きっと大丈夫
雪見の思いがけない言葉に「えっ!?」と驚いた後、母は少しの間を置いて
「そんなのダメだよ。」と静かに言った。
「健人くんと結婚すると決めたなら、全力で彼をサポートするのがあんたの役目でしょ?
あんたがサポートするのは母さんじゃない。健人くんなんだよ。」
母は、突き放すような厳しい目をして雪見を諭す。
だけど、それが精一杯の演技である事を雪見は知っていた。
「一緒に暮らそう!」と言ったとき、母は一瞬嬉しそうな顔を見せてしまったから…。
「でも、母さんとの時間は限られてるんだよ!
娘なんだから、母さんを優先したいに決まってるじゃない!
健人くんとは、まだまだ先の時間がある。
健人くんだってきっと、そうしてあげなさいって言うに決まってる!」
「言うかも知れないね。だけど…それが本心だと思う?」
「えっ…?」
母の言う通りだった。
寂しがり屋でひとりぼっちが嫌いで、雪見が大好き。
今の健人は雪見と一緒に暮らす事で精神の安定が保たれ、仕事において
最高の力を発揮出来てる。
そんな健人を一人残し、雪見が実家に戻ったら…。
その後の健人の様子は、容易に想像がついた。
母と健人の間で雪見の心は、振り子のように大きく揺れ動き葛藤していた。
どっちも同じくらいに大切な人。
だけど母の命には限りがある。いなくなってから後悔したくない。
私やっぱり母さんと…と言おうとしたら、母が先に口を開いた。
「暇を見て、今までよりも顔を出してくれれば、母さんはそれで充分!
そうだなぁー。抗癌剤が始まったらきっと、お掃除とか猫の世話とか
手抜きになっちゃうだろうから、たまに来てお掃除してくれたら嬉しいな!
あとは何かあったら、ちゃーんとSOS出すから、母さんの事は心配しないで
あんたは健人くんのお世話を、しっかりしてあげなさい!」
にっこり笑った母は、「あ!今度来る時のお土産は、美味しいプリンがいいな!」
と、茶目っ気たっぷりに付け加えた。
そう…。そうなんだ。母は昔から、そういう人。
人に迷惑かけるのが大嫌いな人。たとえそれが家族であろうとも…。
誰にも迷惑をかけず、ひっそりと命を終らせようとする母の姿が、頭の片隅を横切った。
帰り道。ハンドルを握りながら、健人に何と伝えるべきかと雪見は悩んでいる。
母の十年前の発病も知らない健人は、もちろん驚くだろう。
乳がんに関する知識など皆無だろうから、再発転移の示す意味すら判らなくて当然だ。
特に母の場合、すでに肺と骨に遠隔転移があり……。
やっぱりダメだ…。
ニューヨークに雪見と一緒に旅立つ日を、子供のように指折り数えて
心待ちにしてる健人に、こんなリアルな話はしたくない。
札幌公演が成功した事で歌に対する不安が消え、健人の瞳はすでにツアーではなく
その先を見ている。
時間が少しでもあれば英会話のCDを聞いて勉強してるし、雪見にしても
向こうのレッスン場で通訳が務められるよう、芝居に関する専門用語の勉強を
つい最近始めたばかりだった。
ましてや今は俳優業とアーティスト活動で、もっとも忙しい時期。
一番大切な精神の安定を自ら壊すような話は、たとえ母の一大事であろうとも、
言ってはいけない気がした。
ニューヨークから帰国するまでは、やっぱり黙っていよう…。
帰宅すると、まだ帰ってないと思ってた健人がすでに居た。
「あ!お帰りっ!おばさん、元気だった?
俺もちょっと前に帰って来たとこ。ゆき姉も飲む?」
雪見の顔を見た途端、嬉しそうに微笑んだ健人を見て、母の事を伝える気は
まったくもって消え失せた。
風呂上がりだったらしく、健人は肩に掛けたタオルで髪を拭きながら
缶ビールを飲んでいる。
「いや、私も先にお風呂入っちゃう。夜の運転はなんか肩が凝って。 」
そう言って首をわざとグルグル回しながら、健人の前から立ち去った。
もう少し綿密なシナリオを作らないと…。
バスタブに身を沈め、ここから出た後の会話をまずどうするか考える。
「ちょうど大阪公演当日から、一回目の抗癌剤治療が始まる…。
一回目だけは入院して治療するから心配ないけど、問題は二回目以降。
外来でとなると、やっぱ家に帰った後が心配だもんなぁ…。
十年前も吐き気は相当つらそうだったし、あんなんで仕事になんか行けるわけ
ないと思うんだけど…。
それともいいお薬ができて、今の抗癌剤はつらくないのかなぁ…?」
雪見が、うーん!と湯船の中で、伸びをしたその時だった。
「なにゴチャゴチャ、ひとりごと言ってんの?ねぇ!俺も入っていい?
冷たいビール持ってきたんだけど!」
「え?ええーっ!?」
うそっ!今の話、聞かれてたっ!?
雪見が慌てて白い入浴剤を入れ、バタバタかき回してると、
「入るよ!」と言いながら、さっさと健人が入って来てしまった。
バシャン!と雪見と向かい合わせに身を沈め、「ほいっ!ビール!」と
一缶を突き出す。
「じゃ、今日もお疲れっ!カンパーイ!」と勝手に缶を合わせてきた。
「うめーっ!今度さ、どっかの温泉の露天風呂で、こーいうのやりたいねっ!
露天風呂が部屋に付いてる、高級和風旅館とかあるじゃん!
でさ、冬に二人で雪見酒とか、いいんじゃない?
あーっ!俺、今スッゲーこと気が付いた!今も雪見酒だ!
初めて気がついた!ゆき姉の雪見って名前、雪見酒から付けたのぉ?
だとしたら、どーりでお酒が強い訳だ!」
入ってくるなりハイテンションに喋りまくる健人に呆気にとられ、
雪見はビールに口もつけずに、目をぱちくりさせていた。
「いや…名前の由来は聞いたことないけど…。
まさか、そんなとこから付けないでしょ。それに私、六月生まれだし…。」
「誰に付けてもらった名前なの?」
「札幌のおじいちゃんが付けてくれたらしい。」
「じゃ、絶対そうじゃん!
札幌は雪が積もるし、おじいちゃんはお酒好きだし、絶対そうだー!」
なに?この健人くんのテンション。現場でなんかあったのかな…?
そう思って、不思議そうに健人の顔を覗いたその時だった。
いきなりグイッ!と凄い力で抱き寄せられ、雪見はびっくりした。
「ど、どうしたのっ?なんか…あった?」
すると健人は雪見の頭をそっと撫でながら、落ち着いた声で静かに言った。
「おばさん…。きっと大丈夫だよ。医学は絶対進歩してるから…。」
「えっ!どうして知って……」
思いもしなかった健人の言葉に、雪見の瞳からは一気に涙が溢れた。
健人の素肌に抱かれながら、雪見は生まれたての赤ん坊のように
いつまでもいつまでも泣いていた。






