素敵な病院
僅かばかりの沈黙は、すぐに婦長が打ち破ってくれた。
いつにも増して穏やかな笑みを浮かべ雪見を見つめたあと、あまりにも唐突なお願いに
目をぱちくりしてる田中に向かって言った。
「そう…。わかったわ。田中さん、25日の勤務はどうなってるの?」
「え?25日ですか?今週の金曜日でしょ?確か準夜勤だと思ったけどな…。」
相変わらずのタメ口をききながら、田中はポケットから手帳を取り出し
「うん、やっぱりそうだ!」とうなずきながら婦長を見る。
「じゃあ私が勤務を代わってあげるから、あなたは浅香さんに付添って
コンサートに行ってあげなさい。
担当患者さんの願いは出来る限り聞いてあげる。これがこの病院のモットー!
いつもみんなに話してるわよね。」
婦長は、少し羨ましげに見てる他の看護師を見渡してにっこり微笑み、田中を促した。
「えっ!?いいんですかぁ!?でも婦長、25日のお休みは何か用事があったんじゃ…。」
さすがの田中も、嬉しさ半分遠慮半分な顔して婦長をのぞき見る。
「あー、いいのいいの。急ぐ用事じゃないし。
それよりもあなた、お休み中とは言え看護師として患者さんに帯同するんですからね。
緊急に備えてバイタルチェックだけは怠らないように。」
婦長は最後に一瞬だけ、キリッとした目で田中を見た。
だがすぐにまた笑顔に戻り、「まぁ、あなたの方が興奮し過ぎて倒れないようにねっ!」
と言って笑ったが、瞬きほどの田中とのアイコンタクトを雪見は見逃してはいない。
それが何を意味しようとも、今は考えないようにしよう。
母をライブに連れ出す条件が整い、ただそれだけを喜ぶことにしよう。
「婦長さん、ありがとうございます!田中さん、よろしくお願いします!」
雪見が二人に頭を下げると同時に、田中のスイッチがONに切り替る。
「やったーっ!うそっ!?私が雪見さんのライブに行けるのぉ!?
しかもお母さんの帯同看護師でぇ?やだ、ウソみたーい!!
斎藤健人と三ツ橋当麻にも会えたりするっ?
もしかして首からバックステージパスとかぶら下げて、お母さんと一緒に
楽屋とかも入れちゃったりとか?」
田中のテンションが一気に爆発し、びっくりした婦長が思わず「うるさいっ!」と叫ぶ。
そこで雪見はまたしてもシマッタ!と思うのだった。
他の看護師だって行けるものなら行きたいに決まってる。
少しは騒ぐであろうと予想してはいたが、まさかここまで大騒ぎするとは…。
「た、田中さん田中さん、落ち着いて!詳しい話は後からねっ。
あ、そーだ!忘れてた。みなさんにもう一つ差し入れがあったんだ!」
雪見が、ナースステーション入ってすぐ脇に、ドカッと置きっぱなしにしてた
大きなトートバッグの存在を思い出し、慌てて中身をよいしょ!と取り出した。
それは二十冊以上もある写真集であった。
「良かったらここに置いてもらえませんか?私が今までに出した写真集なんだけど。
二冊ずつ持って来たので、一セットはこのナースステーションに、もう一セットは
三階の談話ホールに置いてもらえたら嬉しいなっ。
少しは皆さんの気晴らしになるかな?と思って…。」
「うそーっ!?雪見さんの出した写真集?わぁ!可愛い猫がいっぱい!」
「キャーッ!こっちは健人くんや翔平くんの写真集だぁ!裏表紙にサインがしてあるぅ!」
「これ、欲しいーっ!」
「だーめっ!ここに置いといて、疲れた時に癒やされるのっ!
みんなのだからねっ!勝手に持って帰ったら怒るから!」
さっきまでちょっと憮然とした表情だった他の看護師らが、写真集を手にして
キャッキャと大騒ぎ!
これまた婦長のお叱りを受けそうな騒ぎようで、雪見は思わず「シーッ!」と
人差し指を唇に押し当てた。
だがどうやら皆がまあるく収まったらしい。
田中も一緒に加わって、雪見と婦長そっちのけで楽しそうに笑い合ってる。
「婦長さん、本当にわがままなお願いでご迷惑をお掛けしました。
このお返しはいつかきっと…。」
雪見が改めて深々と頭を下げ礼を言うと、婦長は穏やかな声で雪見に言って聞かした。
「言ったでしょ?この病院のモットー。私達は後悔する看護だけはしたくないの。
それはね、この病院が院長先生のそういう信念の元に造られたから。
だから私達は、浅香さんの笑顔のお手伝いが出来て嬉しいのよ。
こちらこそ、言ってくれてありがとう。」
思いもしなかった婦長からの礼に、雪見は瞳一杯の涙を浮かべた。
その言葉の意味がどうであろうとも、この病院に巡り会えたことを神様に感謝した。
表情を動かすと涙が溢れそうで、ただただ笑顔で婦長に一礼し病院を後にする。
車に乗り、ハンドルを握る前に涙を拭いた。
よし!きっと母さんは喜んでくれる。
笑顔になった母さんの写真をいっぱい撮ろう!
思い残すことなくカメラマンとして、娘としての最高傑作を撮ってあげよう。
人生最後をいつか飾るであろう、その時のために…。