眺めてた健人は、自分の頼りなさが
ひどく子供じみて見え、当麻より自分の方が大人だと思ってたのは
まるで独りよがりな勘違いだったと恥じ入った。
俺はゆき姉を…守ってやれるのかな…。
12も年下の俺を、ゆき姉は頼ってくれるのかな…。
図らずも同時期に結婚する親友同士。
思いがけない場面で、合わせ鏡のように自分の現実に遭遇した健人は
そこから透けて見えた自分の姿に一抹の不安を覚えた。
その隣で雪見は、健人がそんな心境にいるとも知らず、
ただ親友夫婦の行く末を心配そうに見守っている。