分かち合う悲しみ
雪見の流した大量の涙によって、確実にバスタブの中は塩辛くなり
湯量も増したことだろう。
直に感じる健人の温もりと鼓動は、それほどまでに雪見の心をも丸裸にし
今の感情に見合っただけの涙を、すべて出し切らせてくれた。
「少し…落ち着いた?のぼせちゃうから、あとは出てから話そうか。」
「うん…。」
抱き締めてた手を緩め、そっと肌を離した健人は
雪見の頭をもう一度優しく撫でた後、先にバスルームを出て行った。
雪見は、服を着てると華奢に見える健人の、実はしなやかに鍛えられた背中を見送って
「ふぅぅぅ…。」と大きく息を吐く。
そして最後に、お湯をバシャッ!と顔に掛けて涙を洗い流してから
「よしっ!」と気合いを入れ、バスタブからスックと立ち上がった。
「お水、飲む?」
ルームウェアに着替え、伏し目がちにリビングに入ってきた雪見。
そこへ、先に上がっていた健人がミネラルウォーターを差し出した。
「いや…ビールがいい。」
「よかった…。少し元気になってくれたね。よし、飲もっか!」
健人は安堵の表情を見せた後、ニコッと笑って冷蔵庫からビールを取り出し、
雪見と並んでソファーに座った。
いつもは元気いっぱいする乾杯も、さすがに今は場違いな気がして
お互い静かに飲み始める。
しかし健人は、さっき自分がバスルームで取った行動を急に思い出し、
やっちゃった…と頭をかいた。
「さっきはごめん…。」
「えっ?なに…が?」
「俺…どうやってゆき姉のこと慰めたらいいのか、全然わかんなくって…。
深く考えもしないで、おちゃらけて乾杯!とか言っちゃったけど、
ほんとはゆき姉を傷つけたんじゃないかと思って…。ごめん…。」
健人は雪見に向かって神妙な面持ちで、ペコンと小さく頭を下げた。
それを見た雪見の胸が、キュンと音をたてる。
『自分なりに精一杯、私を元気づけようとしてくれてたんだね。
ありがと、健人くん。
私なら大丈夫。健人くんさえ隣りにいてくれたら大丈夫だから…。』
そう思ったら、今度は急に健人のことが心配になった。
もしかして、私以上に落ち込んでるのは健人くんかも!と。
「え?あぁ!お風呂入って来てすぐのこと言ってんの?
傷つくも何も、いきなりのハイテンションだったからビックリしたよ。
こっちの方こそ、健人くんになんかあったんだ!って心配になった。」
雪見は、なんとか健人の気持ちを元に戻してあげたい一心で、
極めて明るい口調で話をする。
すると健人の顔にも、スッと明るさが戻ってきた。
「あれ?そうなの?俺、そんなに下手くそな演技だった?」
「うそ!あれで演技してたの?だったらオーディション落っこちるよ。
だってセリフに何にも間が無くて、ずーっと一人で喋ってたじゃん!
私が今まで見た中で、一番下手くそな斎藤健人だった!」
そう言って雪見は、可笑しそうにケラケラ笑った。
と、突然健人は雪見を抱き寄せ唇を重ねたあと、ギュッと抱き締め
「よかった…。」と耳元でつぶやいた。
「もう笑ってくれないかと思った。」と…。
抱き締められる強さに、健人の心の内が読み取れる。
雪見は、またしても健人を心配させてしまったんだ…と胸を痛めた。
それと同時に、きちんと今の思いを言葉にして伝えなければ…とも。
「ごめんね…。私って、心配かけてばっかいるよね…。
でもほんと、大丈夫だから…。
私には健人くんがいるもん。だから大丈夫。」
「ゆき姉…。」
自分に言い聞かすように言った雪見が健気で可哀想で、健人は抱き締めた手を
いつまでも緩めることができなかった。
「私ね、健人くんには母さんの事、まだ言わないつもりでいたんだ。
健人くんが悲しい顔するのも、心配そうな顔するのも、ましてや私に
気を使うのも嫌だったから…。
健人くんには、常にベストな精神状態で仕事がして欲しいの。
私の身内の事で、迷惑かけたくなかったの。だから…。」
その時、健人がスッと身体を離し、雪見の目を見て言った。
真っ直ぐに、確固たる意志を持った強い瞳で…。
「ゆき姉、それは間違ってるよ。
俺たちこれから、みんながひとつの家族になるんだよね?
ゆき姉の母さんは、俺の母さんになるんだよね?
だったら心配すんのは当り前だし、だからと言ってそれを仕事にまで
引きずるほど、アマチュアな気分で仕事してる訳じゃないから。
それに俺、もうそんな子供じゃねーし!ゆき姉は俺を過保護にし過ぎる!」
すぐには言葉が返せなかった。
何一つ反論の余地は無く、すべてが真っ当な話であって、いかに自分の考えが
独りよがりの勝手な思い込みであるのかを、雪見は健人によって思い知らされた。
そして無意識のうちに健人を子供扱いし、プライドを傷つけていたのだと…。
「ごめん。そうだね…。健人くんの言う通りだよ。
私、健人くんのこと、いつまでも子供扱いし過ぎた。
こんなに立派な大人のいい男になったのに、それに気付かないでるなんて…。
ほんとにいい男になったね。ありがとう…。」
そう言いながら、今度は雪見が健人を抱き締める。
お互いがお互いを抱き締めてると、結婚ってそう言う事なんだ、と改めて納得できた。
そうだ!でも肝心なことを聞きそびれてた!
「ねぇ…。母さんのこと、誰に聞いたの?」
雪見には、大体の察しは付いてるが…。
そっと身体を離した健人は、雪見の目を見て答えた。
「ゆき姉が帰ってくる少し前、おばさんから電話をもらった。」
「やっぱりね…。」
思った通りだ…と雪見は冷静に思う。
雪見の中では、ニューヨークから戻るまでは健人に言わないつもりだったが、
だからと言ってそれを母に破られたと、憤慨する気もなかった。
「多分雪見は今日、健人くんに話すつもりは無いだろうけど、
でもこれから健人くんには、雪見を支えてやって欲しいから、って…。
おばさん、すっげえ明るく話すから、最初は冗談でしょ?って聞いてた。
けど最後に、あの子をよろしくお願いします、って涙声で言ったから
本当の事なんだ、って…。」
「そう…。」
バスルームであんなに泣いたのに、まだ涙は残っていた。
ポロポロポロポロ涙が溢れるのだが、今度は頬を伝う涙を二、三度
指先で拭った後、笑って見せた。
これ以上、健人を悲しませてはいけない、と。
「ごめんねーっ!おじいちゃんといい、母さんといい、あの親子
ほんといきなり電話かけるの好きだよね!
あれ?いきなり行動に移すのって、私、完璧に血を受け継いでるじゃん!
やだぁ!親子三代、同じ行動パターンなのぉ?」
すると健人が笑いを堪えて言う。
「じゃあ四代目にも遺伝するか、実験してみよっか?」と…。
デキ婚だけは勘弁ね!と笑いながら、二人は長い一日を終えることにした。
そう!私には、こんなにたくましい人がついてるから大丈夫!