取材前のひと騒動
大事な大事な全国ツアー最後の会場に到着したと言うのに、雪見のお尻は
車の後部座席に張り付いたまま、びくともしなかった。
よりによってこんな日に、化粧ポーチを忘れてくるなんて…。
出がけにバッグを慌てて取り替えたので、どうやらそれだけ移し忘れたらしい。
なんと余計な事をしたものか!と後悔するも後の祭り。
二十代の頃はどうってことなかったすっぴんも、三十代に突入した途端自信が消え失せ、
今となっては自宅にいる時だけの顔になってしまった。
それなのにそれなのに、こんな大勢の報道陣の前に晒さなければならないなんて!
「もう観念して降りろっ!仕方ないだろっ!
囲みは30分後にセットし直すから、それまでに準備すりゃいい。
健人!しょうがない。俺が許可するから雪見と手をつないで降りてやれ!」
今野はいつまでもグズグズと車から降りない雪見に業を煮やし、健人に目配せする。
すると雪見は案の定、今野が思った通りの反応を返した。
「なに言ってんですか、今野さん!そんなこと出来るわけないじゃないですかっ!
わかりました!降りますって!もうどうなったって知りませんよ!
こんなすっぴん晒して。」
「おいおい、今度は逆ギレかよっ!自分が寝坊したからだろっ!?」
今野が呆れ顔して笑いながら雪見をにらんでる。
「ゆき姉さぁ…。もっと自分に自信持っていいんだって!
俺が綺麗だって言ってんだから、すっぴんだって綺麗なのっ!!さ、降りるよっ!」
健人がそう言いながら、雪見に猶予も与えず車のスライドドアを開けた。
『やれやれ…。勝手にのろけてろっ!』と思いながら今野が振り向くと、
なんと先に降りた健人があろう事か雪見の手を取り、エスコートまでして
颯爽と報道陣の前を横切って行くではないか!
「お、おいっ!健人〜っ!!」
慌てふためく今野の空しい叫びが、一斉に切られたシャッター音によって
跡形もなくかき消される。
堂々と前を向き、にこやかに「おはようございま〜す!」と挨拶しながら進む健人。
その半歩後ろを雪見が、キャップを目深に被りうつむき加減で会釈をしながら
足早に付いて行く。
勿論その手は健人によって、しっかりと二人繋がれたままに…。
「けんとぉぉーっ!囲み前にお前、なんちゅー事を!
外の連中がお祭り騒ぎになってんぞっ!どーすんだよっ!!」
車を地下駐車場に止め大急ぎで楽屋に飛び込んで来た今野が、開口一番大声を上げた。
「え?何が?だって今野さん、手を繋いで降りてやれ!って…。」
健人が、着替え中のパーテーションの向こう側から声だけで返事する。
「なんでやねん!あれは雪見を降ろすための口実に決まってんだろが!
あー言えばあいつは、お前に迷惑かけないようにって、とっとと降りると思ったから!
それなのにお前って奴は真に受けやがって!目配せしただろーが!
お前もこっちを見てただろっ!?」
「え?うそっ!目配せ??俺、今野さんが寝不足で目がしょぼしょぼしてんだと思った。」
そう言いながら健人が、取材用衣装に着替えて姿を現す。
と、そこへ…。
「なんだよ外の騒ぎ!なんかあったの!?あ、おはよーございます!」
当麻がバタバタと一足遅れで楽屋入りした。
「おはよ!そんな騒いでた?ごめん!囲みがちょっとうるさくなるかも…。
先、謝っておく!すまん!」
健人が当麻に事の経緯を説明し、両手を合わせて首をすくめた。
「なんだよ、そんなことで騒いでたの?俺今、肩抱きながら歩いて来たけど?
みんなが期待してそうだったから、ほっぺにチューまでサービスしたし。」
「ええーっ!?みずき、帰国してんのー!?」
突っ込みどころが違うだろっ!と即座に今野に突っ込まれた健人だったが、
みずきが今雪見の楽屋に居ると聞き、ホッと安堵の表情を浮かべた。
良かった!みずきがそばにいてくれたら、ゆき姉のことは心配いらない、と…。
その頃、当の雪見の楽屋では…。
「みずきさ〜ん!会いたかったよぉ〜!!」
「ゆき姉!元気だった?あ、みずきさんじゃなくて、みずきでしょ!
ねぇ。外の取材陣、えらい張り切ってたけどなんかあったの?」
みずきが雪見とハグした身体を離しながら、顔を見て聞いた。
「うそっ!?そんな騒ぎになっちゃった?あーん!だから嫌だったのにぃ、すっぴん!!
今日ね、寝坊しちゃってお化粧もしないで飛び出して来たの。
髪もグチャグチャのまま!それでみんなの前を通って来たから騒ぎになっちゃったんだ!
最悪!囲みやりたくな〜いっ!!」
まったくの勘違いだったが、そのお陰でみずきが手を貸してくれる事になった。
「ぜんっぜん、ゆき姉のすっぴん綺麗だけどなぁ?
よしっ!じゃあみんなが驚くほどの美人さんに、私がメイクしてあげる!
私ね、前からヘアメイクに興味があってね。
ハリウッドで実はずっとメーキャップスクールに通ってて。
そんでなんとなんと!今回の試験で無事アーティストの資格を取ったのだぁ〜!」
「うそーっ!?みずきがぁ〜!?すっごーいっ!!
こんな凄い女優さんなのに、スクールに通って資格取るなんて!」
雪見が尊敬の眼差しで、十歳も年下のみずきを眩しそうに見た。
「えへっ。日本に居たら無理な話だったけどね。
けど向こうじゃどんな大女優さんでも、常に自分のスキルアップは怠らない。
みんな貪欲に日々自分磨きをしてる。身も心もねっ。
あーこんなお喋りしてる暇はなかった!
さ、ここに座って!私のプロ第一号の記念すべきお客さん!」
そう言って雪見を鏡の前に座らせたみずきは、
「こんなことなら自分のメイクバッグ、持って来れば良かったぁ!」
と嘆きながらも、楽屋備え付けのメイク道具を手元にずらりと広げ、
進藤に負けず劣らずなスピードで手際よく、あっという間にヘアメイクを完成させた。
「よしっ、完成!自分の道具じゃないから取りあえずってとこもあるけど、
いつものゆき姉らしくナチュラルで、だけど知的に格好良く仕上げてみました!どう?」
みずきの得意げな顔と一緒に鏡に映ってたのは、紛れもなくいつも進藤が仕上げてくれる
カメラマンの浅香雪見そのものだった。
今日の囲み取材はロビーの写真展会場で行うので、ライヴを行うアーティスト
『YUKIMI&』ではなく、カメラマン『浅香雪見』でのスタートなのだ。
「ねぇ!どうして今日の取材がカメラマンとしてなのか判ったの?
私、みずきにさっき話したっけ?」
自分で話した記憶が無いのにと、脳みそが少し心配になった。
するとみずきが、椅子の上に置いてある雪見のバッグを指差して言う。
「お父さんだよ、ゆき姉のお父さん!バッグに押し込めたままでしょ?
ライヴより写真展を見に来たのに、いつまでもほったらかされてる!って怒ってるよ!」
そう言ってみずきが苦笑いをしてる。
「あ!わすれてたっ!」
ごめんごめん!と言いながら取り出された父の遺影は、少しだけふくれっ面の笑顔に見えた。