ゴーサイン
「俺たち…、いえ、僕と浅香雪見さんは…結婚することに決めましたっ!」
「なっ、なにぃーっっ!?」
健人の声は、少し上ずっていたかもしれない。
もしもこれがドラマのワンシーンであるならば、健人は自ら
「もう一度お願いします!」と、監督に撮り直しを頼んだことだろう。
だがこれは、台本に書いてあるセリフではなく、リアルに自分自身の言葉なのだ。
それが少し不思議な気がして、健人はもう一度心の中で、今の言葉を反すうしてみた。
それと同じように小野寺と今野も、健人の口から吐き出された言葉が、
ドラマのセリフであるかのような錯覚を覚えた。
いや、正確には、そうであって欲しいと願っていた。特に小野寺は…。
「お前…自分で今なに言ったのか、わかってんの…か?」
「もちろん、わかってます!俺の人生で、一番大切な決断ですから!」
そう言い切った健人の声は、もう上ずってたりはしなかった。
真っ直ぐに強い目力で小野寺をキッと見据え、はっきりとした口調で言ったあと、
隣の雪見をふんわりと見る。
その、いつにも増して柔らかな健人の微笑みは、怖さに震えていた雪見の心を
そっとまあるく抱きかかえ、『何にも心配はいらないよ。』と耳元で
ささやいてる気がした。
健人が見せた、頼りがいある大人の男らしさ。
雪見を守り包み込む、柔らかいけれども強い信念を持った心を感じた時、
雪見の中から怖さがスッとどこかへ消え去り、『この人となら…健人くんとなら、
どんな困難にも一緒に立ち向かって行けるはず!』そう確信できた。
その瞬間、雪見のいつものスイッチがパチリと切り替わる。
誰かが乗り移ったかのように目の色が変り、いきなりダンッ!と会議室の長テーブルに、
両手を付いて立ち上がった。
「健人くんは私が一生サポートして、この事務所にとってかけがえのない、
超大物俳優にしてみせますっ!
だから私が健人くんの人生の、専属マネージャーになる事を許可して下さいっ!!」
突然豹変した雪見の迫力と勢いに圧倒されて、言葉も出ない小野寺。
今野や健人までもが呆気にとられて、一瞬ぽかーんと雪見を見つめた。
が、すぐにおかしさがこみ上げてきて、あろう事か今野は小野寺のすぐ隣で
ワッハッハ!とお腹を抱えて笑い出したのである。
「なっ、なに笑ってんだ、今野っ!お前、笑い事で済まされる事かっ!
健人が結婚するって言ってんだぞっ!!」
「いーじゃないですか!結婚、大いにケッコン!いや結構!なんちゃってー!
それに雪見の、なんて雪見らしいセリフ!初めて会った時をまた思い出したよ!」
「はぁ?この場でおやじギャグ…です…か?」
ついに今野が壊れてしまったのかと、健人も少々心配になる。
「ばかやろう!お前と雪見があんまりにも煮え切らないから、俺はストレス溜まって
早死にするとこだったぞ!ダジャレのひとつくらい言わせろっ!」
「今野ッ!お前、全部知ってたのかっ!?こいつらが結婚する事も!」
雪見は、小野寺が隣の今野に掴みかかりはしないかと、ヒヤヒヤしながら二人を見てた。
「結婚は知りませんでしたよ、今が初耳です。けど、そうなればいいなとは思ってました。
健人には雪見が必要なことぐらい、常務もおわかりだったでしょ?」
「えっ…?」
今野に言われて小野寺は、素知らぬ顔をしようとした。だが…。
「まさか、知らなかったなんて言わせませんよ、常務!
二人が同棲してる事も判ってて、何も健人に注意をしなかったのですから、
常務も私と同罪です!」
「同罪って!今野、俺を脅す気かぁ!?」
小野寺の頭に血が上って、顔が赤らんでいる。
「まぁまぁ、落ち着いて下さいよ、常務!血圧が上がりますって!
真面目な話、私はこの二人の結婚は大いに賛成です。」
「今野さんっ!」
健人と雪見は、心強い応援団に笑顔を見せた。
「待てっ!早合点するな。結婚は賛成だが、今はまずい!
折角デビューしてファンが増えてきてるのに、今結婚がバレるとツアーの客入りにも
大きな影響が出る!
だから雪見を引退までに、充分ビッグアーティストに育ててから三月以降、
ドカンと結婚を発表するんだ!
人気者同士の結婚は大きな話題になるが、マイナスイメージは最小限にできる。どうだ?」
今野のドヤ顔に、健人は言いずらそうに頭を掻いた。
「あのぅ…。最初っから、結婚は六月にするつもりだったんですけど…。
俺がニューヨークから帰る前に、あっちで式を挙げてこようと…。」
「えっ?そうだったの?」
今野は自分の早とちりが少々恥ずかしい。小野寺が隣りから白い目で見てる気がした。
「ニューヨークにはゆき姉と一緒に行って来ます。
この人、こう見えても英語話せるらしいし。」
そう言って健人は、まぶしい物でも見るかのように目を細めて雪見を見た。
「あ、一応大学じゃ、英語で論文とか書いてましたから…。
向こうで少しは、健人くんの助けになれるんじゃないかと思います。」
「おおっ!それは有り難い!こっちも安心して健人を送り出せるよ。
そういや、あのなんとか賞を受賞した凄い科学者と、同じゼミで研究してたんだったな!
何て名前だっけ?難しい名前だったような…。」
小野寺が余計な所を突っ込んできたが、さっと話題を切り替えるために素早く雪見が答える。
「あぁ、『なしどまなぶ』です!
そんな事より、私達の結婚は許して頂けるんでしょうか!?どうなんですかっ?」
またしても雪見のたたみ掛けるような大声が、会議室に響き渡る。
「シィーッ!声が大きいっ!これはここにいる四人だけの機密事項だ!
トップシークレットだぞっ!わかったな!!」
仕方ないという顔を大袈裟にして、小野寺が声を潜めて三人に言って聞かした。
その瞬間の健人と雪見の顔といったら!
「あ、ありがとうございますっ!!俺、絶対ゆき姉を幸せにしてみせますっ!」
健人が立ち上がり、小野寺と今野に何度も頭を下げた。
「おいおい!それは雪見の親に言うセリフだろっ!撮影ならNGだぞ!
しっかりしろよ、新米夫くん!」
今度は遠慮なしに、一際大きな笑い声が会議室にこだまする。
我が子を見つめるような二人の眼差しは、健人と雪見に前へと進む勇気を与えてくれた。