強い女になりなさい
「おはよー!母さん、来たよー!具合はどう?」
玄関の鍵を合い鍵で勝手に開け、靴を脱ぎながら声を掛ける。
母の抗癌剤が始まったら、こまめに様子を見に来ようと思ってたのに、
忙しさにかまけて最近は来れないでいた。
母の返事よりも先に、猫たちが出迎えに来る。
すべて雪見が拾って母が育ててくれてる猫たちだ。
「いい子にしてた?ごめんねー、なかなか来れなくて。
まだご飯もらってないの?今あげるから、待っててねっ!
あれっ?母さーん!いつもんとこに猫のカリカリ置いてないけど、どこにあんのー?」
一呼吸置いた後に返ってくるはずの返事が、部屋の中からは聞こえてこなかった。
「母さん、いないの?母さ…ん?」
心臓がギュンと縮こまり、得体の知れない不安に支配される。
玄関先に荷物を放り投げたまま、急いであちこちのドアを開けて歩いた。
居間にはいない。キッチンにも…。
客間に仏間、トイレにバスルームまで覗くがいない。
二階に駆け上り、母の寝室をそっと開ける。
具合が悪くて寝てるのだと思ったが、ベッドの上にも姿は無かった。
いよいよ不安がつのり、ドキドキしながら雪見は自分の部屋だった場所を開ける。
すると…そこにやっと母の後ろ姿があった。
「ちょっとぉ!いるんなら返事ぐらいしなさいよっ!まったくぅ!」
雪見は、泣きそうになるぐらいホッとしたのに、それを憎まれ口に変換して母を叱った。
それにしても私は、一体何に怯えて何にホッとしてるのだろう…。
「ごめんごめん。なんか急に、あんたの卒業アルバムが見たくなってさぁ。
ねっ、見て!小学校ん時のあんた、すっごく可愛いから。」
雪見が小学校入学の時に、父から買ってもらった大事な机。
その前に座っていた母が微笑みながら振り向いた姿に、雪見は思わず息を呑む。
あまりにもはかなげで弱々しく、やっとの思いで生きてるように目に映ったからだ。
抗癌剤の副作用で、すでに髪の毛も抜け始めてる。
ちょっと見ない間に、母の命がずいぶんと削られてしまった気がした。
だがそれを口に出すことなど、到底出来るはずもない。
「し、失礼しちゃう!今だって充分可愛いでしょ?
健人くんが、いっつもそう言ってくれるもん!」
「あぁ、そうですか、そうですか。それは良かった!」
母は笑った。肩で息をしながらも嬉しそうに。
母に対して、恋人ののろけ話をするようなキャラではない。
だけど雪見は、今はそう答えて無理矢理にでも笑顔を見せるのが正解だと思った。
なんで今頃、私のアルバムなんか…と喉まで出かかった言葉を引っ込めて。
「母さん、具合悪いんでしょ?そろそろベッドに戻ったら?
そうだ!猫のカリカリ、どこにしまったの?
私が世話して掃除もしとくから、母さんはもう寝てなさいっ!」
「もう仕事の時間…なの?何時にここ出るの?」
母の口からこぼれた言葉に、雪見は胸が痛くなった。
いつもは「早く行きなさい!」が口癖なのに…。
仕事に出掛ける母親にすがりつく子供の目をして、こっちを見てた。
明らかに、最初の闘病生活とは訳が違う事を思い知らされる。
母の体力も精神状態も、そして命の有効期限までもが…。
雪見はそのひとつひとつに動揺したが、少しばかり身につけた演技力でそれを隠し、
努めていつもと変わりなく母と接しようと努力した。
「あ、まだ大丈夫だよ。早くに家を出て来たから。
これからライブのリハーサルあるけど、健人くんも当麻くんも一仕事してからだから、
今日の集合時間は遅いの。
寝なくていいなら下に行こう。この部屋は寒いよ。
風邪でも引いたら大変!お約束のプリンも買ってきたし、お茶しよ!」
母は嬉しそうに「うんっ!」と微笑んで、手にアルバムを大事そうに抱え、
階段を一段ずつゆっくりと降りて行く。
その後ろを母と同じテンポで降りながら、雪見は必死に涙をこらえた。
ごめんね…。なんにもしてやれない、親不孝な娘だよね…。
静かな部屋に、コーヒーの香りがBGMのように漂う。
大好きだったコーヒーさえも飲めなくなった母は、
「でも、この香りだけで癒やされるのよねぇ。」と鼻をくんくんさせた。
雪見が買ってきたプリンを一口すくって食べ、「あぁ美味しい!」とは言ったが、
二口目を口に運ぶことは無かった。
ひとつひとつの母の気遣いが、なおさら雪見の心を悲しくさせる。
だがお互い弱音を吐くのが苦手な親子で、判っていても傷をなめ合うことは出来なかった。
「ねぇ。あんた、この卒業文集に書いたこと、自分で覚えてる?」
母が、雪見の小学校の卒業アルバムをめくりながら、文集のページを指差した。
「もちろん!歌手になりたい、って書いてあるんでしょ?」
カフェオレを一人で飲みながら、ちょこまかと手を動かし、近くの物を片付けたりする。
「それもそうだけど、綺麗なお嫁さんにもなりたい!って欲張りなこと書いてあるよ。
二つとも同時に夢が叶うなんてねっ。あんたって本当に幸せな人だ。」
母がフフッと優しく笑う。そして次に、悲しいことを口にした。
「夢を見届けられて、良かった。」と…。
涙を我慢するのも限界だった。
雪見はポロッと一粒こぼしたが最後、今まで貯めてた分も底をつくまで泣き尽くす。
だが母は、それを黙って見守るだけで、一緒に泣いたりはしなかった。
雪見が落ち着くのを見計らい、母が穏やかな眼差しを向ける。
しかしながらその眼差しとは裏腹に、威厳を持った声で雪見に言い聞かせた。
「泣きたくなったらここに来なさい。
この家の中でなら、どんなに大声で泣いてもかまわない。
けどね、健人くんの前でだけは、母さんの事では泣かないで。
あんたも斎藤健人の妻になるんなら、これぐらいのことは乗り越えなさい。」
これぐらいのこと…。母は確かにそう言った。
一粒の涙もこぼさずに自分が迎える終末を、覚悟を持って受け入れる気位を見せた。
斎藤健人に嫁ぐなら、母さんぐらい強い女になって夫を支えなさい。
それは母が身をもって子に伝える、最後の教えのような気がした。
一方、健人の言った言葉も頭をかすめる。
『俺たちこれから、みんながひとつの家族になるんだよね?
だったら心配すんのは当り前だし、だからと言ってそれを仕事にまで引きずるほど
俺はアマチュアじゃない…。』
この先、刻一刻と迫り来るであろうその日を前にして、雪見はどうするのが正しいのか
答えを見つけられずに考えあぐねている。
取りあえずはもう時間だ。仕事に行かなくては。
雪見はまた明日も来ると約束して、母に笑顔で手を振った。
明日こそ、少しでも元気な母の姿を写真に残そう…。
健人の22歳の誕生日は、重苦しい一日を予感させてスタートした。