表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
320/443

ラストライブの朝に

「ヤバイよ、ヤバイっ!浅香雪見人生始まって以来の大ピンチだ…。」


しんと静まり返ったバスルームで、雪見の独り言は壁や天井に跳ね返り、

再び雪見の上に覆い被さる。

それは確かに自分で発した言葉なのだが、倍返しにされて脳の奥底まで染み込んだ。



3月25日金曜日、早朝4時。

全国ツアー最後の東京公演二日間の初日。


雪見は夜中の1時半過ぎに就寝したにもかかわらず、極度の緊張でほとんど一睡もできずに

健人が熟睡するベッドをそっと抜け出す。

午前3時頃からパソコンに向い、気を紛らわすために全国ツアーで撮り貯めた写真を

淡々と整理していたのだが、これとて到底集中できるはずもなし。

いい加減諦めて、バスルームへと場所を移した。


真っ暗闇にぽおっとアロマキャンドルを灯す。

バスタブには同じ香りの入浴剤を入れた。

ゆらゆらと揺らめく炎を眺め、少しでも心を落ち着かせるために何度も深呼吸をする。

胸一杯にその香りを吸い込むが、今日ばかりはアロマのリラックス効果も歯が立たなかった。


「だめだぁ、こんなんじゃ…。」


はぁぁ…とため息をつきながら作戦の変更を余儀なくされた雪見は、

最後の砦である健人の元へと舞い戻る。

起こしてはいけないとそろりそろりと近づき、枕元の床にペタンと腰を下ろした。


寝室の窓は遮光カーテンによって一切の光が遮断され、夜明けさえも気付かない。

そんな暗闇においても健人の透き通るように白い肌は、美しいシルエットを描き、

そこに存在すること自体が神々しく思えた。


雪見は身じろぎもせずに、ただひたすら神の子の寝顔を凝視する。

いついかなる時も美しく、飽きずに何時間でも眺めていられる横顔。

眺めるうちにいつしか心は落ち着き、何故ここでこうしているのかという理由も忘れ、

今度は天に向かって祈りを捧げた。


神様、どうかこの安らぎの時が一日でも長く続きますように…。



「ねぇ。さっきから何をゴチャゴチャやってんの。」


「え?えーっ!?起こしちゃったぁ!?」


突然パッチリ開いた瞳にビックリした雪見は、祈りを捧げるために組んでいた両手の指を

慌ててほどいて下に降ろす。


「なんでいっつも俺を拝んでんの?死人じゃないんだからさ。

もしかして…また寝てないの?ダメじゃん!今日は大事な日なのに。」


「だってぇ。寝れなかったんだもん…。」


「おいで。」


そう言いながら健人は、ふわっと羽毛布団の端をめくり上げ、雪見を迎え入れる。

健人の良い匂いがする温かなベッドの中は、ひとたび入ると母のふところを思わせて

これ以上の癒しはこの世に無いだろうとさえ思えた。


「冷たっ!えー?髪も濡れてる。もしかしてお風呂入ってそのまんま?

風邪でも引いたらどうすんの。」

健人が自分の体温で雪見を温めようと、ギュッと身体を抱き締めた。


「あ、ゆき姉、めっちゃいい匂いする!なんの匂い?」

首筋にクンクンと顔を埋められ、雪見はくすぐったくて身をよじる。


「やだやだ!くすぐったいからやめてっ!この前買ったアロマの匂い!

深いリラックス効果を得られるって宣伝文句に釣られて買ったけど、

今日の私にはひとつも効果が無かった!結構高かったんだけどなー。

よっぽど健人くんの匂いの方がリラックス出来るよ。」


「じゃ、俺がゆき姉の匂いでリラックスしよ。」

そう言って健人は雪見に唇を重ねた。


何度も何度も口づけては「愛してる」とささやき、また口づける。

時が経つのも忘れるほど求め合うことが今日に必要な儀式の気がして、

いつまでもお互いを愛し合った。


気が付けば二人とも、再びの夢の中…。

次に目覚めたのは、それから3時間後の午前9時。

なんと、健人に掛かってきた今野からの電話によってだった!



「はい…?」


「お、おいっ!まっさか、まだ寝てたんじゃねぇだろーなっ!?

もう下に着いて待ってんだぞっ!とっとと二人とも降りてこいっ!!」

健人も雪見も、心臓が止まりそうになるほど驚いて飛び起きた!


「うそうそっ!!なんで9時なのっ!?うそでしょーっ!!」


乾かしもせずベッドに潜った雪見の長い髪は、健人に乱されたまま寝入ったお陰で

グチャグチャもいいとこ。

健人も雪見も、取りあえず歯を磨いて顔を洗い、着替えるので精一杯。

本当はモーニングコーヒーと朝食をゆっくり楽しみ、準備万端整えてから

出掛ける予定だったのに…。


手分けしてめめとラッキーにご飯と水をやり、二人ともキャップを目深に被りバッグを持ち、

ドタバタと大慌てで玄関の鍵を閉めた。


エレベーターに飛び乗ったところで雪見が大声を上げる。

「ああーっ!カメラバッグを忘れちゃったぁ!健人くん、先に行ってて!」


再び部屋へと戻った雪見は、リビングの仕事コーナーから急いでカメラバッグを手に取る。

そしてきびすを返す瞬間、ふとパソコン横の写真立てに目が留まった。


「あ…忘れるとこだった!良かったぁ、思い出して。

今日は連れてく約束だったもんね。ごめんごめん!

そっか!父さんが、わざとカメラバッグを忘れさせたんだ!

はいはい!ちゃんと特等席にご招待しますって!じゃあ行こうか。

めめとラッキーもいい子にしててね。おうちで応援しててよ。行って来ます!」


雪見の手には、亡くなった父の写真が入った写真立てが大事そうに握られていた。

娘のドタバタを『しょうがない奴め!』と苦笑うかのような笑顔で…。



「おはようございますっ!ごめんなさい、今野さん!

大事なカメラバッグを忘れて来ちゃって。あー思い出して良かったぁ!」


マンションの地下駐車場に止まってた黒いワンボックス車のスライドドアを開けながら、

雪見が統括マネージャーの今野に、ニコニコと詫びを入れる。

しかし今野が振り返り、雪見をひと目見て絶叫した。


「お、おまえぇ!なんじゃ、その髪はぁ!?化粧もしてないしぃ!」


「あぁ。だって、どうせこれから進藤さんに綺麗にしてもらうんだから、

別にいいじゃないですか。誰に見せる訳でもないし。

今野さんだって私のすっぴん、見飽きてるでしょ?何を今更。」


「お前も健人と一緒に忘れとんのかぁ!?

今日は会場入りしてすぐに、囲み取材があるって言っただろ!

しかも進藤ちゃんは違う仕事が入ってるから、囲みには間に合わないって!

自分でヘアメイクして行くから大丈夫だって言ったのはお前だぞっ!」


「あぁーっ!!そうだったぁ!どうしよう!?」


大絶叫の中、雪見と健人を乗せた車は仕方なく発進する。

25分ほどで到着したライブ会場前には、すでに多くのマスコミが二人の到着を

手ぐすね引いて待ち構えていた。


こんな大事な日のスタートに、何たる事を!

マスコミが整列してる前に、こんな格好で車を降りなくちゃならないなんて!


唖然としながら隣に目をやると、雪見の騒ぎなどお構いなしに手鏡を覗き込み、

髪にスタイリング剤をつけてる健人がいた。



波乱の幕開け。雪見のラストライブ…。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ