22歳の新たなるステージへ
「ただいま…。ゆきねぇ…。ゆきねぇ!」
玄関先から、相当酔ってるとおぼしき健人の声がする。
パソコン作業の手を止め時計に目をやると午前四時。
健人の誕生日をすでに四時間過ぎていた。
ふぅぅ…と小さくため息をつく。
雪見は寝ずに健人の帰りを待っていた。
よしっ!と声をかけ椅子から立ち上がり、健人を出迎えに向かう。
『大事なお仕事だったんだから、笑顔で迎えるんだぞ!』
そう自分に言い聞かせたはずなのに、一瞬だけ頭をかすめたものがいけなかった。
先ほど冷蔵庫に片付けたばかりの酒のつまみと、奮発した赤ワインが
目の前に鮮明に蘇ってしまったのだ。
「おかえりなさい。お疲れ様でした。」
自分の口から出た言葉は、びっくりするほど冷たく聞こえた。
言ったそばから後悔し、慌てて笑顔を見せたが遅かった。
「ごめんね、ゆき姉…。間に合わなかった…。」
健人が悲しげな声と瞳でそう言った後、靴も脱がずに雪見の首根っこにしがみつく。
そしてもう一度「ほんっと、ごめん…。」と言ったあとはしばらくの間、
身じろぎもせずに雪見の肩へと額を押しつけた。
こんなにも酔っていながら、きっとそればかりを後悔して帰って来たのだろう。
それなのに私ときたら…。
「私の方こそごめんね。最初っから誕生会を明日にすれば良かったんだ。
いや一緒に住んでるんだから、いつだって良かったの。
そしたら健人くんだって、なんにも気にしないでお酒を楽しめたのに…。
ほんと、ごめんなさい…。」
雪見は健人の背中に手を回し、ぎゅっと力強く抱き締めた。
健人の温もりを感じれば感じるほど、自分の存在が健人の妨げになってる気がして
自分自身が悲しかった。
その時、健人がぽつりと雪見の胸の中で呟いた。
「会いたかった…。」と…。
「えっ…?」
聞き返した雪見に、健人はもう一度呟いた。「会いたかった…。」
それはまるで初めてのおつかいに出た子供が、帰ってきて真っ先に母の胸に飛び込み
安堵して呟いた、おませな一言と同じような意味合いだったかもしれない。
それでもその一言に雪見は救われた。
少なくとも健人が、自分の存在を疎ましく思っているのではなかった…と。
雪見は母のような優しい気持ちになって、その柔らかな手の平で健人の頭を
よしよしと撫でてあげる。
「私も会いたかったよ。」と言葉を添えて。
こうしていつも私達はお互いの心を癒やし合う。
ただそれだけのことで今日一日が素晴らしかったと思えるし、また明日も
素晴らしい一日が待っていると信じることが出来た。
お互いの心がニュートラルに戻る。
「さぁ、もう寝よう。また明日も仕事だよ。
あ、明日じゃなくて今日だった!たーいへん!早く早く!」
雪見は健人を促して寝室まで一緒に行き、ベッドの上でなかなか外せないボタンを
外してやったり、着替えるのに手を貸したりして世話を焼く。
「ゆき姉、母さんみたい…。」
とろんと半分目を閉じた健人が、微笑みながら優しい声でぽつりと言った。
「そ!私は健人くんのお母さんになってあげるの。
毎日ご飯を作って、お掃除してお洗濯して…。
健人くんが泣いて帰ったら、よしよしって慰めてあげる。
いっぱい頑張って帰ってきたら、良く頑張ったね、エライエライ!って誉めてあげる。」
笑いながら雪見はそう言った。
冗談めかして言ったが、本当にそんな存在になりたいと思ってた。
「本当に…結婚してくれる?」
健人はまた心配そうに聞いてきた。最近は事あるごとに聞いてくる。
多分彼は、それが現実のものになる一分一秒前まで不安でいることだろう。
仕事に関しては完璧主義で自信に溢れていて、飄々と堂々としてる彼なのに、
なぜ恋愛となるとこうも臆病で小心者になってしまうのだろう…。
ずっとその理由を探ってはいるものの、今だその手がかりは掴めていない。
「結婚するに決まってるでしょっ!
健人くんの方こそ、途中でやーめたっ!とか言い出さないでよねっ!
さぁ、どうでもいいけど早く寝て!八時には起こしてあげるから。
私もあと少しだけ仕事したら寝るからね。おやすみ。」
健人の白い頬に口づけて、部屋の明かりを消す。
そしてそっとベッドサイドに、誕生日のプレゼントを置いた。
おやすみなさい。良い夢を…。
「いったぁ…。ヤバッ、最悪だ…。」
もうそろそろ起こしに行こうかと思ってた矢先、寝室から声が聞こえた。
どうやら案の定の二日酔いらしい。健人にしてはとても珍しいこと。
雪見はミネラルウォーターを手に、寝室のドアを開ける。
「おはよう!って、この部屋お酒くさーいっ!もう、どんだけ飲んだのよ。」
そう言いながら雪見が部屋のカーテンと窓を開け、部屋の空気を入れ換えた。
「あ!そうそう。はいっ!これ誕生日プレゼント。
22歳と1日おめでとう!開けてみて。」
ベッドサイドから箱を手渡され、健人が開けて驚いてる。
「うっそ!これずっと欲しかったやつだ!
高かったから迷ってて、この前見たらなくなってた…。」
「あ、それ犯人は私ね。見て!私もお揃いで買っちゃった。
へへっ。自分へのご褒美。
良かった!健人くんが喜んでくれて。貸して!つけてあげる。
…うん!思った通り、今の健人くんにはシルバーよりこっちの方が似合ってる。」
それは優しい乳白色の象牙で出来たクロスペンダントであった。
「健人くんを守ってくれるように、ちゃんとおまじないもかけておいたから。」
「ありがとう!大事にするよ!」
そう嬉しそうに言ったあと、雪見にキスして頭を撫でた。
「ねーねー。それはそうと、舞台なにやるか決まったの?
この前までは、まだ選考中って言ってたけど…。」
自分の胸元のペンダントを触りながら雪見が聞いた。
「そーそー、決まった決まった!『ロミオとジュリエット』だって!
凄くね!?初舞台なのにいきなりの王道!しかも座長って、どんだけよ!
昨日はめっちゃテンションあがって飲み過ぎたぁ!」
「えーっ!うそっ!?すっごーいっ!!やったね、おめでとう!!
やだ、私の方がドキドキしてきたぁ!」
二人は朝からベッドの上で、大はしゃぎして喜びを分かち合った。
健人は昨夜の有意義な飲み会の話を、目を輝かせて雪見に聞かせ、
危うく二人とも仕事に遅刻するところである。
念願の舞台デビューへと具体的な話が動き出す。
それは新たなる斎藤健人の誕生を約束する、大きな転機でもあるのだが、
一方では二人の関係を揺るがす、危険な要素も充分に含まれていた。
だがそんなこと、幸せの真っ只中にいる健人と雪見が気付くはずもない。
数ヶ月後、まだ見ぬ道の先には一体なにが待っているのだろう…。