健人の望み
「こんばんはー!母さん、調子はどう?」
その日の外仕事を終え、残りの作業は自宅のパソコンでやらなければならなかったので、
一足先に現場を後にし実家へと立ち寄る。
午後7時。勝手に家に上がり込み居間のドアを開けると、そこにはソファーに横たわり
目を閉じている母の姿があった。
「母さん!具合悪いのっ!?大丈夫っ!」
「びっくりするでしょ、そんなに大きな声で。死んでなんかないから安心しなさい。
仕事は?もう終ったの?」
駆け寄った雪見の心を見透かすように、母は笑いながら上半身を起こす。
良かった…。今日は昨日より体調がいいみたい。
声のトーンが昨日とはうって変わり力強く感じられたので、ホッと胸をなで下ろす。
そこで雪見は、先ほど看護師田中から電話で指示された通りの小さな芝居を、
自信を持って実行に移した。
「うん、あとの仕事は家でやらなきゃなんないの。
母さんに良い知らせがあるから寄ってみた。」
「えっ?良い知らせ…って?」
訝しげに顔を見上げる母に、雪見は満面の笑みで答える。
「あのねっ、25日の私のライブ、看護師の田中さんも見に来てくれるんだって!
すっごい嬉しいでしょ?なのはいいんだけど昨日の夜、田中さんからメールが来てさぁ。
一人じゃ心細いって言うんだよー!あんなに普段ワーワー騒がしい人なのに。
でね、どうしても一人じゃ無理だから母さんと一緒に見たいって言うの。
可哀想になって、母さんの事こちらこそよろしくお願いします!って返事しちゃった!」
「ええーっ!?」
母の驚きたるや相当であった。
すでに行く気はまったくなかったらしく、お腹の底からの大声をしばらくぶりに聞く。
「母さんは無理だって言ったでしょ!周りの皆さんにご迷惑かける訳にはいかないって!
なんで勝手にそんな返事しちゃうのよっ!」
母の反応なんて聞く前からわかってる。母はいつでもそういう人だ。
自分の事で周りに迷惑かけるのが、死ぬほど嫌いな人。
きっと本当の死を目前にしても、その姿勢だけは崩すことはないだろう。
けどね、悪いけど今回だけは引き下がらないよ。
私が一生後悔するもの。
母さんが死んだあと、絶対私が後悔するもの…。
そんな後悔背負って生きるなんて、まっぴら御免!
「母さん、大丈夫だって!昨日より今日の方が調子いいでしょ?
今日より明日の方が調子いいんだよ?だったら三日後はもっといいでしょ!
それに担当看護師さんが隣りにいるんだよ?こんなに安心なことないじゃない!」
「…ねぇ。あんたまさか田中さんに、無理言って頼んだわけじゃないでしょうね?」
「えっ…!?そんなこと、あるわけないでしょ!!」
まずいっ!今バレたら絶対に来てはくれない…。なんとかしなくちゃ!
「母さん…正直に言うね。今回はどうしても来てほしいの!
あのね、健人くんのお母さんや当麻くんのお母さんも見に来てくれてね、
終ったあとスタッフさんみんなに挨拶して回るんだって。
うちの息子が大変お世話になり、ありがとうございました!って。
これだけ大規模な全国ツアーをやらせてもらったんだもの。
なのにうちだけ誰も挨拶に行かないのは、どう考えてもマズイでしょ!?違う?」
一か八か、真っ向勝負で戦ってみようと思った。
本当はそんな理由、後付なんだけど…。ところが!
「えっ!そうなの?うそっ!どうしてそれを、もっと早くに言わないのよ!
たーいへん!こんな毎日寝てる場合じゃないわっ!
やだーっ!なに着て行こう!?ね、今何時?」
「え?え?今?まだ7時半前だけど…?」
思いもしなかった突然の豹変ぶりに戸惑う雪見。
「ねっ、買い物付き合って!これから服買いに行く!!」
「えっ?ええーっ!?」
「うっそ!そんで?それから二時間もゆき姉と歩き回ったわけ?
おばさん、疲れ切ったんじゃね?大丈夫だったの?」
「疲れ切ったのは私の方よ!母さんなんて『あー、お腹空いたぁ!』とか言って、
ざるそば一枚ペロッと完食したんだからっ!
昨日はプリン一口しか食べられなかったのに。ほんっとにもう!」
雪見が帰宅してから三十分もしないうちに帰ってきた健人が、着替えてコンタクトを外し
眼鏡を掛けながらテーブルにつく。
食卓には、雪見が大急ぎで作った軽めの料理三品と白ワインが並んだ。
「ごめんねー。ほんとは真由子からもらった美味しそうな赤ワインがあったから、
圧力鍋でビーフシチューでも作ろうと思ってたのに…。」
「充分ご馳走じゃん!いっつも感心するけど、マジゆき姉ってすげーよね!
魔法みたいに短時間で美味い料理が出て来る。絶対ビストロとか出来るって!」
「そう?じゃあ老後は二人でお店でも開こっか!」
「老後ぉ?そんなヨボヨボになってからじゃヤダよ!」
健人が笑いなが二つのグラスにワインを注ぎ、お疲れっ!と言いながら
ひとつを雪見に手渡す。
そして雪見がいつになく嬉しそうに笑っておしゃべりするのを、健人はグラス片手に
頬杖つきながら幸せな気分でジッと眺めた。
「なになに?顔になんか付いてる?」
健人の視線に気付いた雪見が、怪訝な顔して聞いてみる。
「目と鼻と口。あ、眉毛と泣きぼくろも。」
「なにそれ?健人くんにだって私とおんなじの、付いてるよーだ!」
ケラケラ笑って雪見がワインを飲み干したところへ、また健人がグラスを満たす。
それから噛み締めるように、ぽつんとつぶやいた。
「もうすぐ、ぜーんぶ俺のものになるんだね。」
「えっ…?」
ポロッと溢れた本音であった。
『YUKIMI&』引退まであとわずか。その日を健人は待ち望んでいたのだ。
確かに今の雪見には大勢の熱狂的ファンがつき、交際宣言した二人とは言え
まだ雪見はファンのものでもある。
それを今まで決して口には出さないで来た健人だったが、その日を目前にして
思わず本音を語ってしまったのだ。
「今まで嫌だった…の?」
「違うよ、そうじゃない。けど、早く落ち着きたかったのはホント。
二人で堂々とニューヨークへ渡って、早く演劇の勉強がしたい。
24時間ずっと一緒にいて、二人でたくさんミュージカルやお芝居見て、
英会話を習ったりワークショップに参加したり…。
買い物にも行きたいし、あっちこっち見て回りたいし、やりたい事が山ほどある!
もちろん結婚式も…。あ、それを真っ先に言わなきゃダメだったかー!」
健人は照れてワインをゴクゴクと飲み干した。
あーうまいっ!と笑いながら。
雪見は嬉しくて嬉しくて、すべてを泣きぼくろのせいにして泣いていた。
健人が手を伸ばし、よしとしと頭を撫でてくれても尚のこと。
それから三日間、二人は全力で準備してその日を迎えた。
いよいよ全国ツアー最後のライブ、東京公演初日が幕を開ける!