秘密な二人
「起きて、健人くん。マンション着いたよ!
健人くんってば!あと三十分で、今野さんが迎えに来ちゃうよ。
起きろ、健人っ!」
男のような低い声で私が怒鳴ったので、助手席の健人が慌てて飛び起きた。
「ビックリしたぁ!今野さんかと思った。もう着いたの?早いなぁ。」
「熟睡モードだったもんね。 でも、だいぶ睡眠不足が解消されたでしょ。
また今日から忙しくなるけど、頑張れるよね?」
なんだか健人がぼーっとしてる。
「ねぇ。さっきのは夢じゃないよね?
俺のこと…好きって言ったよね?」
「大丈夫。夢なんかじゃないから。
私は健人くんが大好きだよ。健人くんは?」
「もちろん俺も。これって、付き合うってことだよね?」
『付き合う』を言葉で確認するなんて、制服を着てた時以来でなんだかくすぐったい。
何気ない瞬間に、私はずいぶん大人になってしまったんだなぁと思い知らされる。
「今日からよろしくね。アイドルな彼氏さん。」
健人の顔が、パッと明るくなった。
「アイドルはやめてよ(笑) 俺の方こそ、よろしくゆき姉…って、呼び方がイマイチだな…。」
「あははっ!ゆき姉でいいよ、ゆき姉で。
『雪見』なんて呼ばれても、健人くんに呼ばれてる気がしないし。
私も当分は『健人くん』だな。
ニ十年以上もそう呼んでるんだから、いきなりは変えられない。それじゃダメ?」
「いいよ、別に。じゃ、お互い今まで通りってことで。
え、やばい!もうこんな時間じゃん。早く支度しなきゃ!
じゃあ、ゆき姉。またあとで!」
健人が荷物を手に、バタバタとマンションへ入って行った。
私はその後ろ姿を眺めながら、幸せな余韻に浸ってる。
「よし!私も帰って仕事の準備をしなくちゃ!」
今まで感じたことのない、内から溢れ出す意欲にワクワクしながら家路を急いだ。
「おはようございます!今日も一日、よろしくお願いします!」
私は、各部署で忙しく準備を進めているスタッフ達に聞こえるよう大声で挨拶しながら一礼し、スタジオに足を踏み入れる。
と、そこへ、ここでの仕事初日に話しかけてきた若い女性スタッフが、再び私のもとへやって来た。
「浅香さん、おはようございます!」
「おはようございます。」
「今日も健人くんの撮影ですか?」
「ええ。二ヶ月で撮影を終わらせないと、写真集の印刷が間に合わなくなっちゃうんで。
私が撮らないことにはスタートしないんで、結構プレッシャーです。」
そう言いながら私は、この人がなんとなく健人を好きそうな気配を感じていた。
まぁ、健人くんは今や日本中のアイドルなんだから、こんな身近で毎日健人くんを見てるスタッフが、好きにならない方がおかしな話だ、と自分に言って聞かせる。
「あぁそうだ。この前話してた、健人くんが赤ちゃんの時の写真、持ってきましたよ。
あとで撮影終わったら見せますね。」
その女性スタッフは、小さな悲鳴を上げながら手を叩いて喜んだ。
「早く見たいよぉ!よし、仕事頑張るぞ!
じゃ、あとで楽しみにしてますから。」
そう言いながら持ち場へと戻って行った。
ふぅぅ…。
私はため息をついた。
この先、同じ思いを何度もするだろう。
なんだかここにいる女性スタッフ全員が、健人に恋してるように見えてしまう。
でも、仕方ない。
健人は、みんなの健人なんだから…。
日本中に好かれてる人なんだから、しょうがない。
私はそう自分を納得させるより仕方なかった。
人気アイドルを好きになったということは、そういうことなんだと自分に言い聞かせた。
「斎藤健人さん、スタジオ入りまーす!」
そう告げる男性スタッフの声で我に返り、私は気を引き締めてカメラを構えた。
今はカメラに集中しよう。
この仕事は、私だけが許された仕事。私だけに特別に与えられたものなんだ。
他の誰にも邪魔されない、二人だけの仕事なんだ。
「私は健人の彼女なんだから!」という自信は、まだ生まれていない。
彼女だから大丈夫、と思えるほど二人は愛を重ねていなかった。
なんせ、ついさっき恋人同士になったばかりなのだから…。
スタジオ入りの瞬間を狙う。
「おはようございまーす!」
セットに向かって歩く健人は、私のカメラを見つけて一瞬、舌をペロッと出した。
『…は? なにそれ。』
私は、誰かに見られてはいないかと周りをキョロキョロ。
『あんまり変なことしないでよ。疑われるでしょ?』
そのあとも、健人はちょいちょい素知らぬ顔でアピールしてくる。
私がファインダーを覗いてるのを知ってて。
その度にギョッとしてカメラを下ろすのだが、どうやらその反応を面白がってるふしがあるので、私はわざと無視してカメラを構えた。
健人のブーたれた顔!
悪ふざけが通用しなくなったとみて、やっとおとなしく仕事する気になったようだ。まるで子供。
「お疲れ様でしたぁ!休憩挟みまーす!」
その声を合図に、さっきの女性スタッフが私の元へ駆けてくる。
「浅香さん!約束の写真、見せて下さい!」
「あ、いいですよ。
ほら、これ。かわいいでしょ?子供の頃の健人くん。」
私は、古いアルバムからチョイスしカメラバッグに入れてきた数枚を、彼女の前に差し出した。
「えーっ!これ健人くん?なんかイメージがちょっと違う!」
「そうでしょ?だから私も、親戚の健人くんが俳優さんになってたの、ずっと気がつかなかったの。」
「え、嘘でしょ?こんなに人気者なのに。
私が親戚なら、みんなに自慢しまくりだけどなー。」
「なに盛り上がってんの?」
そう言いながら健人が、二人のところへやって来た。
「あ、お疲れ様でしたぁ!
今、浅香さんに写真見せてもらってたんですぅ!
浅香さん、最近まで斎藤さんのこと、俳優さんって知らなかったって本当ですかぁ?」
そのスタッフは、健人が来たとたん声色を変え、あろうことか両手で健人の腕にしがみついた。
その瞬間、私の中でボッと炎が点火した。
よーし、見てなさいっ!